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肝臓をいただく、ということ⑤

手術後

これは私があとから聞いた話だ。
手術はほぼ予定時間通りに終わったそうだ。レシピエントで長い人だと日付を超えることもあるというから、順調に進んだのだろう。
夫の手術が終わっても義理の父母、親戚のTさんは残ってくれて、私の手術が終わるのを妹と待っていてくれた。
待つ場所は9階のラウンジなので手術前に私も待っている家族の姿を見る機会がたびたびあった。みんな長い待ち時間になるとスマホを見るのも本を読むのも飽きて、疲れた顔をして座っている。そしてラウンジに看護師さんがくるたびに顔を上げ、を繰り返していた。

私の手術が終わったとき、妹は大声を上げて泣きじゃくったそうだ。
義母とTさんが「よかったね、よかったね」と妹を抱きしめてくれたという。

家の様子

母と妹が私の家に来てくれた翌日から次男のSが体調を崩して、学校を休んだ。
だけど実は私は本当に体調が悪かったのかどうかは怪しいと思っている。
家にいて2人が「タッパーはどこにあるの?」「お米のストックは?』などと分からなくて困っていることがあると教えてくれていたそうだ。
大まかなことは説明したつもりだったが、実際に使ってみて分からないことが出てくるとSがすぐに駆けつける。
母は「Sくんは家のことはなんでも把握していて、すごいわね」と感心していた。
Sは2人が心配で、家にいてあげたくて体調が悪いと言っていたのかもしれない。
献立も食べ盛りの中高生が何を食べたがるのか、男の子を育てたことのない母には不安もあっただろう。Sが1週間分の献立を立て、近所のスーパーまで妹と買い出しにも行ってくれた。
母と妹が少しだけ私の家での生活に慣れたころ、Sは学校に行き始めた。
朝、母が作ったお弁当を2人ともきれいに食べてきた、と母はものすごく嬉しそうだった。
長男Rは学園祭の写真を母と妹に見せながら、学校の話をたくさん聞かせてくれたそうだ。
Rはいつも楽しそうで私はそんなRをよく見ているけど、母は高校生の男の子が学校の話を聞かせてくれるなどはイメージになかったらしく、驚いて喜んでいた。

4人で餃子を作ったこともあった。Sは私が作る餃子が大好きだ。あんに味をしっかりめにつけて、醤油などをつける必要がない餃子で、皮のパリパリ感が楽しめるのだ。Sがそのレシピを取り出して、みんなで作ろうということになったらしい。母と妹2人だと餃子は10個作ればいいと言うが、うちでは50個作ってすべてなくなる。母と妹、R、Sと4人がかりで包んだそうだ。Sはたまに手伝ってくれるが、Rはほぼ初めて。「上手くできないよ〜」と言いながらも一生懸命やっていたという。そしてホットプレートで一気に焼く。それはSがやってくれた。母と妹にとっては初めての豪快な餃子パーティで、とても楽しかったと言っていた。

母と妹が帰る日「朝早く出るから寝ててね」と子どもたちに言ってあったそうだ。
朝、いつも遅くまで寝ているRが起きてきた。何もするでもなくソファに座ってスマホをいじっている。
「行くね」と声をかけると玄関先まで一緒に来て
「ありがとうございました」
と頭を下げた。母と妹とそれぞれ握手をして、2人の姿が見えなくなるまで玄関で見送っていた。
母も妹も涙を堪えるのに必死だったという。

第1ICU

第1ICUで目が覚めたのは一体いつだったのか、分からない。
そして第1ICのことは、あまり覚えていない。
私は一晩くらい寝ていたつもりだったが、2~3日が過ぎていたらしい。
状況は一変していた。
まず周囲に見えるのはあちこちで光るモニターと大量の点滴。これがMさんが言っていた「屋台の風鈴売り」なんだなと思った。
点滴の針を首に入れると聞いたときはものすごく怖かったけど、目覚めたらもうその状態だった。ただ首をどこまで動かしていいのかが分からなかった。
身体に入っているチューブも一体何本入っているのか分からない。
唯一、傷は痛くないみたいで、気にならないのが幸いだった。
自分を見ることができなかったから、私は今、どんなだろうと考えたが、見当もつかなかった。

