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凶悪犯に環境を理由にした情けは掛けるべきなのか

第3回記事です

最近ニュースなんかを見ていると、犯罪者の性格について自称人権派とそのお仲間が、やれ社会が悪いだの家庭における環境要因がどうだのと宣っているのをよく見かける。

しかし、そんなことを言い出したら最早この世界の誰をも罪に問えなくなってしまうのではなかろうか。


何故なら、生まれ落ちたその時点では人間は自我を持っておらず、フォーマットの段階から遺伝或いは環境に100パーセント左右されて人格を形成していくからである。

遺伝と環境の比重は、医学の領域故に私の知る所ではないが、少なくとも本人の意識、自我では有り得ないという点だけ理解してもらえれば本拙文の理解には差し障り無いだろう。



「本人(自我)」の形成段階において「完成された本人(完成された自我)」がその形成に介入することなど、事の因果を考えれば不可能であり、故にその結果生じた「完成された本人」に対して「責任」等というものは究極的には問えない筈なのだ。




それでもこの世界に「本人」に対する責任であったり刑罰であったりが存在しているのは、それがない状態においては、それがないことがさらなる社会的害悪を引き起こす環境要因になりかねないからである。


そんな世界で人間に刑罰や責任を問いつつ、それでも尚環境要因も考慮すると言うのであれば、何処からが本人の責任で何処からが環境の問題であるのか、必ず基準を定めることが必要になってくる訳である。



しかし冷静に考えてもらえればお分かりの通り、その基準は恐らく十人十色となり、且つ変則的に、起こした害悪に対しての責任と環境要因の関係比が変わることが予想され、1人づつ基準を定めたとして、定めた基準を元に、本人にかかる責任の比重を精査する段階においても大きくツマづくことになるのだ。



これを77億人でしなければならない、
77億人77億色である、冗談ではない。




そもそも定めたその基準の妥当性は一体何処の誰が担保してくれるのだろう?生物学者だろうか?脳科学者だろうか?心理学者だろうか?社会学者だろうか?法学者だろうか?将又新しくそういう審判を専門とする役職が誕生するのだろうか?



ここまで引っ張って最後にこう言うと嫌味に聞こえなくもないが、そんな基準を定め、それに従って人を裁くなど、あまりにも現実離れしていると言わざるを得ない。



然すれば何処までが環境に起因しているか、その基準を人知で導くこと自体不可能であることが自明な以上、知った様な口で環境要因がどうのと宣う輩は全てペテン師なのではなかろうか。


ふとそんな考えが頭を過ぎった今日この頃。

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