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【ファンタジー小説】「そらねこ」

 今朝も十時になると扉のドアノブにかかるプレートをひっくり返して『OPEN』にする。石畳のでこぼこした道をベビーカーの車輪が音を立てて進む。押している母親がこちらを見て微笑んだ。
「おはようございます、ファーさん」
「おはようございます、奥さん。それにしてもよくこんなでこぼこ道でも眠っていられるねえ。坊やは将来大物になりますよ」
「慣れっこなんですよ」
「そうですか。おい坊や、太陽をいっぱい浴びて大きくなるんだよ」
「ありがとう、ファーさん」
 この小さな街では、たいてい顔を見ればどこの誰だかわかる。大人になって外へ出ていく者もいるが、家庭を持ったり、仕事をリタイアしたり、あるいは都会で夢破れたり、何かがあると、みなこの街に帰ってくる。
 ファーさんはそんな人たちの話を聞く。彼らはコーヒー一杯で自分の半生をファーさんに語って聞かせる。
 今日のお客さん第一号はいったい誰かな? わくわくしながら音楽を流す。でも、お客さんが一人もこない日だってある。そんな日は、ファーさんはレジ台代わりのデスクに足を乗せて、本を読む。あまりに退屈だから、すぐにあくびが出る。いつもいつもあくびばかりしているから、いつの頃からか、街の人たちにファーさんと呼ばれるようになった。
 
 カランコロン、ドアベルが鳴った。
「いらっしゃいませ」
 本を頭に被せ、居眠りをしていたファーさんは顔から本を取った。ファーさんは視力が低く、眼鏡をかけないと何も見えないので、デスクの上の眼鏡をかけた。これで良く見える。さて、本日第一号のお客さんは、と。おや、誰もいない。
「ベルの音がしたと思ったんですが、気のせいですかね」
 その時、どこからか声が聞こえた。
「たべる、どあ、あける」
 んんん? はてさて、どこから声がするのかな?
「そら、いたい」
 空が痛い? ファーさんは窓の外を眺めた。
「お空はとくに痛そうではないようですね」
 すると、デスクのすぐ前で、三角の灰色の何かが動いた。
「蝶々ですかね」
 ファーさんが身を乗り出してデスクの前を覗いた。ところがそこにいたのは蝶々ではなく、一匹の大きな猫だった。とてもとても大きな猫。蝶々に見えたのはぴんと立った三角の耳だ。灰色の毛が全身を覆うが、四肢の先には靴下でも履いているような白い毛を生やしている。まっすぐにこちらを見る目玉はピスタチオみたいな緑色で、瞳孔が開きまんまるだ。尻尾も太くて長い。
「たべる、どあ、そら、あける、そら、いたい」
 猫は前足をお尻にあて、さすっている。
「ほうほう」ファーさんは耳のしたをかきながら答えた。たべるどあ? いたい? ファーさんは目を指でこすった。
「なんてことだ!」
 猫は後ろ足で立ち、前足を手のように使い、おまけに言葉をしゃべっている。
「たべる、どあ、じゃむ、そら、たべる」
 一生懸命に猫は訴えかけるのだが、ファーさんには意味がわからない。よっこいしょ、とファーさんはデスクを回り込み、猫の横に立った。腰と膝がすこし曲がったファーさんの、足の長さと同じくらいの背丈だ。まんまるな瞳はまっすぐにファーさんに向けられている。
「すまないねえ、話がよくわからないので、あちらのベンチに腰掛けましょうか。飲み物を用意しますので、ゆっくり話を聞きますよ」
 ファーさんのカフェは角地にあって、窓際にコの字型にベンチが設置されている。そこは街の男どもがフェスティバルの出し物を何にするか頭を寄せあい考えたり、専業主婦たちが旦那の悪口をいったりしながらコーヒーを飲む場所だ。今は猫に貸してあげよう。
 猫をベンチまで連れていくと、猫は爪をかけてよじのぼり、ベンチに腰掛けた。丸くもならず、のの字にもならず、人間と同じようにお尻をつけて腰掛けている。
「飲み物は何がいいですか」
 ファーさんが訊くと、猫は「みるく」と答えた。まあ当たり前か。
 午後も近いが、まだ三月なので、ミルクもちょっとだけ温めてあげよう。猫舌だろうから、ほんのちょっとだけ。それから食べるかどうかわからないけど、メープルクリームサンドクッキーも。ここには魚がないですからね。
 それらをトレイに乗せて持っていくと、猫は鼻をひくひくと動かした。
「どうぞ、遠慮はしないでくださいね」
 勧められると、猫は両前足でカップを持ち上げた。舌を浸してミルクを飲んだ。
「メープルクッキーはいかがですか」
 皿を前へ差し出すと、猫はクッキーを手に取り、爪をひっかけてクッキーをクリームから剥がした。そしてクリームを舐めてしまうと、クッキー部分を皿に戻した。三枚のメープルクッキーをすべて同じように食べてしまうと、白い前足で皿をこちらにずらした。おかわりが欲しいのだろうか。
