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橋本治『生きる歓び』

橋本治『生きる歓び』
以下、引用。
「私は、恋をしていたことがあったんだ」と、志津江は大きくうなずくように思って、塩漬けの桜の花のついている方のあんぱんを、口許に運んだ。
その塩漬けの桜の花びらは甘くてからくて、それはそのまま、ほとんどそれ以前の自分の人生を嚥み下してしまうようなものだった。
「私は恋をしていて、それだからこそ、今までの人生は、すべて夢になってしまってもいいのだ」と思って、志津江はその四半分のあんぱんを、ゆっくりと食べた。
引用、終わり。
小説内の文章を書き写しながら、改めて何と美しい言葉だろうと思う。
橋本治さんの言葉は、小説はもちろん、随筆であっても、時にうねり、時に水面を輝かせながら、美しい波紋を生み出していく水の流れのようだと思う。
そうした言葉の流れの中から、人物や景色や出来事が立ちあがり、形をなしていくのだ。それは、物語世界を描出し、写実するための言葉でない。そうではなくて、言葉が先にあって、言葉と言葉が重なり合い、繋がっていくことで、言葉の襞ができていき、その奥行きをなした言葉が、読者である私に、物語という立体的な世界を体験させ、現実の肌触りを感じさせてくれるのだ。
だからこそ、「恋」という言葉と「あんぱん」という言葉とが撚り合わせられたこの美しい一節を読む私は、その言葉の襞をいつくしむことで、七十歳になる主人公の人生を体験し、その甘さやからさを味わって涙するのだ。

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