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ぼくらはどうして、どうでもよい写真をとって、投稿し続けるのか?(*^^*)

おはようございます、Martです。
昨夜は、友人2人と佐倉市見物のあと、勝田台にいって飲食してきました。
緊急事態宣言直前ですので、少人数で短時間を心がけて行ってきましたよ。

食事の最中には、盛んに写真を撮り合うもので、
出てきたお料理などにはなかなか手がつけられないのですが、
普段から皆で行くときはそんな感じなので、何も考えずやってます。

でも、なんでここで写真をとるの?とふと考えると、不思議な感じもします。

なんでぼくたちは、写真を撮るのでしょう?

写真は記録媒体?記憶媒体?

考えてみれば、最近のぼくらは実によく写真を撮りますね。

ぼくが子供の頃、「写真」と言えば大きなカメラに12枚〜36枚撮りのフィルムを入れて、ピントや露出・シャッタースピードなどを設定して、おもむろに(仰々しく?w)シャッターを押し、その後、撮りきったフィルムを現像とプリントに出して、しばらくした後に撮った写真を見たものです。

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カメラにしても、フィルムサイズに応じてたくさんの種類がありましたし、ボディやレンズも種類が多く、フィルムのメーカーなどによっても発色状態が違うもので、それはもう、大変な労力と経験を必要としたものです。

したがって、当時は“プロとアマの差”が明白で、ぼくらも「写真の練習」と称して、たくさんのフィルムの写真を撮ってきました。

カメラという機械にも精通している必要があったし、レンズやメーカーごとの好き嫌いというか、特性のようなものを理解し、それに応じて使い分けたりしたものでした。

ここまでくると、「写真」はある意味“職人芸”の域に達し、写真を撮ること自体が「商売」や「芸術」という見方が大勢でした。

「カメラマン」は、子供の頃のぼくたちの、“あこがれの職業”だったのです(*^^*)。

しかし最近では、誤解を恐れずにいうと「カメラ=スマホ」と考える人が多くなっているので(実はぼくもその一人)、わざわざ大きくて重たいカメラ一式を持ち歩くよりも、ポケットに入り、そのままネット上にもアップできる“スマホ”の方が、人々にとって遥かに利便性が高くなっているという事実があります。

撮った写真がその場で確認でき、撮り直しや連続写真やパノラマ写真、はてはムービー撮影までできちゃうスマホの性能に、昔のフィルムカメラはすでに往年の価値を失ったようにも見えます。
(もちろん、今でもフィルムカメラの愛好者は数多くいることは認識してますし、否定もしませんよ)

いずれにしても「写真を撮る」という行為自体は、今では「一般Peapleの日常行動」となり、スマホさえ持っていれば、自由に写真を撮り、それをネット上のSNSなどに投稿することにより、数多くの人々と共有することを目的に行われています。

日々の生活を記録する媒体として、スマホで撮った写真はある種のコミュニケーション・ツールとなりました。

コミュニケーション・ツールは、人々の間に様々な話題を提供し、感動だったり学びだったり、時には怒りや憎しみなども与えてしまうものです。

そこで起こっているさまざまな事象をここで語るつもりはありませんが…。

とにかく、「写真を撮ってネットに上げる」という行動は、多くの方に受け入れられ、広く普及することになりました。

日々を記録する媒体として、それが長く後世に残り、広く世界中の人の目に触れるのです。考えてみればちょっと怖い話かも知れませんね。

投稿の際などは、この事実を頭に置いておくことをオススメします。ぼくもそうしています。

他方、「写真は事実を切り取っている」とはいえ、現代ではさまざまな加工ができるようになり、あったものを消したり、色を変えたり、形を変えたりすることで、“実は無かった”ことにもできるようになりました。

Adobe社のPhotoshopという、たいへん高額なアプリケーションを初めてみた時は、そりゃもう、驚いたものです。
ちょっとした知識や経験、あとは根気があれば、どんな“捏造写真”でも出来ることへの興味と恐怖をいだきつつ、その“魔法の力”にも魅了されました。

写真は、イメージの世界を作り出す“素材”の一つとなりました。

当時はまだデジカメがほとんど“ゴミ”状態wでしたから、普通のフィルムカメラのプリントをスキャナーで読み込んで加工する、という作業をしていました。
ちょうど、息子が生まれた1990年頃だったと思いますが、その頃上記のことをしようと思うと、恐らく当時の物価で200万円くらいの投資が必要でしたから、おいそれと誰にでもできることではありませんでしたね。