「猫さん、もうそれが最後のクッキーだったのです。もうありません」
 ファーさんがそういうと、猫は残念そうにミルクを舐めた。
「ところで猫さん、たべるどあ、とはなんのことですか?」
 思い出したように、猫は目をくるくるさせた。「たべるどあ、たべる、いっぱい」そういって猫は両前足を広げた。
たべるどあ、たべる、いっぱい、もしかして。
「食べるものがいっぱい入っているドア、つまりそれは冷蔵庫のことですか?」
 猫は鼻息をひとつ吐き、尻尾をぶんぶんと振った。当たりのようだ。
「で、冷蔵庫がどうしたのですか」
「そら、たべる、どあ、あけた、いたい」
「お空が?」
 ファーさんが訊くと、猫は前足で顔を叩きはじめた。
「痛いですよ、顔をそんなに叩いたら痛いです」
 でも、肉球のやわらかさのせいか、ぽんぽんと軽い音しかしなかった。
「もしかして猫さん、空とはあのお空のことではなく、猫さんのお名前なのですか?」
 ふー、と鼻息。尻尾の激しい動き。これも当たりのようだ。
「猫さんのお名前はソラさん。それでソラさんと冷蔵庫がどうしたというのですか?」
「たべる、どあ、あける、いたい」今度は苦痛に顔をゆがませ、お尻をさすった。
 どうやらソラ猫は冷蔵庫を開けて、飼い主にぶたれたようだ。
「それは難儀でしたね。ソラさんはよほどお腹が空いていたのですね」
「たべる、どあ、じゃむ、じゃむ、すき」
「ほう、ジャムがお好きなのですか」
 カランコロン、ドアベルが鳴った。振り向くと、アルバイトのレミちゃんがいつものように勢いよく入ってきた。
「こんにちは、ファーさん。ちょっと遅れてごめんな······きゃあ猫ちゃん、かわいい」
 レミちゃんはソラ猫に抱きついた。「やだあ、ふわふわ」ともみくちゃにしている。ソラ猫はされるがままで、気持ちがいいのか目を細めている。
「どうしたの、どこの猫ちゃんなの」
「そら、たべる」
「きゃああ、しゃべった!」かわいい、首に抱きつく。「それで?」
「そら、たべるどあ、あけた、いたい」ソラ猫はファーさんにしてみせたことと同じ仕草を繰り返す。
「まあ、冷蔵庫を開けちゃって飼い主さんに蹴られちゃったのね」驚くことに、レミちゃんはソラ猫のいいたいことがすぐにわかったようだ。
「そんなひどい飼い主もいるのね、ソラちゃんかわいそうに」レミちゃんはソラ猫のおしりをよしよしと撫でた。
「レミちゃん、お昼ごはんは済みましたか」
「おばあちゃんをお風呂に入れてから急いできたので、まだなの」
「では、一緒にホットサンドイッチを食べましょう」
「じゃあわたしがコーヒーを淹れるわね」
 ふと、ソラ猫の前に置かれた皿を見て、レミちゃんはいった。
「あら、お残しはだめよ。出されたものはありがたく全部食べなさい」
 これはレミちゃんと暮らすおばあさんの口癖だ。八十を過ぎていて、体がずいぶんと不自由になってきたので、レミちゃんが大学に通うかたわらお世話をする。二人暮らしだが、血はあらそえないもので、二人ともおしゃべりがはじまると止まらない。だから慎ましやかでも、レミちゃんの家からはいつも笑い声が聞こえてくる。
 ファーさんのカフェにアルバイトにくるのは週に四回。平日に二日とあとは土日。レミちゃんがいる日はお客さんがいつもより多く来る。それなのに、ファーさんはレミちゃんにあまりいいお給料を支払えないから、申し訳なく思っている。
 レミちゃんが淹れてくれるコーヒーはとても美味しい。ファーさんの体を気遣って、砂糖の代わりにラカントを入れ、ミルクも温めてから注ぐ。レミちゃんそのもののような優しい味だ。
 ファーさんは食パンとチーズでホットサンドイッチを作った。ホットサンドメーカーでプレスするだけだから誰にでもできる。
 物欲しそうな表情で鼻をひくひくさせているソラ猫に、レミちゃんは「サンドイッチはあげられないわ。残したクッキーを全部食べ終わるまでわね」とぴしゃりといった。
 ソラ猫はクッキーを手にとり、恨めしそうに眺めていたが、やがてぽり、とかじった。レミちゃんはにこにことソラ猫を眺める。
「ソラちゃん、美味しい?」
 鼻息をふー、尻尾をぶんぶん。どうやら食わず嫌いだったようだ。
「ソラさんは甘いものがお好きなんですねえ」ファーさんがいった。
「そら、じゃむ、たべる、しど、おさかな、たべる」
「しど?」ファーさんが首を傾げる。
「ソラちゃんにはシドっていう兄弟がいるのね」ソラ猫は尻尾を振ってレミちゃんを見上げる。
 カランコロン、ドアベルが鳴った。振り向くと、少年がひとり、入り口で立ち尽くしていた。もちろんだが、椅子に座っている大きな猫に、目を丸くして見ている。
「大丈夫ですよ、狂暴ではありません」
 ファーさんがそういうと、少年はとことこと歩いてきた。
