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”また会いたい”と思わせてくれる人

「一人でいる方が、自分の世界に没頭している方が、楽しくて充実しているな」

と思えてしまう今は、誰かと一緒に過ごす機会に恵まれているのでしょう。一人で過ごすことに満足感を覚えることは、誰かと過ごす時間と対比で浮かび上がってくるものだ。少なくともわたしは、誰かと過ごすことが苦手な寂しがり屋だから、ひとりで過ごす時間がずっと続いてしまえば、誰かと過ごす時間が恋しくてひとりじゃ満足出来なくなってしまうだろう。

人とコミュニケーションをとるときの正解は、生きる意味はあるのか?と同じくらい抽象的なもので、相手を笑わせることが大事なのか、会話を詰まらせないことが大事なのか、相手が気持ちよく話せるように聞き役に回るのが大事なのか、ツッコミを入れて会話に刺激を与えることが大事なのか、もうそんなこと考えずに自分が楽しければ周りも楽しく話せるのか、時と場合によるもので正解なんてきっとないんだろうな。わたしはいつも、会話に隙間を作らないように声に出してよく笑うようにしているけれど、そうしてしまうのは、自分が話した時に場の雰囲気が盛り下がってしまうことが怖いからだ。だけど、反応が大きいことだけが会話の極意なんてものじゃないから、大抵の人はわたしの話を真剣に理解しようとして聞いてくれている。面白いことは言えないし、真面目に頑張って話してしまうから、結果的に場が盛り上がることはないもので、わたしは喋ることが苦手なんだ…と自認してきた20年間。でも結局、会話がどこに行き着くかはわたしだけの責任じゃないし、そこに集まった人それぞれの個性が相互作用してその場の雰囲気が成り立っていると思うと、みんなが居心地がいいと思える場が作り出せるだけで十分なんだと思う。

それでも、数ある出会いの中で、”また会いたい”と、ただ一言そう思わせてくれる人に出会うことがある。これがコミュニケーションの正解なのか?と錯覚してしまうほど、人の懐に入るのが上手な人。そんな人に出会うと毎回、今まで探していた一等星を見つけ出したような、キラキラと温かさで胸がいっぱいになる。気が向いたときに書き続けていたわたしのお気持ちノートを遡ってみると、いつの時代もわたしは、また会いたいと思われる人に憧れて、そんな人になりたがっていた。そんな素敵な人たちの特徴とわたしの性格はあまりにも正反対で、自分を犠牲にしてまでそんな風になれるとは思わないけれど、この人だったらこんなとき、なんて言葉をかけるのだろう、と想像しながら生きるのはなんだか楽しくて明るい気持ちになれる。そんな人たちに救われながら、生きています、毎日。




いつかまた、人間を嫌いになってしまう日がきても、人と関わるのが苦になってしまう日がきても、もう誰とも話したくないと思ってしまう日がきても、この世は生きるに値すると思わせてくれるような出会いを信じて、求めて、わたしはこれからも生きていくのでしょう。


いつかはわたしが、誰かのそんな存在になれたらいいな、という思いで。



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