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【自伝小説】最南端の空手フリムン伝説|著:田福雄市@石垣島|第7話 黎明期編(2)

ターミネーター

ここまで順調に駒を進めてきたフリムン。
そんな彼の鼻を、根元からポッキリと折る初めての空手家と相まみえる事となった。

開始早々、フリムンは得意の突きの連打に加え、左ミドルやローをガンガン飛ばしながら早い段階で試合を終わらせようとしていた。

何故なら、彼の肉体が“細胞レベル”で相手の強さを感じ取っていたからだ。

スパーリングの相手も居らず、実戦不足によりスタミナに自信の無かったフリムン。試合が長引けば圧倒的に不利なのは目に見えていた。

それ故に、早期決着を仕掛けたのだった。

しかし、A選手は顔色一つ変えることなく、フリムンの怒涛の攻撃を全身で受けながらもジワジワと前に出てきた。

その姿は、まるでターミネーターのそれであった。

「え?」
「俺の攻撃効いてないの?」
「そんな人いるの?」

フリムンはカルチャーショックを受け、思わず“戦意喪失”しそうになった。

それもそのはず、ここに至るまでの2年間で、彼の攻撃を受け立ち続けられた人間は皆無であったからだ。

それどころか、相手の攻撃が徐々に彼の肉体を蝕み、先に後退し出したのは逆にフリムンの方であった。

   

フルパワーの攻撃を受けても前に出てくるA選手まるでターミネーターと戦っているようであった

後に知った事だが、TVの解説を務めていた七戸師範がこう仰っていた。

「八重山から出場のフリムン選手は、中々キレのある突き蹴りを持ったいい選手です。ただ、下段をシッカリ受けないと後々ダメージがあると思います

その的確な解説通り、最後は足を効かされたフリムンの完敗で幕を閉じた。

   

逆に下段を効かされ、苦悶の表情を浮かべるフリムン

生まれて初めて首から下の攻撃で心を折られ、そして立っているのがやっとなほど下段を効かされたフリムン。

やはりスパーリング無しで大会に挑むのは無謀だと悟った。

ただ、離島から単身出場した新人選手が、黒帯相手に真っ向勝負を挑み判定にまで持ち込んだという事で、フリムンは主催者側の配慮により「敢闘賞」を頂いた。

生まれて初めて“空手家”として世に認められた瞬間であった。

ちなみにこの時の「敢闘賞」は、後に手にした全日本や世界大会の「入賞」と同レベルの価値があると本人は回想する。

そしてその盾と賞状は、今でも極真八重山史の生き証人として、道場の片隅で輝きを放っているのは言うまでもない。

思い出の賞状と盾。極真八重山史の全てはここから始まった

こうしてアッと言う間に終わったフリムンのデビュー戦。

彼に極真の厳しさを教えてくれたA選手は、そのまま準決勝まで突き進んだが、そこでフリムンが勝手にライバル視していたM選手に延長の末敗北。

3位決定戦も落とし、4位に終わった。

更にM選手も、決勝で延長の末に敗れ準優勝止まり。
極真の層の厚さは想像以上であった。

九州王者を下し初代チャンピオンとなったS選手

フリムンは自分の実力がまだまだ遠く及ばない事に衝撃を受けたが、逆にそれが嬉しくもあった。

「漸く辿り着いた夢の舞台。簡単に手に入るようじゃ感動もクソもない。お陰で天狗にならずに済んだのだから、やはり出場して正解だった」

そうフリムンは気持ちを切り替え、また一から出直そうと心に誓った。

頭は低く···

極真の教えの中に、このような言葉がある。
「頭は低く、目は高く、口謹んで心広く、孝を原点として他を益す」

これを“極真精神”と言うが、フリムンは試合後の選手控室で、その言葉の本当の意味を知る事となる。

試合前は敵対視していた他の選手たちが、フリムンを見るなり近付いてきて、「いい試合でした」「強いですね」と握手を求めてきたのだ。

中にはバナナをお裾分けしてくる選手や、打撲用の飲み薬を進めてくる外国の選手もいた。

流石に英語記載されていた飲み薬は怪し過ぎてノーサンキューに留めたが、国産のバナナは美味しく頂いた(笑)

