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社長は愚痴をこぼしてはいけない。という呪縛

経営者向けの書籍や記事でとてもよく見かける言葉に、
社長は愚痴をこぼしてはいけない!というものがあります。
最高権限を持つ者は愚痴をこぼす前に考え、決断し、行動すべし、と言われます。
確かに正論だとは思います。
でも、それだけでは人間として辛すぎるよなあ、とも思うのです。

社長は本当に愚痴をこぼしてはいけないのか?

社長の役割や持っている権限からすれば、愚痴をこぼすよりもしっかりと経営をしなさい。というのは分かるんです。
自分ができる立場にいるのに、誰かに不平や不満を言って憂さを晴らすのだとすれば、
聞かされている方は勘弁してくれと思うことでしょう。
ましてや社員の立場であれば、「私に愚痴をこぼす暇があるなら、自分で何とかしなさいよ!あんた社長でしょ!」と叫びたくもなるに違いありません。

だから社長は愚痴をこぼしてはいけない!となってしまうのかもしれませんが、
だとすれば、相手を選んでこぼせばいい。と私は思うのです。
同じような立場の社長、経営者仲間とか、家族とか。
もちろん相手の性格や相性もあるので、その見極めはした方がいいと思いますが、
聞いてくれる相手、共感してくれる相手、もっと言えば聞いたふりをしてくれる相手だっていい。
愚痴とはまずは言葉に発して、誰かに聞いてもらえるだけでだいたいは気が済むものです。

何時間も延々とこぼし続けるのは、経営者に限らず誰がしたって嫌がられるので論外ですが、そのあたりを弁えてこぼす程度にこぼした方が社長の精神衛生を守るためにも、あっていいことだと私は思います。

愚痴とは得てして聞いて欲しいだけだったりします。
愚痴をこぼしているのに、提案や解決策を示されると余計イライラするという場合も多い。
ましてや、「なぜそう思うのですか?」といったコーチングを始められると、
そんなことを話したいわけじゃない!なんて思いにもなってしまいます。
やはり相手を選ぶというか、愚痴をこぼせる友人関係、家族関係を作っておくというのが大事なんだろうなあとも思います。
お金に余裕がある人だったら、夜に豪華な内装の空間でお酒を飲みながら、異性が(同性もありますね)優しく聞いてくれるというところもありますが。

愚痴をこぼしてすっきりできたら、気持ちを切り替えて前を向くというのが健全です。
そこは経営者としての責任があるので、いつまでもぐちぐちしていられない。
というか、その状態が続いて一番辛いのは自分自身です。
自分で自分をいじめてしまわないことが大事だろうなと思います。

愚痴はこぼし合う

実際、経営者の友人と愚痴をこぼし合うと言ことはちょくちょくありました。
社員のこと、売上のこと、資金のこと、取引先のこと、
まあ、色々あるわけですが、経営者同士だとやはり共感できることは多かったです。
だから提案を返すというよりも、
「そうだよね。あるよね。それって辛いんだよね」なんて話になって、
愚痴をこぼし合って盛り上がったり。
不思議なことに程よく愚痴をこぼし合うと、悪口や個人攻撃まで発展せず、
私が思うに「健全な」愚痴話で完結し、お互いにすっきりしてお終い、
ということが多かった気がします。

愚痴のこぼし合いは、かえって他責思考を強めるのでよくない、という意見もありますので、バランスというか加減も大事だとは思いますが。
うっかり提案や説教めいた話をしてしまうと、経営観の違いによるバトルに発展して、
関係性が悪くなってしまうなんてこともありました。
だからそんな時は便乗してこちらも同じような愚痴をこぼしてお互いに慰め合うのがいいのかな、というのが私の経験則です。

前提としてビジネスの愚痴というか経営の愚痴というのもあったのかもしれません。
こんな社員は馘にしてやる!的な言葉が出たとしても、本当に馘にしたいわけではなかったりします。
だいたいそんな理由で本当に馘にしてしまったら、労基や弁護士が出てきてもっと大変なことになってしまう。
それが分かっているからこその愚痴なんだよなあ、なんて私は感じていました。

