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【文書版】✴️礼拝メッセージ「山上の説教~幸いなるかな!祝福の宣言~」

✅昨日2023年1月29日(日)の礼拝メッセージのテキスト版もここに掲載いたします⬇️
✴️礼拝メッセージ「山上の説教~幸いなるかな!祝福の宣言~」
新約聖書 マタイの福音書第5章1~12節

1その群衆を見て、イエスは山に登られた。そして腰を下ろされると、みもとに弟子たちが来た。
2そこでイエスは口を開き、彼らに教え始められた。
3 「心の貧しい者は幸いです。
天の御国はその人たちのものだからです。
4悲しむ者は幸いです。
その人たちは慰められるからです。
5柔和な者は幸いです。
その人たちは地を受け継ぐからです。
6義に飢え渇く者は幸いです。
その人たちは満ち足りるからです。
7あわれみ深い者は幸いです。
その人たちはあわれみを受けるからです。
8心のきよい者は幸いです。
その人たちは神を見るからです。
9平和をつくる者は幸いです。
その人たちは神の子どもと呼ばれるからです。
10義のために迫害されている者は幸いです。
天の御国はその人たちのものだからです。
11わたしのために人々があなたがたをののしり、迫害し、ありもしないことで悪口を浴びせるとき、あなたがたは幸いです。
12喜びなさい。大いに喜びなさい。天においてあなたがたの報いは大きいのですから。あなたがたより前にいた預言者たちを、人々は同じように迫害したのです。
 
主の恵みと平安が皆さんの上に豊かにありますように。
この日も皆さんとご一緒に主の日の礼拝にあずかれますことを心から感謝いたします。
 
 最近は本当に、不必要なまでに日本と周辺諸国の緊張が高まっているなどと言って不安を煽るような声が強くなってきていますけれども、今日のイエス様のみことばで、「平和を作る者は幸いです」というみことばを主は語って下さいました。そのことを心に留めつつ、今日語られました主のことばを味わって行きたいと思います。
 
 今日、神のことばとしてご一緒に聴きましたのは、有名な、イエス様の「山上の説教」と呼ばれるところですね。昔は「山上の垂訓」と呼ばれていましたが、今はそう呼ばれることは少なくなりました。といいますのは、垂訓というのは、訓を垂れると書きますので、人生訓の教えを垂れる、道徳的教訓を垂れる、というようなイメージになりますので、教えを垂れるわけではない、ということです。山上の説教、といっても、もちろんお説教ではなくて、むしろ「宣言」と言っていい。今ここに、神の救いが起こっているんだ!そういう宣言、祝福の宣言、と言っていいんです。「今祝福されているんだ!あなたがたは!おめでとう!」そういう宣言なんです。
 
 それで、どういう人びとに、イエス様はこの宣言をされたかというと、実は、第5章の1節は

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イエス様が山に登ってお座りになったところから始まりますが、しかし文脈はここで切れておりません。先週の、漁師のペテロとアンデレ、ヤコブとヨハネに「人間をとる漁師にしてあげよう」とおっしゃって、彼らをついてこさせた後、第4章23節からこういうふうに書かれてあるんですね。
 
新約聖書 マタイの福音書第4章23~25節

23 イエスはガリラヤ全域を巡って会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、民の中のあらゆる病、あらゆるわずらいを癒やされた。
24イエスの評判はシリア全域に広まった。それで人々は様々な病や痛みに苦しむ人、悪霊につかれた人、てんかんの人、中風の人など病人たちをみな、みもとに連れて来た。イエスは彼らを癒やされた。
25こうして大勢の群衆が、ガリラヤ、デカポリス、エルサレム、ユダヤ、およびヨルダンの川向こうから来て、イエスに従った。
 
 ということで、まさに、先週の表現で言えば、闇の中に、死の陰の地に座っていた人たち、要するに、悩んだり苦しんだり、病気だったり、社会の周縁に追いやられた人たちだったり、そういう言ってみれば、どっちかというと、不幸な人たち、が弟子たちを取り巻くようにしていて、イエス様は山に登られて、弟子たちに話したというふうにマタイは書いていますけれども、この山上の説教が終わる7章の最後では、その教えを聞いて、群衆はその教えに驚いた、と書いていますので、弟子たちだけではなくて、この不幸に見えるような群衆もみんな聞いていた、ということですね。
 