ベッドの上で座る

目が覚めた翌日だったと思うが、”ベッドで身体を起こし、テーブルに両手をついて上半身を支えながら座る”というリハビリが始まった。
ろくろく身体も動かないのに、もう座らないといけないのか、とうんざりしたが、傷の治りは身体を動かした方が格段にいいそうだ。
また寝てる時間が長いほど筋力が衰えるから、日常生活に戻るのが大変になる。
看護師さんが言っていることは分かるが、キツい。
身体のどこもかしこも重くて、持ち上げるのがやっとだ。
身体を起こす、ベッドの縁に近づく、身体を45°回転させて座る、足を下ろす、靴を履く。
ひとつひとつがひとつも上手くできない。
看護師さんは「すごいよ!」と励ましてくれるが、そのまま5分ね、と付け加える。
時計をずっと見つめても、ちっとも時は経たない。
頭が重くて、どんどん下がっていく。
座るというより、テーブルに突っ伏すという感じだ。
もう保たないと思ったところで5分だった。
もう一度、靴を脱ぐ、足を上げるから順を追って元の体勢に戻るまでには息がきれてしまっていた。

夫と再会

第1ICUの面会時間は14:00〜15:00と19:00〜20:00、1回2人30分までと決まっていた。
看護師さんから夫が面会に来てくれると聞いた日は14:00が待ち遠しかった。
夫は車椅子に乗って、面会に来てくれた。
姿を見た瞬間、泣けて泣けて仕方なかった。
泣けたのは、元気にしている、変わらず笑っているというのと、歩けないんだというのが一気に突き付けられたからかもしれない。
でも純粋に会えて嬉しかった。
5分座っているのはキツかったのに、身体を起こして30分夫と話す時間はあっという間に過ぎていく。
夫はメモを取り出すと「9北の看護師さんたちから『病棟に帰ってくるのを待っているよ、頑張って』って声かけられたよ。プライマリーナースのYさんとか、KさんとかIさんとか、すごく心配していたよと看護師さんの名前を挙げていく。
「Kさん、分かる?Kさんは名前を言えば分かるって言っていたけど」と夫に聞かれ「もちろん分かるよ。仲良しだもん」と答えると、「みんなが麻里のこと気にしていて、麻里の凄さを知ったよ」と言っていた。「私もだよ」と思った。
夫の車椅子を押して来てくれたのは9北で私のシャワーを手伝ってくれたり、検査に連れて行ってくれたりしてもらった看護師さん。笑顔がほっとするほど優しい人で、年下の彼女にいつも甘えていた。その看護師さんが夫と一緒に来てくれたのも嬉しくて、2人が帰るとき声を上げて泣いた。
私が9北に戻ってからその看護師さんに聞いた話だが「早く麻里さんに会いたいだろうと思って、だんなさんにはけっこうハードにリハビリしてもらっちゃったの。でも面会に行っても行っても麻里さん目を覚まさないから『もう行きたくない』って涙ぐんでいたときもあったのよ」と言っていた。
だから2人が話しているのを見たとき、すごく嬉しかったのよ、と。

夫の退院

それからは退院するまで、毎日顔を見せに来てくれた。私が普通に話す、笑う、そのひとつひとつが驚きと喜びだったようだ。
息子たちも顔を見に来てくれた。
2人がICUという特殊な病棟をどう感じたのかは分からない。あのすごい点滴の量やモニターは、大人だったら医療ドラマなどを連想して怖くなるかもしれない。2人はいつもと何も変わらなかった。
妹の話を聞かないなと思っていたら手術後、大号泣して義母に抱きしめられたとき「Aちゃん、身体熱くない?」と聞かれたそうだ。
ほっとしたのかすごい熱を出して寝込んでいるという。
妹の細い身体や心にそんなに負荷がかかっていたのだと思ったら、かわいそうだった。

