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日記 5月30日(月)高知観光

昨日から高知に来ている。南国市にある県立歴史民俗資料館で開催している巡回展「驚異と怪異」を観るためだ。道中、道の駅あぐり窪川で休憩をとった。観光のチラシを並べているなかに土佐打刃物のお店「黒鳥鍛工場」の案内をみつける。ここから10分と走らないところだったこともあり、せっかくなので見学してみることにした。
行ってみると、駐車場のないお店で、歩道に停めて入店する。ショーケースに入った刃物に迎えられる。店主に説明を受けることができた。店の奥の鍛冶場にも入らせてもらった。炉の頭上に神棚が祀られている。展示には鳶口や鍬などもある。店主がいうところでは「土佐打刃物」というと刀剣がイメージされがちだが、元は生活の中の刃物があって、のちに刀もつくられるようになったと考える方が自然だという。たしかに私も近代以後の鍛冶師について、刀鍛冶ではやっていけないからその技術を包丁作りなどに転用していったのかしらと想像したことがあったが、店主のいうように元々生活の刃物が先にあり、のちに戦国の世に入ってむしろ技術が刀づくりに転用されたと考えたほうが自然に思われる。
見学のなかでショーケースのなかの鍬鋤のたぐいを見ながら、私はうっかり「鍬もある意味刃物の一種なのですか」という問い方をしたのだが、店主の考えからするとこの表現は面白くなかったに違いない。それを示すように彼は「勿論刃物です」という表現で答えてくれたのだった。現在では鍛冶屋は少なくなっているが、かつては各村のなかに鍛冶師がいただろうという。それは一般の生活に必要なものだから。

さて、南国市では企画展だけ見たが、これがとてもよかった。驚異や怪異は現在では名前をもてず、私たちの生活から遠ざかり、幻想、ファンタジーといった「架空」のなかに組み込まれてしまってはいるが、科学、理性の時代以前には常軌を逸した力は「怪異」として私たちの生活の時空に「存在」するものだった。そういう導入の解説文を読みながら「怪異」は当時の方程式ともいえるのかもしれないと思ったりしていた。
また、「遠ざかり」とは書いたが、根絶されたわけではない。名を失うということは存在しなくなることを意味するのではなく、ヒトの認識の上では存在しないことになるという事態を意味するのに違いない。現代人はそれと知らず、むしろ怪異は無意識に潜んで跋扈しているのが現代と言えるのかもしれない。

企画展は怪異を空間的領域で3つに分類して「水・天・地」という流れで順路が組まれていた。最初の水の章ですでに面白い発見があり、それをぐるぐる考えているうち、天の章へ入ったときには疲労が蓄積してしまっていた。もう一度は来なくてはと思う。

面白い発見というのは、展示された世界各地の怪異の表象をみていると鱗のある者や細長い者と水、そして虹とが関係づけられているように見えてくるということだ。人魚は単体では人魚でしかないが、それは引き延ばしていくと蛇や龍のイメージになっていくことが可能だろう。蛇や龍は水と縁の深い生物である。虹もまたそうである。アマビエがコロナ禍を経てカラフルな鱗をもつようになったのも謂れのないことではないのかもしれないなどと思うのだった。

さて、今日は牧野植物園へ行くことにした。空はあいにくの雨模様。入口の門をくぐると早速たくさんの植物に出迎えられた。人工的に植えたようとうかがえるものもあるが、視界に現れる多くは施設の建つ五台山に自生した植物のように思われる(詳しくないので分からないながら)。それらのいくつかにネームプレートが立てられている。

牧野植物園

その密度に目をみはった。そこにひらけた景色はいわばありふれた植物たちによって構成されていた。私たちはふだんその一々の名前を確かめたりはしない。そのゆえにこのネームプレートは牧野の植物への視線そのもののように思われるのだった。それは、ここに映る名刺をもたない植物にもいきわたっているのだろう。
牧野は「雑草という草はない」という言葉を残している。この言葉を昭和天皇の言葉として記憶している人もいるかもしれない。実は牧野は天皇に招かれて講演か何かを行っているらしく、そうした交流のなかで牧野の言葉をあるとき昭和天皇は引用したのだろう。それは庶民に憧れた昭和天皇の人柄によく馴染んでいる。この植物園入口のネームプレートをみていると「雑草という草はない」という言葉が私の内側からも引き出されてくるのが分かるのだった。
ノジギクという植物がある。これはネームプレートの解説が教えてくれたのだが、野路に咲くことにちなんで牧野が命名したものなのだという。ありふれたものへの視線を感じさせる名である。

そうした「導入部」を経て、ようやく入園券が発行されるカウンターが姿を見せる。牧野は仕送りや収入以上の金を研究や普及、また贅沢のために使ったのだという。この無料区間はそんな彼を現すかのようである。

入園すると円形の建築の中央に中庭状の園がある。その屋根はそれを取り囲んで屋根を内側に傾けていた。空は折よくほどほどの雨であった。樋にあつめられた雨水がフトイのある水鉢のなかを揺らし、樋の縁から滴った分は隙間のある床を流れて石の隙間へ入っていくらしい。

常設展示は牧野の生涯を描いた展示スペースだった。植物を持った写真はどれも割れんばかりの笑顔である。もちろん植物を前に狂喜しているのだろうが、あるいはカメラを向けられているときのサービス精神のようにも思われ、どれもよく人柄をのぞかせている写真ばかりだ。

圧巻なのは畳敷きの研究室の再現である。座卓には瓶に活けた花をつぶさに観察している牧野の生人形が座っている。膨大な書物と採集した植物を仕舞っている新聞紙の山に取り囲まれ、まさにそこに牧野が生きているように思われる。なかでも私が気に入ったのは、外に面したガラス窓のあたりに葉書を入れた木箱である。そこに「出スベキ手紙」と書いてある。ある方面では忘れっぽいところもあったのだろうか、とにかく研究の外側にある生活の部分を垣間見せる装置として最後に目に飛び込んでくるのだった。

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