 それでここに、幸いです、幸いです、というふうに畳み掛けるように幸いが宣言されているんですね。9回、幸いだ、と言われているんです。最後の9つ目は、八つ目の説明だとして、ここには8つの幸いが宣言されているので、8福の教えとか、さらに格調高い表現で「真福八端」と呼ばれたりもするわけですね。
 
 それで、日本語の辞書で「幸い」という言葉を調べてみますと、「めぐりあわせが良いこと」「運が良くて恵まれ、満足できる状態、しあわせ」などと説明されています。ので、その感覚で聞きますと、これのどこが幸いなんだろうか、と、むしろ幸いとは逆なんじゃないだろうか?と、いぶかるところであると思います。しかしそれは、日本語のせいだけではなくて、当時の聞いていたユダヤ人にとっても、たまげる、意表を突くことばの数々が、イエス様が荘厳に語られる唇から、飛び出てきたわけです。
 
 ユダヤ人にしても、幸いっていうのは、神からの祝福を受けているということでして、やはり「しあわせ」に近いんですね。たとえば詩篇第1篇を見て見ますと、
 
旧約聖書 詩篇第1篇1~3節

1幸いなことよ
 悪しき者のはかりごとに歩まず
 罪人の道に立たず
 嘲る者の座に着かない人。
2主のおしえを喜びとし
 昼も夜も そのおしえを口ずさむ人。
3その人は
 流れのほとりに植えられた木。
 時が来ると実を結び
 その葉は枯れず
 そのなすことはすべて栄える。
 
 こうありますが、神様の教えを喜び、それを普段の生活でいつも口ずさむ人、ということは、みことばを自分に言い聞かせて、悪者の仲間には入らず、神さまの律法をきちんと守る人、そういう人は、神さまから祝福されて、「すべて栄える」というのはもちろん、経済的な祝福、というのも含むわけですね。それが旧約の価値観、そして旧約の価値観では、たとえば病気は罪の結果とされていたので、健康、というのも、神の祝福だと考えられていました。旧約時代は。そういう人は幸いだ、と宣言されている詩篇ですね。こういう常識がありました。
 
 ところがイエス様は、そういう常識を、いわばここでひっくり返される。どうも幸いとは逆の方向にいるように見られがちな人びとに向かって「幸いだ!あなたがたは」と宣言されるわけですね。
 
 実はここで、イエス様は、この詩篇第1篇の始まりの祝福の宣言を踏襲しておられます。おんなじように宣言しておられるわけですヘブル語の聖書では「アシュレー」と言います。アシュレー。それでイエス様は、地上の生涯で、アラム語と一部ヘブル語を話したと、学者たちは申しますが、山上の説教はアラム語で語られているわけですね。アラム語でもヘブル語でもアシュレーですから、アシュレー!と言って、語り始められた!
 
 それが、新改訳の翻訳はじつは少し残念でして、「心の貧しい者は幸いです。」というふうに、下手したら幸福論を論じておられるように聞こえなくもない翻訳なんですが、かつての文語訳聖書ですと、―格調が高くて今でも好きな方も多いんですけれども、―『幸福なるかな、心の貧しき者。天國はその人のものなり。こちらの方が、ニュアンスが出ているんですね。幸いなるかな!このことばが先に来ていて、イエス様が幸福論を論じるのではなくて、その唇が動くのが、目に見えてくるように生き生きと宣言されているのが見える翻訳であると思うんですね。
 イエス様が口を開かれる。何を語って下さるかと思って群衆が固唾を飲む。そしてざわめきがピタッと止まる。イエス様が、一人一人の顔を見つめるように見回して、しばしの沈黙。そして口を開かれるなり、「アシュレー!」幸いなるかな!このことばの次に、何が続くか、とみんな息をのみました。もしイエス様が、その次のことばに、詩篇第1篇と同じようなことを語ったなら、群衆は「ああ、やっぱりそうだよね」と思いながらも、がっかりしたと思います。ああやっぱり、律法をきちんと守って、けがれた異邦人を避けて、きよい生活を守る人が幸いだ、祝福を受けているのであって、逆立ちしても守れない私たちには救いがないな、と失望落胆したかもしれないんですね。
 
 でもそのイエス様の、その後のことばを続けて聞いた群衆たちの目が、そしてその顔が、だんだんだんだんキラキラキラキラ輝いて行くんです。ああ、私たちが、幸いだって言われている。こんなことは、人生で一度も言われたことがない。
 
 それで一つ一つの言葉ですけれども、日本語の翻訳ですと、どうしてもニュアンスが出ないところが多々あると思いますので、8つのことばについてそれぞれ短く説明をしたいと思います。その上で、深く入って行きたいと思います。
 