「なに? またいじめっこにやられたのね」レミちゃんは少年の沈んだ顔を見ていった。「今度は何をされたの?」
「ぼくが悪いんだ。新品のスニーカーなんか履いていったから。花壇に埋められちゃって。古いのを履き続けていればよかったんだ」
「ねえ、君が悪いことなんて一ミリもないのよ。そんな悪事を働くその子たちが千パーセント悪いの。ひどいわね、花壇に埋めちゃうなんて」
「そら、いたい、きらい」
 わあ! 少年は叫んだ。「猫がしゃべった!」
「そうよ、ソラちゃんはしゃべるの。座って待ってて。ココア持ってきてあげる」
 レミちゃんはすっくと立ち上がって、足早に厨房へ入っていった。
 ファーさんはよいこらしょ、と腰を上げ、レジの後ろの本棚にはたきをかけた。
 ベンチには少年とソラ猫。少年がなにやらソラ猫に話しかけている。ソラ猫はときおり鼻を鳴らし尻尾を振る。何かはわからないが、会話は成立しているらしく、少年は嬉しそうにソラ猫の胴に抱きつく。ココアを持ってきたレミちゃんがそこに加わり、笑い声さえ聞こえてくる。今日はお客さんが来ない日か。ファーさんは椅子に座ると、レジ台代わりのデスクに足を乗っけて、こっくりこっくりと昼寝をした。遠ざかる意識の中で、レミちゃんと少年の笑い声が聞こえてくる。少年が笑ったことなんていままであったかな、と思いながら本格的な眠りに入った。
 レミちゃんに叩き起こされ、ファーさんは大きなあくびをひとつした。少年はもういなかった。
「ファーさん、もう五時よ。あたし帰るけど、ソラちゃん、どうするの?」
「ソラさん、お家に帰らなくていいのですか」
 ファーさんが尋ねると、ソラ猫はたちまち背中の毛を立てた。
「そら、いたい、いや、いたい、きらい」
「ソラちゃん、飼い主に虐げられているみたいね。そんなお家なら帰らなくてもいいんじゃない」レミちゃんはファーさんの顔を横目で見た。
 ファーさんはため息を吐いた。「わたしの家に来ますか?」
 ソラ猫はまんまるな目を輝かせて「ふー」と鼻息をこぼした。
「大学はもう春休みだから明日も来るわね。ソラちゃんバイバイ」ソラ猫にハグをして、レミちゃんは帰っていった。

 季節は三月に入ったばかりで、昼間はずいぶんと暖かくなってきたが、日が落ちるとまだ寒い。そのせいか、ソラ猫は毛をぶっくりとふくらませ、石畳の道を歩いていた。相変わらず二足歩行で。すこし腰の曲がったファーさんと、後ろ足の短いソラ猫は、歩くペースが同じで、カフェからツーブロック離れたファーさんの家までたっぷり二十分かけてたどり着いた。
 ファーさんの家は小さな平屋建ての煉瓦作りで、煉瓦がチョコレート色なのと真四角なので、街の人からは「ファーさんのチョコレートハウス」と呼ばれている。
 家の中に入ると、ファーさんはストーブを点火した。それからビーフシチューの鍋を温めた。
「ビーフシチュー、召し上がりますか? 苦手ではないですか?」
「そら、おにく、たべる、しど、おさかな、たべる」
「それはよかったです。なにせビーフシチューを作りすぎてしまったので、一週間は食べつづけないとならないな、と思っていたもので」
 さあさあ、座ってください。ファーさんはテーブルの椅子を引き出した。
 温めたビーフシチューを皿に盛り、ひとつに息をふうふうと吹きかけ、冷ました。
 誰かと向かい合って食事などしたことのないファーさんは、アルコールも手伝ってか、とても楽しい気分でむくむくとした猫を眺めていた。
 ファーさんが食器を洗っている間、ソラ猫はストーブの前で丸くなっていた。そうしていると、本当に猫なのだなあ、と実感するのだった。
 翌朝、目を覚ますと、ストーブの前にソラ猫の姿はなかった。
「もしかしたら、わたしは夢を見ていたのでしょうかねえ」
 ファーさんは残念な気持ちで寝返りをうった。ところが、足にふわりとしたものがあたった。毛布をめくると、そこにはまんまるになったソラ猫が眠っていた。
「おや、そこにいたのですねえ」ふふふ、とファーさんは笑った。
 顔を洗って着替えを済ませたファーさんは、ベーコンエッグを作って食べた。匂いを嗅ぎ付けたソラ猫が、鼻をくんくんとしながらベッドを下りてきた。
「召し上がりますか」ファーさんは訊いた。
「そら、おにく、おにく」鼻息をふー。
「はいはい、ではベーコンを焼きますね」
 ソラ猫は食いしん坊なのだなあ、と思った。
「わたしはこれからお店に行きますが、ソラさんはどうしますか? 一緒に行きますか? それともお留守番をしていますか?」
「そら、れみ、あそぶ」
「レミちゃんに会いたいのですね。では一緒に行きましょう」
 ファーさんは毛をぶっくりとふくらませているソラ猫にマフラーを巻いてあげた。
 二十分かけて店まで歩き、ドアノブにぶら下がるプレートを『OPEN』にひっくり返す。さてさて、今日のお客さん第一号は誰かな?
