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【エッセイ】人魚(マーメイド)が私を助けてくれた話|柔術家/歌手/海人の独り言 |文:渡辺直由@石垣島

今月のお題は《人魚》との事で
八重山のジュゴン目撃例の話を書こうかと思いましたが
それについては前回もう書いてしまいましたので…

今回は私の不登校時代にマーメイド=人魚が私を助けてくれた話をしたいと思います。

不登校になったキッカケ

いつの世にも常に話題に上がる不登校。

現在も変わらず社会問題になっていますが
あの頃の私の不登校時代(1988年くらいからスタート)は現在よりももっと深刻な問題だったと思います。

ネットなども無いあの頃は
他の不登校の仲間の存在なども風の噂に聞く程度で、まるで世の中と言う無人島に自分ひとりだけが取り残されたような感覚でした。

テレビに出ているコメンテーターなど識者の多くも
「学校にもいけないような子供は甘ったれた負け犬!そんな根性無しは何をやっても成功しない!」と堂々と発言していた時代で
“負け犬”や“いくじなし”のレッテルを貼られた私のような不登校の人間は
世間から容赦なく軽蔑される対象であり「将来何者にもなれず、人知れず死んでゆくのだ」と、ずっと後ろめたい思いを抱えながら生きていました。

ちなみに
自分が不登校になったキッカケは中学校に入学してすぐ
他校とのケンカのトラブルにより
1人のサディスティックな担任に目をつけられた事に始まります。

私はイタズラ好きだったので
小学生時代にも毎週のように体罰を受けていましたし
当時通っていた空手道場では先生の言うことを聞かなければ1時間ずっと目を閉じて正座だけをさせられ
薄目を開けたり足の痛みで正座を崩せば太鼓のバチでお尻をかなりの強さで叩かれ内出血したりすることもしばしば
泣き出す子も沢山いまして
そんな時代ですから普通の体罰には相当免疫があったのですが
サディスティックな中学の担任の体罰は頻度も陰湿さも質も何もかもが全く違いました。

毎日のように放課後
人がいない場所に呼び出され
髪の毛を掴まれて引きずりまわされたり
往復ビンタを繰り返され
私以外の生徒は鼓膜を破られたり
目に障害を負った生徒もいたと聞きます。

体罰の強度はもちろん問題ですが
それよりも嫌だったのが
その担任の狂気に満ちた目や表情です。

己の暴力に酔いしれ支配され
それを愉しむかのように
私やその他の生徒を陰湿にいたぶり続けたのです。

そんな毎日が嫌になり
私は入学から僅か1〜2ヶ月で学校に行かなくなりました。

最初は下校時に下校ルートで待っていたら遊んでくれた友達も
中学生にとっての共通の話題はあくまで学校生活の事であり
だんだんと話が合わなくなって来た私は
半年くらいで遊び相手もいなくなり
完全に一人ぼっちになりました。

あくまで個人的な感覚ですが
17歳を過ぎた辺りからどんどん過ぎゆく時間の速さが加速して
今もどんどん速くなり続けていますが
当時まだ13歳とかの私の時間感覚は
一学期がまるで現在の1年にも2年にも匹敵する程に長く
中学の3年間は、まるで“永遠”とも感じられるような出口の無い日々でした。


熱帯魚を買ってくれたら学校に行く

そんな時に私の心を癒やしてくれたのが
あるデパートの屋上にあった熱帯魚コーナーでした。

幼少期から生き物やアウトドアキャンプが好きで
小学生の頃から八重山にも来て生き物と触れ合っていましたし
地元東京の限られた自然環境の中でもザリガニやトカゲやカエル
昆虫、魚、ヘビ、鳥など
あらゆるものを捕まえて飼育しました。

そんな私は生物図鑑でしか知らないアマゾンの熱帯魚や爬虫類など
憧れの生き物たちがいるデパート屋上に通いつめるようになりました。

熱帯魚を買ってくれたら学校に行く」という言葉で
母親はかなりの額の熱帯魚を買ってくれました。

当時はわかりませんでしたが
いま振り返れば当時のうちは裕福な方だったのです。

そして幾度かは学校にも行こうとしましたが
友達から聞くと
そのサディスティックな担任が「お前が不登校になったせいで私の評判が落ちたから学校に来たら今まで以上にその曲がった根性を叩き直してやるから覚悟しろ」と鼻息を荒くしているとのことで
命の危険を感じた私は再び学校の門をくぐる事はありませんでした。

そして結果だけを見れば母親に嘘を重ねて熱帯魚を買ってもらっていた事になります。


マーメイドと出会う

ほんの数ヶ月ほどでしょうが
先述した当時の時間感覚で言うと1〜2年が過ぎた頃
デパート屋上の熱帯魚で物足りなさを感じるようになった私は
憧れのアマゾン川に住む“黄金”を意味するドラドと言う魚を探し求めて
熱帯魚専門誌に載っているショップに電話をかけまくりました。

そこで数件目に「ドラドいますよ〜!お待ちしてます!」と
元気の良いおじさんの声が聞こえたのが
《マーメイド》と言う熱帯魚屋さんでした。

初めて訪れたマーメイドは10坪ないくらいの小さな熱帯魚屋さんでしたが
50センチほどのドラドが元気に泳いでいました。

とても意外だったのが
それまで20軒ほど回った熱帯魚屋とは違い
マーメイドのマスターは飼育環境などをしっかりと聞いてきて
「それなら今回は購入しない方がいい」というアドバイスをくれたのです。