① 心の貧しい者は幸いです。
② 悲しむ者は幸いです。
③ 柔和な者は幸いです。
④ 義に飢え渇く者は幸いです。
⑤ あわれみ深い者は幸いです。
⑥ 心のきよい者は幸いです。
⑦ 平和をつくる者は幸いです。
⑧ 義のために迫害されている者は幸いです。
 
まずは、心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだからです。ということですね。日本語ですと、心の貧しい人、と言ったら、悪いニュアンスしかありません。心が貧しいと言えば、度量が小さい、しみったれている。人間性や器量が乏しい、いじきたない心を持つ人、だいたいそんなニュアンスでしょうか?そのために、「ぼろは着てても心は錦」ということばもあるぐらいで、貧しくあっても、心は豊か、そういう生き方がいい。そういう美徳、というものも日本にはあるわけですね。
さらには、心、という翻訳がされていることばも、実は直訳では「霊」なんです。まぁ。霊の貧しい人、と訳すと、何のことやら分からない翻訳になるので、心、と訳すのが多いと思いますけれども、霊が貧しい、とは、どういうことでしょうか?貧しい、と訳されることばには2通りありますがここでは、日雇い労働者のような貧しさではないんです。イエス様時代にも日雇い労働者はたくさんいましたが、それは一応働けて収入があるんですね。しかし、そういうレベルの貧しさではない。もっと困窮していて、無一文・無一物を指すことばです。そのため、ある人は「霊のこじき」と訳しました。まぁ乞食という言葉は、今は差別表現ですけれども、霊が飢え渇いている人、ということです。それは、やはり神様との関係において。自分の中には誇れるもの、頼りとなるものがなんにもない。自分はからっぽで、ただ神様にすがるしかない人間です、って。要するに「私はどうしようもない人間です。神様あなたにしか頼れません」と、心から思っている人、それが神様に飢え渇いている人、ということですね。
 
そしてその次、悲しむ者。これは、だいたい2種類の理解があって、一つは、死者を悼む、喪に服する悲しみ、だということですが、むしろ、ここでは2つ目の理解で、自分の罪に悲しむ者だ、ととらえた方がいいと思います。それは、なぜかというと、真実な悔い改めに進ませるからです。神に本当に向きを変えて向き直るように進ませるからです。そして真実な悔い改めをする者は、神によって慰められるからです。
 
 そしてその次に、柔和な者、ということですね。柔和、と聞いたら、日常で使うことは少ないかもしれないことばですが、似たことばで、柔弱(にゅうじゃく・じゅうじゃく)という言葉もありますが、やさしくて弱々しいイメージ、そして、おだやかで、とげとげしい所のない、やわらかな態度を持つ人、ということでしょう。ドイツ人の学者は、ここをこういうふうに説明いたします。「肩肘を張らない生き方」だと。私たちはなんとなく、生まれた時から日本の「空気」で教育されていると思うんですけれども、そんな生き方じゃダメだと。なよなよしてるのは情けないことだと、むしろ、肩肘張って、時には人を押しのけてでもやっていかないと、生きて行けないじゃないか、あからさまにはそこまで言われないけれど、空気でそういうふうに育てられることがありますね。
 それはしかしユダヤでも、そんなに違わないんでしょう。柔和に生きたら、損をさせられたり、踏みつけられたり、しわよせを受けたり、しやすいでしょう。ああ、損な、不幸な人生だと、うずくまっている人びとに、イエス様は、「幸いだ!祝福されてるよ!おめでとう!」って言われる。いったいどういうことなんだ、っていぶかったでしょう。
 
 そしてその次に、義に飢え渇いている者。この義、というのは、やはり二通りくらいの理解があります。一つ目の理解は、正義に飢え渇いている人ということです。
 この社会に正義はどこにあるのか、領主ヘロデ・アンティパスの横暴な支配。おまけにその上には、ユダヤを属国にしていたローマ帝国の支配、こういうものがあり、権力の腐敗と不正がはびこっている。これではだめではないか。と言って、反体制運動をする、そういった、社会活動家のようなイメージでしょうか。確かに正義に飢え渇いている人と言えば、そういうことになるでしょう。
 しかしここでは、この「義」というのは、やはり「神の義」なんです。神の義、と言えば、神の正しさ、神の正義、というよりは、関係概念でとらえた方がいい、と前の説教で申し上げました。義というのは、よいお付き合い、のことです。神様との良いお付き合いをすることに飢え渇いている人、自分は神さまとの関係が悪いと自覚している人、取税人なんかそうですよね。自分は罪びとだ、どうしようもない人間だ、って思っている。だから神様に顔向けなんてできない、って思っている人は幸いだ、っていうことですね。それは、心の貧しい者、霊のこじき、ということと同じではありませんか?
 