 カランコロン、ドアベルが鳴った。「いらっしゃいませ」ファーさんはいう。見ると、ベビーカーを押している奥さんが必死にドアを開けていた。
「おはようございます、奥さん」ファーさんはドアを支え、奥さんがベビーカーを入れるのを手伝った。
「おはようございます、ファーさん」
「お珍しいですね」
「ええ、たまにはファーさんのコーヒーでもいただいてのんびりしようと思ったので」
「そうですか、ではいまコーヒーを」とファーさんはいいかけた。
「きゃあ、大きな猫」奥さんは小さな悲鳴を上げた。そしてベビーカーを引き寄せた。
「奥さん、大丈夫ですよ。赤ん坊に悪さはしませんよ。とても大人しい猫さんです。ちょっと食いしん坊ですが」
「ほんとうに?」
「試しに撫でてみてください。何もしませんから。ソラという名前なのですよ」
「ソラちゃん」奥さんは怖々と手を伸ばした。ソラ猫の頭を撫でる。
「あかんぼ、かわいかわい、なでなで、うれしい」
「きゃあああ!」奥さんはさらに叫んだ。「しゃべったわ!」
 ファーさんは笑った。みな同じ反応をするからだ。当たり前といったら当たり前だろうが。
「かわいかわい」ソラ猫は肉球を赤ん坊の頬に当てた。奥さんは固まっている。赤ん坊はけらけらと笑い出した。
「まあまあ、とりあえず座ってくださいな」
 奥さんはベンチに腰掛け、向かい側で赤ん坊の頬っぺたを触る大きな猫をしげしげと見ていた。爪を出さないか心配そうだ。
「まま、なでなで、あかんぼ、すき」
「ええ、そうね」
「だっこ、すき、まま、まま、だっこ」
 ソラ猫の言葉に、奥さんはしばらく茫然としていたが、やがてわっと泣き出した。
「いかがされたのですが、奥さん」
 ファーさんは慌てて駆け寄った。奥さんは顔を手で覆い泣いている。
「まあ、とにかく落ち着いてください」
 ファーさんはコーヒーを淹れに厨房へ行った。奥さんはさめざめと泣いている。赤ん坊はソラ猫の肉球にぽんぽんとされ、笑い声を上げている。ファーさんがコーヒーカップをトレイに載せ、あらわれた。
「ノンカフェインのコーヒーです。ミルクもたっぷり入れましたよ。熱いうちにとうぞ」
 奥さんは鼻をすすりながらコーヒーをひとくち含んだ。それから、ゆっくりと話し出した。
「私、この子をあやすことができないの。産んでから、命の重みに押し潰されそうになって、苦しくて、抱いて撫でてあげることができないの。かわいそうだとは思うけど、でもできないの。お乳はあげてるわ。おむつも替えてるし。ただ、心から可愛いと思えなくて、怖いの。ああ、私はなんてひどい母親なのかしら」
「そうだったのですね。誰にもいえずに苦しかったでしょう。でも奥さん、わたしは奥さんがひどい母親だとは思えません」
 奥さんはファーさんを見つめた。とても真剣な眼差しで。ファーさんはつづけた。
「赤ん坊にお乳をあげているときは抱いているでしょう。そのとき、奥さんの体から赤ん坊に生きるパワーを与えているのです。おむつを替えるのは、赤ん坊の不快を拭ってあげているのです。赤ん坊にとって一番にして欲しいことをしてあげられているじゃないですか。赤ん坊は話せないから、うれしい、とお母さんに伝えられないだけで、じゅうぶん満たされているのですよ」
 奥さんはしばらく考えて、それから涙を指で拭った。
「ありがとう、ファーさん。私、思い詰めていたの」
「お礼ならソラさんにいってくださいな」
「そうね、ソラちゃんがいってくれなかったら、私、打ち明けることができなかったものね。ソラちゃん、ありがとう」
 ソラ猫はふーと鼻息を吐いて、また赤ん坊の頬っぺたに肉球を押し当てていた。
 奥さんが笑顔を取り戻し、店を出ると、入れ替わるようにレミちゃんが飛び込んできた。
「おはようございます、ファーさん」挨拶もそこそこに、レミちゃんはソラ猫に抱きついている。
「れみ、かわいかわい、あかんぼ、なでなで」
「なあに? 赤ん坊がどうしたの?」
「いえね、ケーキ屋の二階の奥さんが、ソラさんの言葉がきっかけで子育ての自信を取り戻したもので、わたしもソラさんもとてもよかったと思っていたところなんです」
「へええ、ソラちゃんすごいわね」
「あかんぼ、かわいかわい、なでなで、いたい」
「いたい? もしかしてソラちゃんのお家にも赤ちゃんがいたの? 撫でて怒られたの?」
 鼻息をふー、尻尾をぶんぶん。
「しど、あかんぼ、ねる、そら、あかんぼ、かわいかわい、いたい」短い前足を一生懸命動かしている。
「あら、シドちゃんは添い寝するだけだから怒られないのね。ソラちゃんは赤ちゃんにちょっかい出すから怒られちゃうのね。きっといたずらされていると思ったのね」
 レミちゃんの理解力には感心させられる。レミちゃんに腹の毛をもみくちゃにされ、ソラ猫は目を細めてまんざらでもない表情だ。

 午後になると、自転車屋の主人がコーヒーを飲みにやってきた。ソラ猫を見てびっくりし、しゃべると「ひええ」と腰を抜かしていた。レミちゃんがくすくすと笑う。
「どこから来たんだ、このばかでかい猫」
「それがわからないんですよ」
「飼い主が暴力をふるうから、ソラちゃん逃げてきたのよ」
「そ、そうかい」
「いたい、いや、かなしい」
「そうよね、ひどいわよね」
「そ、そうだよな、ひどいよな」自転車屋の主人はなぜか力なくそういった。
