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天気の孫(言葉の企画vol.4)

天気の子が公開され、天気という事象に、
少しだけ気が向いているであろう日本。

長い雨、曇天が続いた関東に、
ようやく今日、暑い気温とともに晴れが訪れた。

そんな天気の日、
「晴の子」という名前を持つ、
数年前にこの世を去った、
晴子おばあちゃんを思い出す。

おばあちゃんとの写真は、
悲しいかな不思議なくらい無い。
ほぼ自分の思い出の中のページにしか現像はされていない。

あまり写真を撮る家庭ではなかったこともあるが、
やはり当時スマートフォンもなければ、デジカメも無い、
写真といえば街の写真館くらいしかない、
そういう環境だったのも大きいなと思う。

間違いなく、晴子おばあちゃんは、
僕の人生においてかなりの影響を与えており、
一番の「素敵な人」である。

二世帯住宅家庭で一人っ子だったこともあり、
特に初孫の僕には優しかった。

一度も怒ったところを見たことがないし、

何か物をこぼしたり汚したりすれば、
「おかげで前より綺麗になるね」と、前向きに事を考える。

僕が仮病を使って塾を休もうとしたときも、
いちばんに僕を擁護してくれた。

夜中にお腹が減ったといえば親に黙って
サッポロ一番をいつも作ってくれた。
それがなによりもご馳走だった。
今でもらーめんが大好きなのは、
きっとその味が忘れられないからだと思う。

映画もよく連れて行ってくれた。
『スチュアートリトル』の映画を錦糸町の楽天地に見に行ったことは
20年以上前だけど覚えている。

時が経ち、二世帯住宅だったところから、
別々に暮らすことになっても、
何度も遊びに行っていた。

何を相談しても、
「俊ちゃんなら大丈夫。」と、
とにかくいつも「大丈夫」と言って、
野球部で万年補欠でうじうじしてるときも、
友人関係がうまくいかないときも、
反抗期特有の親とのケンカをしているときも、
いつも背中を押してくれた。

いくらわけのわからないことを言っても、
否定せず、とにかく肯定する形で
いつも言葉を返してくれていた。

そんなおばあちゃんに育てられたこともあって、
僕も(人よりは)ポジティブモンスターになれているのかもしれない。

ただ、おばあちゃんほど、
どうしたらここまで優しくなれるのか、
人のことを愛せるのか、
僕にはまだわからない。

おばあちゃんとの最後の日。
それは大学受験直前の1月31日だったのを覚えている。

予備校で受験直前の講習を受けているとき、
親からの突然の電話だった。
電話越しから伝わる何かあった感。
僕は当時おばあちゃんが入院していて
危ない状態だったことは知らなかった。

病院に駆けつけると、
もう風前の灯火という言葉のような状態だった。
病院の皆様が一生懸命心臓マッサージで、
僕が到着するまで「心臓が動いている」状態をなんとか保ってくれていた。
到着して手を握った瞬間、息を引き取った。

人生を通じて一番くらいに泣いた。
今思うと恥ずかしいくらいの、
ドラマとか映画レベルのいろんなことを言った記憶がある。

「大学に入って立派になる」
「社会人になってみんなを幸せにする」

そして、
そんな状態までなるまで僕に情報がこなかったのは、
最後のおばあちゃんの周りへのお願いだったらしい。

大学受験を控えている僕に対しての最後の気配り。

本当だったら「最後に会いたい」と言うはずなのに、
「大学受験前に動揺させたくない」という理由で、
親族全てに受験が終わるまで緘口令を出していたとのこと。

どんだけ優しいんだよ、
どうしたらここまで人のことを思えるんだよ、
会いたかった僕の気持ちも考えてくれよ、
と、当時は思った。

でも受験直前にくよくよして、
どこも受からず棒に振ったら、
おばあちゃんに会わせる顔がなさすぎる、
そう思って受験に臨んだ。

正直学力的にも届くわけのなかった早稲田大学に受かることができたのも、おばあちゃんが見守ってくれていたおかげだと思う。

おばあちゃん、また会いたいなあ。
もっとたくさん写真撮っておけばよかったなあ。
いつか僕の運転する車に乗せるって約束したのに乗せられなかったなあ。

今の姿を見たらなんと言うだろうか。

いろいろ悩んでばかりの毎日だけど、
きっと「大丈夫」と言ってくれるのだろうな。

改めて、おばあちゃんに見られても、
恥ずかしくないような人生を、送りたい。

そう思う、7月の晴れの日だった。

丸橋 俊介

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