 そしてその次に「あわれみ深い者」ですね。このあわれみ、ということば、これは、施し、ということと同じだと考えられていました。それもよく分かることですね。当時のユダヤでも、施しが盛んに行われていましたが、それは、相手をあわれに思うから、あわれんで施しをするからですね。ところが、この施し、というのは、時に難しいものです。というのは、施す側が上から目線になったり、簡単に上下関係を作ってしまいやすいということですね。
 ですから本田哲郎神父という方は、ここは「人の痛みが分かる人、その相手の人を支えようとする人は幸い」と理解しました。そういうことだと思いますね。
 
 そしてその次の、心のきよい者は幸いです。心がきよい、といっても、日本語でも確かに「きよらかな心の人」と言ったりしますから、なんとなく分かったような分からんような、という気がします。ここを、ある人がこう説明してくれています。ドイツ語で言い換えると「単純」ということなんだ。
 日本語で「あの人は単純な人だ」と言いますと、悪いイメージしかないような気がしますが、しかしドイツ語で単純と言えば、心にひだが、一つもないことだと、しわが一つもないことだと、しわがないので、心に陰影がないんですね。そうすると、ヤコブ書で言うような「二心」が無いということですね。愚直という意味にもなるわけですが、そういう者よ、幸いだ、って宣言されている。
 
 そしてその次の、「平和を作る者は幸いです。その人たちは神の子と呼ばれる」この平和を作る者というのは、新約聖書で一回しか使われない珍しい単語ですが、英語の聖書ですと、多くの場合ピースペーカーと訳されています。ピースメーカー、平和を作る者、その人たちは神の子と呼ばれる。
 実はここで、主イエスは、ローマ皇帝のことを、念頭において、語っておられます。というのは、実は、ローマ皇帝も、ピースメーカーに当たることばで呼ばれたんです。皇帝は平和を作る者だ、と。そして、ローマ皇帝は、自分のことを「神の子」と自称し、そして民衆にそう呼ばせました。ですから、「ローマ皇帝、神の子、平和を作る者、ばんざーい!」と呼ばれていたんでしょう。
 それで、ここでは耳にタコができるくらい皆さんお聴きになったと思いますけれども、確かにこの時代のローマ皇帝は、平和を実現しました。パックスロマーナですね。しかしそれは、強大な軍事力によって保たれていた平和です。ガリラヤ周辺でも、たびたび反ローマの反乱が起こっていましたが、その度にローマ兵たちがやって来て鎮圧するわけですね。つまり、弱い者たちを押さえつけながら、そして軍備増強によって、またそこからもたらされる(対外的にも、また内乱にも対する)力による・武力による”抑止力”によって、平和を作っていたわけです。しかしもちろんそれは偽物の平和です。弱者とされている人びとを、抑圧したり、搾取したりして、もたらした表面だけのかりそめの平和ですね。
 
 そしてその次は、義のために迫害されている者は幸いである。天の御国はその人のものだからと。
 これはもしかしたら、山上の説教をリアルタイムで聞いていた弟子たちや群衆たちには、すぐにはピンと来なかったかもしれない。今まさに迫害されていたわけではないでしょうから。ここも義を、神との関係で言えば、神様とのただしい、良い関係を保って生きているゆえに受ける迫害ということですね。使徒の働きで使徒たちが福音を宣べ伝え、教会が次々と生まれる過程で迫害を受けて、使徒たちは、このイエス様のことばを思い起こしては慰めを与えられたでしょう。そしてマタイが福音書を書いた時には、もうすでに、ローマ帝国の、教会への迫害が始まっていましたから、当時の礼拝の中で、この福音書の朗読を、神さまからのことばとして聴いて、どんなにか慰められたことでしょうか。「喜びなさい、大いに喜びなさい。天においてあなたがたの報いは大きい。旧約の預言者たちも、まっすぐに生きたがゆえに、迫害されたじゃないか」って。
 