「奥さんと娘さんはお元気ですか」
 ファーさんがそう訊くと、自転車屋の主人は目を白黒させた。
「お、おう。げ、元気なんじゃねえの」
「他人事みたいにいいますねえ」ファーさんは笑った。
 コーヒーを飲むと、自転車屋の主人はそそくさと帰っていった。いつもなら、一時間くらいは居座るのに。
「どうしたんでしょうねえ」ファーさんは首をひねった。
「ほんとね、何か変だったわね。ソラちゃんが怖かったのかしら」
 まさかねえ、とソラ猫の首もとを撫でる。気持ちがいいのか、ソラ猫はゴロゴロと喉を鳴らす。
 三時になり、お客は誰もいないが、音楽を流しながらコーヒーを飲んだ。ソラ猫はミルク。音楽はルロイ・アンダーソンの名曲集。気持ちが軽々としてくる。西向きのベンチはぽかぽかと暖かく、日溜まりの中、音楽に耳をすませたり、なんてことのないおしゃべりをして過ごした。
 カランコロン、ドアベルが鳴った。ファーさんが眠たそうな目で入り口を見ると、昨日の少年が立っていた。
「いらっしゃいませ」ファーさんは声を掛けた。
 少年はベンチに近寄り、安堵の色を浮かべた。
「よかった、ソラ、まだいた」
「ソラちゃんに会いにきたのね」
 うん、少年はぎこちなく笑った。ソラ猫は少年がとなりに座っても平然としている。
「今日は? いじめっこに悪さされなかった?」
 たちまち少年は顔を曇らせた。
「腕にしっぺされたんだ。僕がかけっこでビリだったから」
「そんな理由でしっぺなんてひどいわ」
 レミちゃんが少年の袖をめくった。赤く腫れた痕がある。
「あらひどい、腫れてるじゃない」
「いいんだ、僕、慣れっこだから」
「そんなことに慣れちゃだめよ」
 少年は消え入りそうな笑みを浮かべて、ソラ猫の首に抱きついた。
「ああ、ふわふわだあ。ソラは猫でいいなあ。僕も猫になりたいよ」
「そら、いたい、たべるどあ、あける、ねこ、いたい」
「そりゃあ人間は好きなときに冷蔵庫開けて好きなもの食べられるけど、猫は寝てばっかで、やっぱりいいよ」
 少年がそういうと、ソラ猫はふああ、と大きなあくびをひとつした。「ほらね」少年は微笑んだ。
 外が賑やかだ。外を見ると、数人の男の子たちが窓にはりつき、しげしげと中を見ている。彼らはドアに回り込み、開けて入ってきた。挨拶もせず、ずかずかと入ってきてベンチを囲んだ。
「わあ、でけえ猫。化けもんじゃん」一人がいう。
「なんでおまえがいるんだよ」もう一人がソラ猫のとなりに座る少年を指差した。
「どけよ」一番体の大きな子が少年に詰め寄った。
「どくことないわよ」レミちゃんが語気を強めた。
 しかし、少年はベンチを下りた。男の子たちがそらを囲み、ちょっかいを出しはじめた。耳をつまんだり、尻尾を持ったり、肉球をつついたりしている。ソラ猫は迷惑そうな顔だ。でも男の子たちは止めない。ソラ猫は鼻息をふーふーと吐いて少年の顔を見つめる。少年は小さな声でいった。「やめろよ」しかし、男の子たちは奇声を上げてソラ猫をもみくちゃにしているので、少年の声は届かない。ソラ猫は身をよじりながら、すがるような目で少年を見る。
「やめろよ!」
 男の子たちが少年を見た。ソラ猫はベンチから下りて、少年のうしろに隠れた。
「なんだって? もう一回いってみろよ」体の大きな子が少年をにらみつけた。
「い、いやがってるじゃないか」
「なんだと? おまえ生意気だぞ」
「そうだそうだ、またしっぺされたいのか」
 少年は黙る。怖いようだ。ソラ猫が短い前足を回し、少年の腰にしがみつく。
「おい、おまえ、俺らにそんな口たたいて、ただで済むと思うのか」
「君たち卑怯よ」
 レミちゃんがそう叫ぶと、ファーさんがレミちゃんを手招きした。「どうして?」険しい顔のレミちゃんに向かい、ファーさんは人差し指を口に当てた。
 少年はソラ猫の肩を抱き、いった。
「どうして人が嫌がることばかりするんだよ」
「なんだ? 誰がいつそんなことしたっていうんだ」
 どうやら体の大きな子はボスのようだ。一歩踏み出すと、少年は一歩下がった。
「いたい、だめ、いや、いたい」
 男の子たちは「うへえ、しゃべった」とのけぞった。
「なんだ、その猫しゃべるのか。ちょっと渡せよ」
「いやだ!」少年は叫んだ。あまりに大きな声だったので、男の子たちもびくっとしていた。
「ソラ猫は渡さない!」
 ソラ猫も少年の背後から「しゃー」と威嚇している。少年と体の大きな男の子はにらみあっている。しばらく膠着状態がつづいた。やがて、体の大きな男の子がいった。
「わかったよ。猫にもおまえにも手を出さないよ」
「ほんとう?」
「ああ、その代わり、俺たちも猫と仲良くさせてくれよ」
「ソラ、どうする?」少年は身をひねってしがみつくソラ猫に訊いた。
「そら、あまい、すき、いいこ、すき」少年は高らかに笑った。「そうか、あははは」
「な、なんていったんだよ」体の大きな男の子が訊いた。
「甘いものをくれたら好きになってあげるって」
 甘いもの? 男の子たちは顔を見合わせた。
「おれ、キャラメル持ってる」一人がいった。
「ソラ、キャラメル食べる?」
「たべる、あまい、すき」
 少年たちはベンチに腰掛け、キャラメルを食べていた。ソラ猫は背中を撫でられて、キャラメルをくちゃくちゃと噛んでいる。ファーさんとレミちゃんは微笑みあって少年たちを眺めていた。

