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私にビジョンはあったのか?

経営者としてビジョンを示すことは大事な役割です。
そして会社のビジョンを示すためには、ひとりの人として個人のビジョンと向き合うということでもあります。

ビジョンとは一般的には「実現したい未来」と考えられていると思います。

実は私はビジョンを描くのとても苦手です。
必要に迫られたことを解決するか、
その時々の気分や感覚で楽しそうな方を選ぶ、面白そうなことを優先する、というタイプです。
そんなわけで、実現したい未来を考えるよりも、
どうしても今必要な現実的な解決を優先するクセが身に付いてしまったのだと認識しています。

さて、先日参加したある研修で、
個人として実現したい未来、いわばビジョンを考える時間がありました。
昔はビジョンと言われても、全くもってピンと来なかった私ですが、
それなりに社長業の経験も踏み、人としての経験も積んだおかげか、
書き綴ることができました。

自分なりに「これだ!」と自覚できるビジョンを言語化できたのは
今回は初めてだった気がします。

その文章がこちらです。

不毛な議論や面倒くさい判断の押し付けがなく、
時間に追われず、
穏やかな気持ちで、
ほどよい緊張感と、
ワクワク感があって、
チャレンジや、
時にギャンブル的な冒険が許されて、
仮に失敗しても、笑顔で迎え入れられて、
競争して勝った負けたで笑ったり泣いたりできて、
それを応援したり、応援を励みに頑張れて、
でも、それによって支配や抑圧が生じて苦しむ人がいなくて、
負けて居場所がなくなっても、
どこかに移動すればそこには、自分が輝ける場所があって、
前にいた場所と今いる場所の考え方は真逆だけど、
かといって敵対して殺し合うこともなく、
違う考えの人たちが、幸せに暮らし、
かつ異なる考えの人たちに「正義」や「善」を押し付けたりせず、
程よい距離感でいられて、
勝ってもおごらず、
でも誇りは尊重されて、
負けてもくさらずに、
何度も挑戦出来て、
若い人の成長を老いた者が喜び、
老いた者の功績を若い者が尊敬し、
敗者、死者を尊重し、
富める者は自然体に貧しい者を助け、
貧しいものは奪わずに手に入れることができる。

私が実現したい未来はこんな感じの社会でした。
長過ぎですね(苦笑)。

個人として、企業人として、そして社会の一員として
あらゆるところを網羅し、
それゆえに長くて欲張りなビジョンになりました。
順番にはあまり意味はありません。
研修の過程で思いついた言葉を思いついた順番につなげていっただけです。
推敲もせずに、もちろん実現性の検証も、具体的な行動プランもありません。

このビジョンを書き上げた後に
声に出して皆の前で発表しました。

すると、結構この思いで会社を経営してきたな!
という実感が私自身の頭に湧きあがってきたのです。

書かれた内容は会社のビジョンというよりも、
こんな社会が自分にとって居心地がいいなあ、
という思いで言語化したものです。

しかし読み返して、声に出してみると、
会社経営をする上で自分の判断の軸として
このビジョンは確実にあった、と振り返ることが出来た気がしたのです。
利益、売上、規模といった定量的な数値を重視したことは言うまでもないですが、
一方でこうした理想というか、
本音を言ってしまうと、自分の居心地の良さを追求し、
且つ、それに共感できる仲間との組織づくりを無意識に進めていたのかもしれません。

まあ、本当に出来ていたかと真顔で問われてしまうと、
心の底から自信を持って「ハイ!」と言えるかは疑わしく、
社員がこの文章を読んだとして、
どのような反応をするかは定かではありません。

でも、齢50半ばになって、
ようやく自分なりのビジョンに向き合えた気がした出来事でした。

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