社長の呪縛

愚痴はその人それぞれの気質、個性もありますし、
聞く(聞かされる)人との相性もあります。
一般論でいえば、しないにこしたことはないのかもしれませんが、
許される人、許される関係性、その内容や領域によっても変わってくるものとも思えます。

私が窮屈だなと思うのは、愚痴そののもよりも、
社長は愚痴をこぼしてはいけない。
という教えというか、教訓というか、それが常識であり当たり前であるという認識です。

社長だって人間、愚痴をこぼすこともあります論も稀に見当たりますが、
社長の本音的な記事に限られているように感じます。

経営者論とか社員側の心理といった、どちらかと言えば世間常識の視点からみれば
社長は愚痴をこぼすな。
愚痴をこぼす前にしっかりちゃんと、情熱をもって強い心で信念に基づき行動すべき!
という強きリーダーシップ像を求められています。

いや本当、まったくもってその通りだと分かっていますし、何の否定も弁解もしませんが、
私はそれを「社長の呪縛」だなと思ってしまうのです。

社長、経営者、トップリーダーたるもの。
多くの社員を束ね導き、目標に向かって先頭に立って邁進するのが仕事なんでしょうけど、
46時中常にそうでなければならないのだとしたら、
本当に過酷な仕事です。
中には、それを自然体に何の不自由もなく出来てしまう天性のリーダーもいるとは思うのですが、
すべてがそうではないと思います。

正直に言えば、私もそうあろうと努力した時期はありました。
しかし、少なくとも私には困難でしかなかった。

仕事に向き合う時はできるだけそうであろうとは心掛けますが、
そのように出来ない時もある。
せめてどこかの合間で、気の許せる人と愚痴のひとつもこぼし合いながら、
少しぐらいは憂さを晴らす時間もあってもいいのではないでしょうか。

呪縛の背景

でもなぜこうした「べからず」論があふれているのでしょうか?
そうありなさい、という教えが多いのもありますが、
やはりそうあるべきだ、と考える社長が多いのだと思われます。

なぜかといえば、おそらくそれは、
起業した人はそもそもが強い意思やビジョン、または欲があって立ち上げているので、
その原動力となるモチベーションや強い精神性が元々備わっているのかもしれません。
出世してトップに昇りつめた人からすれば、それはそれで社内の競争を勝ち抜くだけのモチベーションや意思、意欲があったと思われます。

こうした経歴で社長となった方からすれば、
愚痴など言うべきでない!といった考えが強くなるのも分かる気がします。

一方でそこまでの意思意欲をもたずにトップになる人も実はいます。
飄々とした性格でしなやかな仕事振りや人柄が認められたなんて場合もあれば、
中小零細企業であれば、他になり手がなかったので仕方なくとか
同族企業であれば、生まれたときから決まっていた、なんて場合もあるでしょう。

世の社長さんが社長となった背景は、それこそその人の数だけあるので、
一概にどれだ、どっちだとは言えないと思いますが、
人それぞれに背景や気質が異なるのは確かです。

その異なる背景があるにも関わらず、
社長が愚痴を言うべからずという一つの考え方が跋扈し、
そうでない考え方が一蹴されてしまうのは嫌だなあと思います。

これは愚痴の話に限らず、他のどんなテーマでも同じです。
「〇〇なら★★すべし」で語られるよりも、
「〇〇の時なら私は★★がいいと考えます。なぜなら~~」で語られた方が、
私は耳に入り易いのです。
仮に異なる意見を持っていて時でも、後者のような話し方であれば、
「私は〇〇の時は◆◆がよいと考えますが、いかがですか?」と返し易い。
そこに違いがあるからこそ、お互いに思考が深まるし、視野も広がる気がします。

ちょっと話が逸れてしまいました。

おそらく私の
社長は愚痴をこぼしてもいい、という思考の背景には、
「社長たるもの〇〇すべし」と押し付けられるのが嫌いだ、
ということだけなのかもしれませんね。

話を元に戻して締めくくりたいと思います。

社長が愚痴をこぼしたくなった時は、
相手や場所と程度は弁えつつ、
「社長たるもの愚痴はこぼすべからず!」という呪縛を解いて、
時には愚痴をこぼすくらいはあってもよくないですかと、
私は思っているのです。

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