手術から6日後の12月31日、夫が退院した。
義父母が迎えに来てくれて、義母がしばらく家で子どもと夫を見てくれるという。
1人になっちゃった、と思った。
ICUは知らない看護師さんばかりで慣れないし、個室だ。
スマホは持ち込み禁止なので、誰かと連絡を取ることもできない。
面会に来られるのは家族のみと決まっている。
ぼーっと天井を見ながら、自由になるのは手の先と足首、あとは涙を流すことくらいだった。

せん妄

手術前からせん妄が起こる可能性については看護師さんから説明を受けていた。
せん妄とは脱水、感染、炎症、貧血、薬物など、身体的な負担がかかった時に生じる「意識の混乱」だそうだ。 入院患者の2~3割に起こると言われている。
術後は点滴や身体のチューブなどを引き抜く恐れがあるため、看護師が危険と判断したときには拘束という強い手段で患者の安全を守ることもある。
「拘束」、両手首をベッドに縛り付けると言う手段は看護師さんだって取りたくはない。
でも仕方ないときのために同意書は書いていた。
ICUでは毎日のように「今日は何月何日?ここはどこ?」と聞かれていた。
自分では分からないが、私は結構、せん妄が起きた患者として記録されていたらしい。
手術後に騒いだような気もする。
拘束された覚えもある。
お世話をしてくれている看護師さんに「ありがとうございます」と伝えたかったのに、「夜中に大きな声を出さないで!」と怒られたこともある。

記憶の断片を探ると確かに混乱していたのかもしれないが、自分の言っていることが訳の分からないことと思われていると少し悲しかった。

せん妄の症状

意識の曇りとともに幻覚や幻視、つじつまの合わない行動などを起こす。具体的には「どこか分からない」「理解力の低下」「誰か分からない」「声が聞こえる」などで、それに伴い「家族や看護師に暴言暴力を振るう」「ベッドの上で騒いだり、物を投げる」「点滴コードを引っ張る」などが挙げられる。
家族はつじつまの合わない話でも問いただしたりせず、いつも通りの声かけをし、場所や日付などの分からないことは教えてあげる。カレンダーや時計も有効。
私は100からマイナス7をずっとしていくという課題を毎日やらされた。
心の中で「これけっこう難しくない?」と思っていた。

ICUの1日

ICUも起床は6:00だ。そこから長い1日が始まる。
看護師さんは1人に1人がつき、しっかりケアをしてくれるが、どこもかしこも重症のひとばかりなので、病棟は常にバタバタしている印象だった。
6:00  起床
    検温、血圧・体重測、レントゲンなどの検査
8:00  朝食
10:00  身体拭き、ガーゼ交換、着替え
12:00  昼食
     リハビリなど
18:00 夕食
21:00 消灯
レントゲンやエコー検査などは機械を病室に持ってきて検査した。
体重もベッドごと測って、あとからベッドの重さをマイナスするという方法で測る。

生きるのに必要最低限のことしかしないので、生活は至ってシンプルだ。
水を飲んでいいという許可が下りるまでは毎日、水のことだけ考えていた。
やがて食事もOKになった。最初の2〜3日は飲み物とおかゆだったが、徐々に普通食になっていった。
最初に出た午後の紅茶がものすごく美味しくて感激した。
でも食事はほぼ食べられなかった。

赤ちゃんみたいになにもできない。
赤ちゃんと違うのは首がすわっていること、重いこと、話せること、恥ずかしいという気持ちを知っているということだけだ。
排泄も1人でできず、身体も1人で動かせない。
私が出会った手術後のみんなは、こんなに絶望しかない状態を乗り越えて笑っていたのか、私に優しくしていてくれたのかと思ったら、涙が止まらなかった。