 男の子たちが親に話し、親がご近所に話し、ソラ猫は街中の噂となり、ファーさんのお店は、連日押すな押すなの大盛況になった。おかげで売り上げが伸びたが、レミちゃんは慌ただしく厨房との行き来をしなければならなかった。
 しかし、ソラ猫が甘いものを好むことも知れ渡り、クッキーやケーキの差し入れが絶えなかった。肉球の上にお菓子を乗せる。ソラ猫は目を細めてそれを食べる。その姿を見たいがために、差し入れは山積みになり、コの字型のベンチはソラ猫を囲むように常に満席だった。

 「ソラさん、お腹周りがすこし太ったのではないですか」ストーブの前で丸くなるソラ猫に向かって、ファーさんはいった。四月に入ろうという頃だが、夜はまだまだ冷え込んだ。
「まどーる、あまい、すき」
「ああ、あの奥さんが焼いたマドレーヌですね。ほんとう、バニラエッセンスが利いていて確かに美味しいですね。ソラさんに元気をもらったお礼だそうですよ」
 今夜もファーさんは赤ワインをちびちび舐める。こうして眠くなるまでソラ猫とおしゃべりを楽しむのも、すっかり定着していた。
「もしも接客に疲れたら、ここで休んでもいいのですからね」
「いたい、ない、あまい、いっぱい、そら、すき」
「そうですか。飼い主さんみたいな乱暴なことをしなければ、ソラさんは甘いものと人間が好きなのですね」
 ファーさんもこの頃にはソラ猫の言葉が聞き取れるようになっていた。ふああ、ソラ猫が大きなあくびをした。
「明日も忙しくなりますからね、もう寝ましょう。それにしてもソラさん、お腹が太りましたね」
 ソラ猫は身をよじって腹を上に向けた。
「あーあ、そのウエスト、見事ですね」ファーさんは呆れ顔で部屋の灯りを消した。

 自転車屋の奥さんと子供の姿をみかけなくなった、という噂ばなしがまことしやかに流れていた。ここひと月近く、街の人は誰も見ていない、というのだ。
 その日はアパートをすこし早く出て、果物を買いに朝市へ行った。日が出ると暖かく、もうソラ猫も毛をぶっくりとさせることもなくなった。市場へつくと、果物屋に直行した。ぶらぶら歩くと、目移りして余計なものまで買ってしまう。
「おはようファーさん。おっとソラ猫も一緒かい」
「おはようございます」
「良いオレンジが入ってるよ」
「じゃあそれをいただこうかな」オレンジティーを作るのに、新鮮なオレンジは欠かせない。「あと、いちごとキウイもいただこう」いちごはジャムにする。キウイはパフェに飾る。
「まいどあり」
 お代を渡して商品を受け取ると、果物屋は「良い一日を」と微笑みかけた。
 帰り道、中央広場を通った。真ん中に噴水がある。幼い子供を遊ばせている若い父親がいる。噴水のふちに誰かが腰掛けていた。
「あれは自転車屋のご主人ではないですか」
 自転車屋の主人は、地面をじっと見つめていた。とても深刻そうな面持ちで。
「おはようございます」ファーさんが声を掛けた。
 自転車屋の主人ははっと顔を上げ、すこしばつの悪そうな顔で「おはよう」と返した。
「こんなところで何をされていたのですか」
「いやあ、これといって」なんだか歯切れが悪い。
「新鮮なオレンジを買ってきたんです。オレンジティーを淹れますので店に寄っていきませんか」
「ああ、そうだな、そうしよう」よっこいしょ、と自転車屋の主人は重たそうに腰を上げた。
 ドアノブの札をひっくり返して『OPEN』にする。店内の照明を灯して「どうぞ座っていてください」とファーさんは厨房に消えた。
「ソラは元気かい。おや、すこし太ったんじゃねえか」
「あまい、いっぱい、すき」
「そうか、お菓子を食べすぎたんだな。糖尿病には気をつけろよ。っていっても、猫に糖尿病ってあるのかな」自転車屋の主人ははっはっはと笑った。
 ファーさんがオレンジティーを淹れて運んでくると、自転車屋の主人は「いやあ、ありがとう」とティーカップを持ち上げた。「ああ、本当だ。新鮮なオレンジの香りが際立ってるよ」
 ソラ猫にはミルク。お皿に輪切りにしたキウイとマドレーヌが盛ってある。ソラ猫は前足でカップを包み、ミルクを舐める。
「まどーる、あまい、げんき、いっぱい」
「おれは元気だよ。でも、マドレーヌはひとつもらおうかな」そういって自転車屋の主人はマドレーヌをひとくち頬張った。
「うん、うん、確かに美味いな」
 ファーさんは音楽を流した。クライスラーのバイオリン小曲集だ。
「そういえば娘さん、バイオリンを習っておられましたね。まだ続いていますか」
「あ? ああ、とっくに辞めたよ」
「そうですか、それはもったいない」
「練習が嫌いで、ちっとも上達しないって家のがこぼしてたんだ。だからきっぱり辞めさせたよ」
「娘さんは納得していたのですか」
「練習もしないくせに、いざ辞めるとなったら泣いていたよ。まったく、わがままなんだよ」
「しばらくしたらまた習いたい、というかもしれませんねえ」
「もういわねえよ」自転車屋の主人はどこか投げやりにいった。
「そうですか」ファーさんは相槌を打つ。
「というか、家を出ていっちまったんだよ、二人とも」
「奥さんと娘さんがですか」
「ああ、そうだよ」自転車屋の主人はすこし苛立たしそうにいった。