 こうして、8つの幸いを見て来ましたけれども、これは、お気づきの方もあると思いますけれども、8種類の、幸いな人が、いるということではないんですね。あなたは霊の貧しい人タイプですね。あなたは悲しむ人タイプですね。あなたは、心のきよいタイプの人ですね。そういうものではなく、むしろ、1つの人間のあり方を、8つの別の言い方をしている、と見た方がいいでしょう。
 
 ここで、柔和、ということばを掘り下げてみましょう。柔和ということばは、福音書の中では、あまり出て来ません。マタイの福音書では、ここと、あと2つくらい出て来ますけれども、思い浮かぶ方いらっしゃるでしょうか。
 一つは、教会の看板によく書かれるイエス様のみことばですね。マタイの第11章の28節から29節、
 
すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。
わたしは心優しく、へりくだっているから…
 
 この「優しく」ということばが、翻訳によっては「柔和で」となっているわけですね。イエス様は確かに、間違いなく、柔和なお方でした。
 
 そしてもう一つ、あのイエス様のエルサレム入城の時でした。

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マタイでは第21章4節。これは、ゼカリヤ書の引用として、柔和で、ロバに乗ったお方として、エルサレムに入城された、ということです。ローマ皇帝とは対照的な姿でしょう。一方ローマ皇帝なら、肩をいからせて力を誇示し、立派な背の高い軍馬に乗って、入城されるでしょう。しかしイエス様は、柔和な、平和の王として、真の平和を作る者として、入城されました。
イエス様は平和を愛する者は幸いである、とは言われませんでした。平和を愛する人なら、平和を望む人なら、世界中の皆がそうだとも言えるでしょう。しかし主イエスがおっしゃる平和というのは、戦争がなければいいというものではありません。
ある人がこう言っておりまして、
 
「イエス様が告げる平和とは、単に戦争がないという状態だけを指しているのではありません。もっと根源的な、もっと徹底した平和です。人と人とが互いに愛し合い、支え合い、仕え合う交わりです。さらには、国と国、民族と民族、人と人との交わりだけではなくて、人間とこの世界、人間と神さまとの関係においても充ち満ちた平和です。それは、神様によって造られた人間と世界が、その御心に従って、神様のご支配の中に生かされる、神の平和とでも言うべき状態です。」
 
 これがまさに、シャローム、神の平和、平安ですね。

 イエス様は、ロバに乗った、柔和な、平和の王として、何をなさったか。イエス様は、神様に敵対していた人間のその敵意をわが身に受け、その人間の敵意という罪に対する、神の怒りをなだめる犠牲となって十字架におかかりになりました。そうして、人間と神の間に和解を、平和をもたらしてくださいました。これこそまさにピースメーカー、仲保者の働きです。パウロはそのことを新約聖書のエペソ人への手紙第2章14~16節で、
 
新約聖書 エペソ人への手紙第2章14~16節

14実に、キリストこそ私たちの平和です。キリストは私たち二つのものを一つにし、ご自分の肉において、隔ての壁である敵意を打ち壊し、
15様々な規定から成る戒めの律法を廃棄されました。こうしてキリストは、この二つをご自分において新しい一人の人に造り上げて平和を実現し、
16二つのものを一つのからだとして、十字架によって神と和解させ、敵意を十字架によって滅ぼされました。
 
 と、告げています。イエス様は自らを十字架の上で犠牲とすることによって、神と人(神とあなた)、人と人(人とあなた)との平和を作り出されました。
 
 もしイエス様が、ここで山上の祝福の宣言をされて、言いっぱなしだったとすれば、ただ弟子たちと、群衆は、意外で、奇抜で、それまで聞いたことのない逆転の発想に驚き、いままで、祝福されている!と言われたことのない人々に、ひと時の慰めを与えたに過ぎなかったでしょう。しかしイエス様は、御自分で宣言されたその祝福の責任を、いわばご自身の十字架によって取ってくださった。徹底して責任を取って下さったのです。ですから、この方の祝福宣言が力があり、説得力をもつのは、まさに主イエスの十字架と復活に裏打ちされているからです。
 だからこそ私たちは、空っぽの自分になって、霊において無一文、無一物の者として、この方の崇高な愛の光に自分自身が照らされる時、私の中には、誇りとできるものも、頼りとなるものも、なんにもありません。かえって、このきよいきよい神の前には、私はけがれている人間でしかありません。そういうふうに言う者は、このイエス・キリストの十字架と復活、罪のゆるしと永遠のいのち、つまり、今日のみことばで言えば、天の御国が与えられるという恵み、それを素直に受け取ることができます。「いや、神なんかに頼らなくても自分の力でなんとかやっていける」と、肩肘を張ったりしないからです。
 だからこそ私たちも、柔和に生きることができる。力づくで生きようとしない人は幸い、自分がゆるされる必要がある人間であることを知っている人は幸い、力と力がせめぎ合うような暴力的な世の中で、そのはざまに立ちながら、痛みながらも生きている人は幸い、自分の中にある弱さや痛みや破れや孤独を知っていて、それゆえに主イエスの前にひざまずく、柔らかいひざを持っている人は幸い。
 主イエスの前にひざまずく心は、ゆるされた、という「神との平和」を持ちます。
 