わたしにはむりだ。

1日のほとんどはぼーっとしていた。
暇だからといって寝ていると、夜眠れなくなって生活のリズムが乱れるからと起こされる。
刺激といえば苦痛でしかないリハビリと看護師さんの勤務交代くらい。
夜勤と日勤の看護師さんが交代するとき、点滴の種類と落とす速度の確認のため読み合わせをする。
その声を聞いていると眠くなってうとうとしていると「寝ないで。TVでも見ていて」と言われる。
仕方ないからTVを見るが、普段からそんなに見ないし、お正月特番で温泉特集ばっかりで興味がない。
親友のA代ちゃんが差し入れしてくれたラジオは唯一の心の慰めだった。

逃亡計画

もう、いやだ。
看護師さんは刑務所の看守のようだった。
ここからなんとか逃げ出す方法はあるか、ということを考え始めた。
着替えがない。
でも、一応パジャマを着ているし、靴はあるから大丈夫だろう。寒いけど病院だから玄関にタクシーがいるはずだから、すぐ車に乗れるだろう。
現金とスマホがない。
家に着けばなんとかなるか。
点滴の管を外すのはものすごく怖いけど、点滴をしたままだとタクシーには乗せてくれないから抜くしかないか。
首の針は抜いたらどうなるのだろう。身体に入っているチューブは?
そもそもタクシーまで歩けないけど、どうすればいい?
このあたりから面倒くさくなって、明日考えようと思う。
これを毎日毎日、繰り返していた。

ある日、看護師さんがベッドで髪を洗ってくれた。
丁寧に乾かしたあと、伸び切った髪を編み込みにしてくれた。その後もおだんごなどのヘアアレンジをしてくれて、すごく気分が上がった。
同じころ看護師さんがカレンダーを作って持ってきてくれた。
1日が終わったら射線を引いていく。
その線を引く瞬間は嬉しかった。

単純なもので看守だと思っていた人は、私が今まで接していた看護師さんと何も変わらない、患者のことを第1に考えてくれる医療関係者だった。
ただ、私に余裕がなくて、コミュニケーションが取れずにいただけだ。
そして名前を覚えたり、「ありがとう」と言うこともできなかった。
ICUは好きにはならなかったが、逃亡は止めようと思った。

C先生

C先生は私の外科の主治医だった。
一見、東大医学部卒の真面目なエリート先生という印象だったが、実はとても人間味のある人だった。
親しみやすい口ぶりや笑顔の向こうにしっかりとしたC先生の信念がある。そこにはC先生のたくさんの経験と愛情、細やかな観察があって、いつも安心していられた。
9北でのことだが、点滴の針が入らなくて、C先生に入れてもらったことがあった。
看護師さんも研修医の先生もダメだったのに、C先生があっさり処置するのを見て「すごいですね〜」と言ったら「僕の後には誰もいないからね。僕ができないと患者さん、点滴できないから。入らないんじゃない、入れるんだよ」と言っていた。

C先生といつ気軽にお話できるようになったのかは覚えていない。
するりと私の中にいて、大きな存在となっていたという感じだ。
ICUでやることもなく「Dr.コトー診療所」の再放送を見ていたときだ。
「C先生はなんで医者になったんですか?医者の家系とか?」と聞いたことがあった。すると「医者の家ではないよ。僕は『ER緊急救命室』というドラマを見て医者になりたいと思ったんです。医者はロマンチストなんですよ」と言った。
医者は理系のリアリストなのかと思っていたら、原点はロマンチストなのだそうだ。
「人の命を助けるために、運命と戦う」それが医者という仕事だとしたら、確かにロマンチストなのかもしれない。

リハビリが辛くてC先生に「最近、ケガや病気から復活したアスリートとか見ると、無条件に泣けてくるんです。辛いリハビリをして日常生活に戻るだけでなく、アスリートに戻るなんて考えられません」と言ったこともあった。
するとC先生は「アスリートはもともと精神面の強さも違うし、目標達成意識も高いから」と言いながらも「長嶋茂雄のリハビリはすごいよ。老人のリハビリではないよ。YouTubeで見られるよ」。
「先生、YouTubeでアスリートのリハビリ見るんだ、忙しいのにいろいろなところにアンテナ張っているんだな」と思った。