「なぜ出て行かれたのか、心当たりはあるのですか」
「なぐっちまったんだ」
「え? 誰が誰をですか」
「おれだよ。家のやつがあまりにも衝動買いばかりするもんだから、無駄遣いもたいがいにしろっていったんだ。するとあいつ、おれの稼ぎが悪いとか抜かしやがってな、思わず手が出ちまったんだよ」
「お迎えに行って謝られたらいいのではないですか」
「おれは悪くない。悪いのはあいつだ」自転車屋の主人はそっくり返って腕組みをした。
「いたい、だめ、いたい、かなしい、かえる、いや」
「なんだ? 何をいってるんだ?」
「ソラさんは、飼い主に暴力を受けて逃げ出してきたのです」
「······そうなのか」
「そら、かえる、いや」
「だから帰りたくないそうなんです」
「なんで暴力を受けていたんだ」
「たべるどあ、あけた、いたい」
「なんだって?」
「冷蔵庫を勝手に開けたら怒られて蹴られたそうなんです」
「そんなことで」
「いたい、いや」ソラ猫は苦痛に顔を歪ませて、おしりをさすっていた。
「どんな理由があっても、痛い思いは消えません」
「ソラはもう二度と飼い主のところには帰りたくないのか」
「いや、いや、かえる、いや」ソラ猫は首をぶんぶんと振った。
「そうだよなあ······、殴られたら痛えよなあ。ソラはもし飼い主が謝ったら許して帰るのか」
「いたい、やめる、かえる、しど、いっしょ」
「お、おい、なんていったんだ」自転車屋の主人はソラ猫の言葉の意味がわからず、ファーさんに訊いた。
「ソラさんにはシドという兄弟がおりまして、飼い主に蹴られたりしなければ、仲良く暮らしたいそうです」
「仲良く、なあ······」
「しど、あいたい、いたい、いや」
「おまえも悩んでいるんだな。つらいか」
「しど、いっしょ、そら、しど、いっしょ、いい」
 カランコロン、ドアベルが鳴った。
「おはよう、ファーさん、ソラちゃん。あら、いらっしゃい」レミちゃんはいつも元気がいい。「あら、どうしたの? みんな辛気臭い顔して」
自転車屋の主人はどこか吹っ切れたように笑った。「あはは、そうか、辛気臭いか、あはは」
 それから数日経った頃、自転車屋の家屋からバイオリンの音が聞こえてくるようになったという。

 相変わらず、みなソラ猫を目当てにやってきてはコーヒー一杯でおしゃべりに花を咲かせていた。
 少年も友達に囲まれ、ソラ猫の通訳を買って出ていた。
 ソラ猫は貢ぎ物のお菓子を食べて、ますます太っていった。
「ソラさん、健康のためにお散歩しましょう」ファーさんは提案した。
 朝、早く起きて、街を歩いた。この街は小さいので、歩いてもすぐに街外れに出てしまう。西側へ行くと、街を分離するように大きな川が流れている。川の向こうにはビル群が広がっていて、大手企業や弁護士事務所の入るビルや大学なんかがある。そこへ出ていき、夢破れた者たちがこの街に帰ってくる。すこし南へ行くと大きな橋が構えてあるが、そこを行き来する人間も少ない。ソラ猫は水が嫌いなのか、川には近づかない。
 次の日は街の東側へ向かって歩く。大きな山がどんと横たわっているけど、危険だからと誰も足を踏み入れない。
 朝市が開かれていて、八百屋の主人がフルーツトマトを渡したり、パン屋のおかみが焼きたてのプレッツェルをあげたりするもんだから、何のための散歩かわからなくなってしまう。
「すこしはソラさんの体重も減りましたかねえ」
「あるく、すき、はしっこ、いや」
「そうですねえ、川や山に囲まれていて、この街は孤立していますからねえ。そういえば、ソラさんはどこからどうやってこの街にやってきたのですか」
「くるま、はやい、くるま、とまる、はしる」
「車で移動中に、止まった隙を狙って逃げ出してきたのですか」
 鼻息をふー。尻尾をぶんぶん。「しど、いっしょ、しど、はしらない」
「シドさんは逃げ出さなかったのですね」
「しど、なかよし、しど、すき」
「シドさんに会いたいですか?」
 ソラ猫は複雑そうな顔をしていた。兄弟には会いたいが、家には帰りたくないのだろう。

 その日は珍しくお客も少なかった。さて、今日は何の音楽を流しましょうか。ファーさんは棚を物色していた。その時だった。車のタイヤがゴロゴロと石畳を走る音が聞こえてきた。その途端、ソラ猫は飛び上がって厨房に走っていった。四足歩行で走る姿などこれまで見たことなかったので、居合わせたみなは驚いた。
 車は店の前で止まった。運転席から降りてきたのは初老の女性で、車のドアをバタンと乱暴に閉めると、店の中に入ってきた。
「いらっしゃいませ」ファーさんがいう。
「あのねえ、ここいらにグレーの大きな猫がいるって噂を聞いたんだがねえ、あんたたち知らないかい」
「グレーの大きな猫」ソラ猫のことだ。飼い主だろうか。
「グレーの猫ならこの街にはたくさんいますよ。ケーキ屋のプリンちゃんに花屋のコロくん」ファーさんはしらばっくれた。
「ああ、もう、話しにならないねえ。あたしが訊いてるのは、ひときわ大きなグレーの猫だよ。冷蔵庫は開けるわ、孫にちょっかいを出すわで、いたずらばっかしてるのさ」
「お探しの猫ちゃんが見つかったら、どうされるおつもりですか」
「連れて帰るに決まってるじゃないか。あんたも鈍いね」
「見つかるといいですね」ベンチに座る奥さんがすまし顔でいった。