 ちょうど昨日、土佐市複合文化施設「つなーで」で行なわれた、社会福祉大会にNPO法人抱樸理事長の、奥田知志牧師の講演を聞きに行ってきました。どの話も大変素晴らしい者でしたけれども、特に印象に残った話を一つ紹介すれば、
 奥田知志さんは30年間ホームレス問題に、はじめはオニギリと豚汁をだけをもって訪ねることから始めたわけですが、ホームレス問題とハウスレス問題は違う、と言います。家はなんとかなった、就職と収入はなんとかなった。でもそれはハウスレス問題は解決したけれども、それでは、ホームレス問題が解決しない。その人にとってのホームが必要だ、その「ホーム」というのは、人と人との「つながり」だって言うんです。
 つながり、というのは、「誰かのために」なんです。
 それで活動を続ける中で、なかなかホームレスの方がアパートを用意しても入ってくれない、ということにぶつかったそうです。それは、条件、ということかといったらそうじゃない。たとえ新築の綺麗なマンションを用意できても、あるいは、手取り10万ではなくて、手取り20万の仕事を紹介できても、入りたがらないんですね。それは「その気」がないから。その「その気」というのは「誰かのため」なんです。
 奥田牧師は、数年間お弁当を届ける働きをしたのですが、ある人が、それまで絶対に「うん」と言わなかった人が、「アパートに入るよ」って言い出したんですね。奥田牧師はびっくりして、
 
「ええ、どうしたんですか、何か心境の変化があったんですか?」
 
と聞いたら、
 
「いや、奥田さん、あんたがあんまりしつこいから、アパートに入ってやることにしたんだよ。俺のところに、毎回届けに来るのも大変だろう?だからあんたを楽にするために、入ることに決めたんだ」
 
 っておっしゃったんですね。
 
 奥田牧師は「ありがとうございます」って言ったそうですけれども、「いや逆でしょ?」と私は思ったりもしたんですが、奥田牧師は「それでもいいんだ」って言うんですね。というのは、その人の中に「誰かのために生きる」っていう心を生み出したんですね。それが「つながり」つまり、その人の「ホーム」を作ることであった、ということです。
 私はイエス様の言われる「平和を作る者」というのが、どういうことなのか、まだモヤがかかっているようで、金曜日の夜までは、まだ具体的には分からずにいました。しかし昨日のこの話を聞いて、ああ、まさに、イエス様の言われる「平和を作る」ってこういうことなんだ、ということが分かったんですね。「平和を作る」それは、言い換えれば、つながりを作る、利害関係では無いもので、手と手を結び合っていくこと、人が生きる気力が出るのは、綺麗で快適な住居でも、高い給料でもなく、誰かのために、っていうことなんです。そういう、力関係によらない、「つながり」を作って行くことこそが、肩肘を張らない、「平和」を作って行くことだと、聖霊様は、奥田牧師を通して、私に教えてくださいました。
 私たちは、奥田牧師のように、大きな働きはできないかもしれない。けれども、身近なところで、柔和な、礼拝において神の前にひざまずいた心をもって、力関係によらない、上下関係によらない、小さなつながりを主によって作らせていただこうではありませんか。
 
お祈りをいたします。
恵みとあわれみに富みたもう、私たちの主イエス・キリストの父なる御神
あなた様は、私たちに、祝福を宣言してくださいました。世とは全く違う、しかし確かな平和です。この神との和解、神との平和をもって、力によって平和を作るのでもなく、肩肘を張って生きて、自分の安心安全を確保するのではなくて、どうぞ、あなたのみ前にひざまずく、やわらかい心とやわらかいひざで、それぞれが生きている現場において、小さなつながりを作らせてくださいますように、いや、ここに集うおひとりひとりを、すでにそうしてくださっていますことを、心から感謝いたします。主イエス・キリストの御名によって感謝して祈ります。アーメン。
 
#山上の説教
#山上の垂訓

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