C先生にはなんでも言った。
「あの検査は痛いから嫌だな」とか「息子の受験が心配なんです」とか、C先生は私のくだらない話にいつも付き合ってくれた。
会話のテンポが心地よくて楽しかった。

術後のリハビリ

リハビリに術前から担当してくれていたMさんが、来てくれた。
ベッドに座る時間は30分くらいまで伸び、立つ、歩くという動作を毎日、少しずつ時間や距離を伸ばしながら進めていた。
Mさんの姿を見たとき、なつかしい人にあったようなほっとした気持ちになった。
よく考えたらMさんと出会ってやっと1ヶ月くらいなのだが、術前の私を知っていてくれる人はなんだか長い付き合いのある人に思えた。
Mさんが来ると、素直に笑えた。
頑張れた。

第1ICUを去る日

逃亡は止めたが第1ICUは常に出たかった。
第1ICUにいる期間は人それぞれだが、早ければ1週間から10日ほどと聞いていた。
私はいったい何日ここにいるのだろう。2週間くらいかな。
よくなっているのかどうかも分からず、いつここから出られるか考えるのもムダな気もしていた。
朝、いつものように過ごしていたら「早川さん、今日、第2に行くことになったよ」と看護師さんに声をかけられた。
「本当ですか?なんで?」。突然すぎて、とてもとて現実のこととは思えなかった。
詳しいことは分からなかったが、第1ICUが満床で、誰か移動させるならいちばん状態のいい私、ということだったようだ。
その日、日勤を担当してくれた看護師さんが笑顔で準備を進めてくれる。
そして「早く退院して髪切りに行けるといいね」と、自分がいつも切っているお気に入りのサロンを教えてくれた。
ひさしぶりに明るい気持ちでおしゃべりしていると第2ICUからお迎えの看護師さんが来てくれた。

第2ICU

第2ICUに行けば何かが劇的に変わると思っていたが、それはただの願望だった。
生活は変わらないし、相変わらずスマホもないまま。
スマホを持ってから、1ヶ月もスマホを見ないことがなかったから、外と連絡がとれないことが不安だったし、暇つぶしの手段もなかった。
基本的にはぼーっとしているか、思いついたことをノートに書いているか。
友達の名前をうまく動かない手で、ノートに書くこともしていた。
これは10年以上前に亡くなった私の父が入院中にしてたことで、なんとなく父を思いながら書いていた。
友達の名前はどんなに精一杯、心を込めて書いてもぐにゃぐにゃで、見られたものではない字だった。
でもこんなに時間をかけて友達の名前を書いたのは初めてだと思った。
私よりずっと病状が進んでいた父はどんな気持ちで家族の名前を書いていたのだろう。
「どんなに辛くても、必ず回復する」と言われている私は、この字をいつか名前本人に渡すつもりで書いている。
辛い、嫌だと言いながら、希望を感じている証だと思った。
友達の名前は何度も書いた。
気づいたら読めるくらいにはなっていた。

母や夫、息子たちは顔を見に来てくれたが、面会を許された30分は短すぎて、言いたいことの半分も伝えられなかった。

このころから黄疸が少しづつ引いたり、顔色がいいねと言われたりすることが増えてきて嬉しかったが、自分では鏡も見られないし分からなかった。
顔を触るとざらざらしている。
もう1ヶ月も暖かいタオルで顔を拭くだけで、まともに洗顔していない。
きれいになりたいな。かわいい服を着たい。おしゃれしてカフェに行きたい。
そうは思うけど、そんな日が来るとは思えない。

第2ICUでは第1のころみたいに辛さに嘆いたり、文句言ったりするのにもうんざりして、寝たり起きたり食べたりを繰り返しながら、ただ時間が経つのを待っていた。

第2ICU、最後の日

第2ICUの最後の日も突然だった。
「9北に帰る」
聞いたとき、嬉しかったけど、不安だった。
頭の中に楽しいことが浮かばない。
9北の看護師さんたちに会って、前と同じようにおしゃべりできるだろうか。
私は変わってしまっていないか。
怖くてたまらなかった。


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