そんな控室でのやり取りに、「本当に強い人間は頭が低い」という事を肌で痛感したフリムン。

彼が今でも謙虚で居られるのも、この時の経験が大きく関与しているのは言うまでもない。

こうして全てが終わり、体育館を後にして足を引きずりながら歩くフリムン。

生まれて初めて体験する“極真ウォーク”に酔いしれながら、彼はある決意を胸に帰路に着いたのであった。

※極真ウォークとは、大会会場のあちこちで見られる光景で、選手たちがダメージにより足を引きずりながら歩く姿を表現した言葉である。

巨星墜つ

大会から数日後、島に帰省したフリムンは、自らの力で手に入れた「敢闘賞」の盾と賞状を手に、先ずは稽古場を提供くださったZ先生の元を訪れた。

もちろん、お礼の挨拶のためだ。

そんなフリムンの姿を見たZ先生は、神妙な面持ちで開口一番こう呟いた。

「フリムン君、大変な事になったね…」
「え?」

最初は何の事かサッパリ分からなかったフリムン。試合でボコボコにされた事かとも思ったが、どうも様子がおかしい。

そんな疑問も次の言葉で腑に落ちた。

なんと極真会館創始者の大山倍達総裁が“逝去”されたと言うのだ。県大会翌々日の訃報にフリムンは愕然とした。

優勝して総裁に握手して頂くというフリムンの夢は、この瞬間にガタガタと音を立てて崩れ落ちた。

それから暫く…フリムンは途方に暮れた。

プロジェクトA

県大会から1ヶ月後、漸く心の整理が付いたフリムンは、予てから決めていたある計画を実行に移す事にした。

そう、1ヶ月前にお世話になった七戸師範の元を訪れ、正式に弟子にして頂く計画だ。

これには、カミさん以外の親族ほぼ全員が“反対”した。

「生まれたばかりの我が子のパンパース代もまともに稼げない奴が、空手なんぞにうつつを抜かし、飛行機代を払って那覇まで稽古に通う。ふざけんな」というのが理由だ。

至極当然の声であった。

多分この話しを聞かされたら、石垣市民の半分以上はそう言うだろう。

ただ、フリムンにだけは未来の映像がハッキリと見えていた。絶対にこの世界で成功するという未来の映像が、まるで映画でも観ているかのようにハッキリと見えていたのだ。

よって何を言われても気持ちを曲げつもりはなかった。

考えても見て欲しい。絶対的な成功を約束されているにも関わらず、みすみす諦める人間がいるだろうか?

途中で諦める人間は、その成功を最後まで信じ切れなかった者だけだ。

こうして皆の反対を押し切り、フリムンは勘当されても良いという気持ちで再び石垣空港を飛び立った。

今思い返しても相当な覚悟であった事が伺えるが、この時の決断が正しかったどうかは、それから数年後に明らかとなる。

ちなみに那覇へ飛び立つ前、先立って「県本部那覇道場」に連絡を入れていたフリムン。電話口で沖縄県支部長の七戸師範にこう告げていた。

「押忍、先日お世話になったフリムンです」
「おおおーーーーフリムン君、覚えているよ」
「実は入門したくてお電話いたしました」
「え?那覇に引っ越してきたの?」
「いえ、石垣島に居ます」
「え?そこからどうやって通うの?」
「押忍、飛行機で通います」

すると、暫く沈黙が続いた。唐突な上に、突拍子もない事を聞かされたのだから当然だ。

簡単に飛行機で通うと言うが、経済的にも時間的にも簡単にできる事ではない。きっと戯言か狂言と勘違いされたのかも知れないとフリムンは思った。

「押忍、実は県の土木事務所で働いていまして、ほぼ毎月出張で那覇に行くのですが、それを利用して通おうかと思っています。押忍」
「あああーそういう事ね」
「押忍、出張の無い月は自腹で来ます」
「それは構わないけど、ただ…」
「押忍」
「以前にも離島で看板を出したいと言って何人か入門して来たけど、皆んな途中で諦めて辞めたよ」
「押忍」
「本当にできるの?」

その言葉に、フリムンは語気を強めてこう切り返した。

「押忍、自分はその方々とは違います」
「絶対にやれます。絶対にやり通して見せます」

その言葉に押されたのか、師範は電話口でこう告げた。

「分かりました。先ずは一度道場へ来てください。そこで話しましょう」と。

震えながら会話したその時のやり取りを、フリムンは今でもハッキリ覚えているという。ここで断られたら一巻の終わりだ。フリムンは必死に熱弁した。

そして迎えた那覇道場への訪問日。

道場の前まで来たフリムンは、飛行機の中での威勢は何処へやら、階段を見た途端に突然ヒヨリだし、何度も何度も上り下りを繰り返した。

「こ、怖ぇぇぇぇぇぇえええええ」と小声で叫びながら。

次回予告

階段に響き渡る?小さな叫び。フリムンは七戸師範に会えるのか!?
乞うご期待!


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この記事を書いた人

田福雄市(空手家)
1966年、石垣市平久保生まれ、平得育ち。
八重山高校卒業後、本格的に空手人生を歩みはじめる。
長年に渡り、空手関連の活動を中心に地域社会に貢献。
パワーリフティングの分野でも沖縄県優勝をはじめ、
競技者として多数の入賞経験を持つ。
青少年健全育成のボランティア活動等を通して石垣市、社会福祉協議会、警察署、薬物乱用防止協会などからの受賞歴多数。
八重山郡優秀指導者賞、極真会館沖縄県支部優秀選手賞も受賞。


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