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電車の中吊り広告が怖い〜消費しない罪(ざい)について〜

 こういうの共感してくれる人がいるのかどうか分からないけど、この前夕食食べようかと大阪の大丸のレストラン街や大阪駅近くの地下街に足を踏み入れたんだ。

 僕は貧しくなったから、そうなる前にはあまり感じなかったその場の空気の圧を感じるようになった。

 「ここはあなたのような人の入るような場所じゃないよ。」

 まるで空間内にそんな無言の言葉が満ちているみたいでちょっと息苦しかった。

 多分それは、一所懸命付加価値をつけて、少し高めのお料理をいい感じ&オシャレに広告を打ってる光景が目に入って、お金を落とせない私が居ちゃいけないんだなと、よそ者感と居ることに罪悪感を感じて早々にその場を立ち去った。

 この種の空気がもたらす罪悪感は、都会に行けば行くほど感じるように思う。

 ちょっと関連して20年程前、東京の電車に毎日乗って通勤していた時期があったが、なぜか心を少しずつ削られた。ギュウギュウで体力が削られるからかと思ったが、20代の体力が溢れている時期だったから体の問題ではない謎の疲れだった。
 
 長い間理由が分からずにいたが、前に「電車の中吊り広告が怖い」という女性の投稿が分かりすぎると話題に、という記事が何年か前にあったが、「英語を学べ」「脱毛せよ」…etc。これだ!と一気に謎が解けた。

「ゼイリブ」っていう映画がそのことを描いているようだけど、都会に行けば行くほど「消費しない罪(ざい)」という罪が存在し、それを犯している者はメンタルが罰せられるらしい。

 あと、関連して僕が正規雇用だったのが解雇になり、それまで感じなかったのに、失業中は町の空気を痛く感じるようになっていた。町を歩いても銀行の口座作るために書類書く時にも、何か「すみませんすみません💦」って感じにさせられたし、それまで正規雇用という身分が見えない鎧となっていて、町を歩くだけで一歩一歩微量に受けるダメージを無効化してくれていたことに気が付いたのだった。

 これらのことはメリトクラシーと関係しているとも思う。

 新約聖書のマタイの福音書第25章40節の「最も小さい者」の気持ちが、ほんの一部分だけ分かったような気がした。

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