他のショップであれば必ず売ってしまうでしょう。

事実、
当時まだ熱帯魚飼育が駆け出しだった頃は知識もなく
買ったものの飼いきれず
翌日には返品(お金はよくて半額返ってくるか、ほぼ全額返ってこない)なんて事が多々ありました。

その《マーメイド》には
そんなマスターの人柄に惹かれて素晴らしいお客様が沢山来ていて
ここで私はマスターやお客さんたちから
“人生”を教わる事になります。

人生で大切な事を色々と教わる

このマーメイドで知り合う方々は
平均して私よりも倍くらいの人生を生きており
あまり口には出さずとも
毎日のようにマーメイドに来る私を
不登校児と気付いて
人生で大切な色々な事を教えてくれました。

特によく遊んでくれた
板金屋の社長さん、一流デザイナーさん、電気工事士さんたちは
仕事が休みの日には一緒に熱帯魚屋を回ってくれたり
夏はタナゴとり
冬はスキーなど
色々な場所に連れてってくれました。

特に板金屋の社長さんはブッ飛んでいて
「酒くらい飲めるようになっとけ!」と言って
東京では珍しい台風直撃の日に
某60階建ての有名な高層ビルの最上階で暴風雨を眺めながらマイタイとチチと言うカクテルを飲ませてくれました。

ペンキだらけの服にサンダル姿で
板金屋の社長さんが中学2年生に高層ビルで酒を飲ます
凄い状況、、、。

周りはオシャレな服装の人ばかりで
「Оさん、大丈夫なんですか?」と聞くと
「こんな店も、店にいる奴も、気取ってるだけで一皮むけば何もかわらんよ人間は」と吐き捨ててガッハッハと豪快に笑い飛ばしていた姿が印象的でした。。。(笑)

時代も時代ですが
信頼関係がなければ
この状況
ただの犯罪です(笑)

とにかく
常に《甘ったれの不登校児》と言う差別や偏見を背中に感じ
同年代の友達との付き合いがなく恋愛も出来ないという
二度と帰ってはこない同級生たちとの青春の日々への後悔を思い
罪悪感や虚無感に苛まれ続けながらも生きてこれたのは
そんな素敵でブッ飛んでいた
熱帯魚店マーメイドに集う大人たちとの交流のおかげでした。

いま振り返れば
あの日々はとても長く
10年にも20年にも感じます。

不登校時に感じた惨めさや辛さを
もう一度体験したいかと言えば
絶対に嫌ですが
中学生の拙く幼稚な考えではありながらも
「このままで良いのか?」
「自分とは?人生とは何なのか?」
と自問自答し続けた日々と
たまにそれに対する答えをくれたマーメイドの大人たち。

その特殊な人生を歩まなければ
今現在の自分の人格や思考
思想/哲学は形成されなかったと思います。

友達や命のありがたさを知ったマーメイド時代に今も深く感謝しています。

高校で社会復帰をしてからは
マーメイドに行く頻度は減りましたが
それでも数ヶ月に一度は顔を出していました。

ある日
私が成人して歌手になり
彼女を助手席に乗せてマーメイドを訪れた時にマスターが
「渡辺くんも立派な大人になって安心したよ〜、中学行かないで毎日うちに来てた時は心配したんだぜ〜、俺にも渡辺くんよりちょっと上の息子がいるからさ〜」としみじみ語りながら
大変喜んでくれました。

別に自分が歌手だとか彼女が美人だとか自慢したかったわけではありませんが{同じ芸能界にいた子だったので確かに美人ではあったw}
心配してくれていたマスターやお客さんたちに社会復帰して楽しく人生を謳歌している姿を見せられた事が本当に嬉しかったです。

マスターは私が確か20代の半ばか終わりくらいの時に体調を崩し
マーメイドは息子さんが引き継ぎました。

ある日マーメイドに行くと二代目の息子さんが
おやじから渡辺くんに電話だよ」と
入院中だと言うマスターからの電話の受話器を私に渡そうとして来たので
「マスター大変だろうから退院してからでいいですよ」と断ろうとしたら
《いいからいいから》みたいな表情で無理やり受話器を渡してくる二代目に押し切られるようにマスターと数分話しました。

細かい内容は忘れましたが
会話の終わりは
「お母さんに心配かけないように元気で頑張れよ」みたいな内容だったと記憶しています。

マスターは末期ガンだったと後に知らされ
それが最後の電話でした。

親父が殆ど家にいない家庭で
一人っ子だった私にとって
マーメイドのマスターやお客さんたちが
親父であり兄貴
でした。

去年か一昨年
数年ぶりに高層ビルでマイタイを飲ませてくれた元板金屋社長さんと連絡を取り
行きつけのスナックに連れて行ってもらい
あの頃のマーメイドの話をしました。

小さな街の小さな熱帯魚屋さんで本当にあった
心優しき人たちの実話です。

私の不登校時代のように
いま人生の暗い谷を歩いている人にも
人魚=マーメイドのような救いがあることを願っています。

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この記事を書いた人


渡辺直由(柔術家/歌手/海人)
1975年8月4日生まれ。東京都出身。19歳でメジャーレーベルから歌手デビュー。2004年に盟友早川光由と共にトライフォース柔術を創設。柔術世界選手権や欧州選手権、プロの舞台でも活躍。2011年に現役を退き憧れの八重山に移住。電灯潜り漁師(現在休業中)を経て2022年6月に美崎町にカラオケ&弾き語りバー《アームバー》をOPEN。現在も代表としてトライフォース石垣島支部で柔術クラスを持ち、後進の育成に努めている。
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