しかしながら確実に「新しい時代の訪れ」を感じていたものです。

「イメージ画像」は写真よりもむしろ、人の記憶に直接埋め込まれるような作用を持っていると思います。
ある特定の人々へは、さまざま思考操作や動機づけを行う“麻薬”のような効能を持っている。

まあ、特に悪い意味ではないにせよ、見せられたイメージにより記憶や感情に働きかける、そんなツールでした。

カメラで切り取られた写真は、「事実を正確に記録する媒体」という機能の一部が変化し、「作られた事実を人々の記憶に残す媒体」となっていったように感じています。

現代のネット上を賑わしている写真たちは、それが事実であるかどうか、よりも、いかに“いいね”をもらえるか、に主眼を置かれて撮られていると言ってもいいすぎじゃないっすよね。

ぼくも、自分の“いいね”を増やすために、暇な時間に他人の写真に“いいね”をつけて回ったりしてますから、決して否定的に言っているわけではありません。
あらゆるコミュニケーションの起点となるイメージであれば、ぼくは存在価値はあると思いますから。

発信することの意義

こういった生活様式の変化を与えた現代の“スマホ文化”には、畏怖の念さえもいだくわけですが、同時に「なぜそうするのか?」を考えながら行っていくことも大切だと感じています。

ぼくらはきっと、自分が感動したり驚いたり、スキだと思った事柄を誰かに伝えたい、そして“共感”を得ることで、自分の存在意義を確かめたい、と思っているのだと感じます。

誰かの行った、経験した、そしてどう感じたのか、という感情までも、写真によって共有し共感者をふやして、ともに生きているという実感を得る。
いわゆる“承認欲求”の一つですね。

これはとても大切なことだと思います。

うちの娘が自殺した話は以前しましたが、彼女の死後、携帯電話(当時はスマホはまだあまり普及していませんでした)の中には、ほとんど何のデータも残されていませんでした。(写真はもとより、メールや連絡先など全て)

彼女は生前から友達が少なく、自分から共有を行うような行為はほとんどしていなかったと思われ、この辺りが最終的に“自死”を選ぶ要因になっていたような気がしてなりません。

もちろん親としてはその辺りをフォローしてやれなかったことへの後悔もあるのですが、ではどうしたら良かったのか?に対しては、未だに明確な答えを見いだせずにいます。

今のようにSNSでの交流は、当時もあったにはあったのですが、まだまだ“インフルエンサー”などもいない時代でしたから、その方法は彼女にも見えていなかったのかと推察されます。

コロナ禍も加わり、いろいろ難しい時代になっているかとは思いますが、こういった子どもたちが発するさまざまな“信号”を見つけられるのも、これら「文明の利器」の役割になっていくのでしょう。

ぼくには、写真を撮って投稿する、という行為は、自分の“生存確認”だと思えてなりません。
ぼくが投稿することで、誰かが何らかのリアクションをしてくれる、
このことがどれほどの「精神安定剤」になっているか、いつも思い、感謝しています。

これからも、みんなと生きていく!

っとまあ、ちょっと重たい話になってしまいましたが、現代における写真を投稿し、自分の生活や行動を発信するという行為は、決して悪いことではなく、むしろ“生きる支え”となっていると思います。

もちろん多くの危険もありますので、十分注意が必要ですが、上手く使っていくことで「小市民」たるぼくたちも、ちょっとしたヒーロー気分を味わえることで、生きていく希望を得られたり、今後の行動指針が見えてくることもあります。

上手く付き合っていきたいと思いますね♪

これからも、ちょっとした日常の風景や感動したこと・ものなどを切り取り、ほかの人たちとも共有しつつ生きていくための方法として、写真を使っていきたいと思います。

今回は、ぼくらは写真を何で撮るのか?について語ってみました。
「写真」についてはいろいろ語りたいことはあるのですが、今回はぼくの経験を踏まえた“意義”について書いていたら、かなりの長文になってしまいました。

このあたりについては、さまざまなご意見もお有りとは思いますが、あくまでもぼくの私見ですので、ご気分を害したなど場合は、ご勘弁ください。

ただ、ぼくらとは違う“デジタルネイティブ世代”の方々が気軽に使っている写真と言う媒体にも、いろいろな危険が存在していることと、
ぼくらと同世代や、写真の投稿をしない方々にも、この行為のメリットもわかってほしいという気持ちから書いております。

結局ぼくら人間は、一人では生きられない。

そのことを確認する意味でも、良い機会になったこと思います。

長文、お付き合いいただき、ありがとうございました。

ではまた!

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