「ほんとうね」レミちゃんもにんまりと笑った。
「見つかったら知らせておくれ」初老の女性は電話番号を記したメモを置いていった。
 車がゴロゴロと走り去るのを見届けて、みなは息を吐いた。
「ああ、危なかった」奥さんは胸に手を当てた。
「ひどい礼儀知らずの人だったわね。あれじゃあソラちゃん逃げるはずだわ」レミちゃんがいう。
 ファーさんが厨房を覗くと、ソラ猫が隅にうずくまっていた。
「もう大丈夫ですよ。飼い主さんは帰って行かれましたよ」
 ベンチにあらわれたソラ猫を、レミちゃんは抱きしめた。
「大丈夫よ、わたしたちが守ってあげるわ」
「いたい、いや、いたい、こわい」ソラ猫は顔を歪ませた。
 その話を聞きつけた街の人がファーさんの店に駆けつけ、押し合い圧し合いになりながら、みなで知恵を絞った。
「散歩はもう止めた方がいい」
「そうだな、無防備すぎる」
「窓辺に座らせておくと外から見えちゃうじゃないのか」
「洋服を着せて帽子を被らせれば人間に見えるかもしれない」
「変装だな。しかしこの季節、猫にとっちゃあ暑いかもな」
「ファーさんの家でじっとしていてもらうというのは?」
「やだあ、ソラちゃんに会えなくなる」「ソラちゃんひとりで寂しいよ」パン屋の娘たちがいった。
「しばらくの我慢だよ」
「みんなで飼い主が街に入ったら教え合おうぜ」
「それにはパトロールが必要だな」
「よし、順番を決めよう」

 街のみなが交代で東側と西側の出入り口を見張る。ソラ猫はシャツを着てつばの広い帽子を被る。店でも窓際のベンチには座らせず、ファーさんのデスクのところに座らせる。店の前を注視する。街中が厳戒態勢になった。
 当のソラ猫はというと、暑いので服を脱いでしまったり、窓際の日だまりに座っていたり、まるで緊張感がなかった。
「ソラさん、油断大敵ですよ。また飼い主さんがあらわれたらどうするおつもりなんですか」
「にげる、そら、まち、にげる」
「この街から逃げてしまうということですか?」
 ソラ猫は鼻息を吐いて尻尾を振った。
「そんなあ、街のみんな、ソラちゃんを、守るために必死になっているのよ。そんな街を去るっていうの?」
「レミちゃん、ソラさんは虐待が怖くて家出してきたのですよ。この街に住みたいから引っ越してきたのとはわけがちがうのです」
「でも、さみしいわ」
「それは我々のエゴですよ」
「ファーさんはさみしくないの?」
「ソラさんは猫ですから、気ままに生きたいのでしょう。我々は飼い主ではないのです。ソラさんがここを去りたいと思ったら、気持ちよくさようならといいたいじゃありませんか」
 その時、自転車屋の主人が店に飛び込んできた。
「おい、ソラの飼い主かもしれねえばばあが車で西側の橋を渡ってきたぞ!」
「ソラちゃん、隠れて」レミちゃんが叫ぶ。
 ところがソラ猫は、どうしたことかドアに向かって走り出した。カランコロン、ドアを押し開け外に出る。
「ソラさん、気をつけて」ファーさんはソラ猫の背中にいった。
 そこへ、いつかの車がファーさんの店の前で止まり、運転席から初老の女性が降りてきた。
「やっぱりここだったんだね。見つけたよ」
 ソラ猫は四足歩行で走る。「逃げて!」ベビーカーを押す奥さんが声援を飛ばす。
「あっちだ、行くんだ、走るんだ」精肉店の主人が指差す。
 ソラ猫は太ったせいで早くは走れない。自転車屋の自転車をなぎ倒し、果物屋の果物をばらまき、ケーキ屋のガラスに頭を打ちつけ、止まった。
「観念しな」飼い主がソラ猫を捕らまえた。
「離して! あなたが暴力をふるうからソラちゃんは逃げてきたのよ!」レミちゃんが立ちふさがった。
「あんたは何をいってるんだい。あたしは暴力なんてふるってないさ」
「でも、冷蔵庫を開けたらお尻を蹴られたってソラちゃんいってたわ」
「あんた猫語が話せるのかい」
「ぜんぶソラちゃんが教えてくれたのよ」
「何をいってるんだい。あんた頭がおかしいのかい」
 飼い主がソラ猫の胴体をつかむ。ソラ猫は「にゃお!」と鳴いた。
「ソラちゃん、いやだっていってやりなさい」レミちゃんが呼び掛けた。
 しかし、ソラ猫は「にゃおん、にゃあああ」と鳴くだけだった。
 飼い主はソラ猫を車の後部座席に放り込んだ。もう一匹黒いキジ柄の猫が乗っていた。車は発車した。後部座席のシートにしがみついて、ソラ猫はこちらを見て鳴いている。
「ソラちゃん!」
 レミちゃんはその場に泣き崩れた。街のみなが黙って車を見送る。
「つらくなったら、また逃げておいで」ファーさんのつぶやきは、誰にも聞こえなかった。

 少年は毎日訪れては、ソラ猫の座っていたベンチに腰掛け、ぼんやりしていた。「ソラ、もう会えないのかなあ」
 ベビーカーを押しながら、奥さんはマドレーヌを届けてくれた。「なんだかマドレーヌを焼く習慣が抜けなくて」そういって力なく微笑む。
 自転車屋の主人は、三時になるとコーヒーを飲みにくる。「また飼い主に虐待されてなきゃいいけどな」
「そら、あまい、みんな、すき」
 ファーさんの耳には、いつまでもソラ猫の言葉がこびりついていた。

                 完

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