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【自伝小説】第2話 小学校時代(3) |最南端の空手フリムン伝説|著:田福雄市@石垣島

未来少年

その頃の石垣島にはまだ民放はなく、テレビ放送はNHKのみ。更に少年が5年生になるまでアニメ放送は皆無で、子ども向けに放送されていたのは人形劇のみであった。

その日、石垣島に激震が走った。遂にお茶の間でアニメが見られる日が来たのだ。

子どもたちは飛び上がって歓喜し、「ビートルズがやってきたYAYAYA」どころの騒ぎではなかった。

そんな記念すべきアニメ放送の第一弾は、未だ根強いファンに支えられているあの不朽の名作、「未来少年コナン」であった。言わずと知れた宮崎駿監督の初期作品である。

毎週、放送時間が近付くと、島から子どもたちの姿が消えるという超常現象が起きた。そして放送翌日の校内は、決まってコナンの話しで持ちきりとなった。

当時のコナンの視聴率は「浅間山荘事件」や「3億円事件」の視聴率を軽く跳ね除けていただろう(知らんけど)

こうして取り憑かれたようにコナンフリークとなった少年は、いつしかコナンのような勇気ある男となり、ラナのように優しくて清楚な女性と恋に落ちる妄想に駆られるようになっていった。

それから10数年後の未来に、その夢が実現するとは露程も知らずに。

※10数年後の未来で射止める事となるラナ(現在の妻)と、少年の幼少時代


泣いた赤鬼

早いもので少年も6年生になっていた。最上級生である。引き続き少年野球チームのキャプテンを務める事となった。

ある日こんな事があった。これは後年(オッパイじゃない方の)叔母から聞いた話しである。

野球チームの早朝練習終わりに、正門前の駄菓子屋さんで談笑するのが少年たちのルーティンであった。この日もいつものように、元気クールとパンを口にしながら談笑する少年たちの姿がそこにあった。

そこへ、用務員であった祖父に弁当を届けに来た(オッパイじゃない方の)叔母が通り掛かり、一人だけ何も食べずに談笑する甥っ子の姿を発見。すぐさま声を掛けた。

「なんで何も食べてないの?」
「お金ないの?」
「大丈夫、水いっぱい飲んだからお腹いっぱいさ

そう少年は笑顔で答え、平静を装って見せた。叔母はその事をすぐさま祖父に報告した。

祖父は血相を変え、慌てて財布から小銭を取り出し、「早く持っていけ。あんな情けない思いさせるなっ」と顔を赤らめながら、目に涙を浮かべたという。

物心ついた頃から両親の居なかった少年。だからこそ、誰にも負けないくらい強く逞しく育って欲しいと必要以上に厳しく接してきた祖父。

しかし、その裏には情けない思いだけは絶対にさせてはいけないという強い信念があった。

そんな事があったことさえすっかり忘れていた少年だが、この件を大人になってオッパイじゃない方から告げられ、不器用な祖父の隠れた優しさに触れる事ができた。

少年が家族を大切にするようになったのは、このような祖父母の手放しの愛情があったからに他ならない。

※この話しを聞かせてくれた、じゃない方の(もうエエわっ)


一番棒

H小学校では、最上級生になると伝統行事の「棒術」をするのが慣わしであった。

実はその中に、獅子を操る「獅子棒」という役があるのだが、少年は小学4年生の時にその獅子棒に大抜擢され、2年間その大役を演じきった。

ただ、少年はそれほど嬉しくはなかった。

何故なら、他の棒術に比べ、獅子棒は見た目も殺陣もダサかったからだ。(ご、ごめんなさい)

よって2年間演じきったという表現ではなく、2年間我慢し続けたという方が適切であろう。

※獅子棒は見た目も殺陣もダサかった

そんな少年だっただけに、6年生になるのが死ぬほど待ち遠しかった。遂にあの憧れの棒を打てる日が来たのだ。

それなのに、それなのにである。先生から告げられた言葉に少年は気を失いそうになった。

「君はもうベテランだから、今年も安定の獅子棒で決定ね♡」

「はぁーーー?」
「あっりえん!」
「いやマジあっりえん!」

一瞬気を失いかけそうになった少年だったが、これを素直に受け入れたら死ぬまで後悔する事になる。

咄嗟にそう判断し、肉体に宿る全てのエナジーを駆使して抵抗した。

「2年間もずっと我慢してきたのに」「獅子棒だけは死んでもヤダッ!」

そう絶叫し、泣きじー(泣き顔)になりながら必死に抵抗。余りの抵抗に担当の先生はついぞ根負けした。

「ならば運動神経のいい君たちは一番棒で行きなさい」

そう言って、友人のSと誰もが憧れる「一番棒」を打たせてもらう事となった。

※念願叶って一番棒を打つ事となった著者(手前の刀使い)と友人のS(後方の槍使い

こうして夢の一番棒をゲッチュした少年だったが、その頃の少年には「安定の2番手」という悪夢が付いて回っていた。

学芸会での“はなさかじいさん”では準主役の悪いじいさんだったし、野球をやればキャッチャーで背番号2。校内の遠投大会でも2位に甘んじていたし、体力でもどうしても勝てない奴が一人いた。

よってこの一番棒の選出は、生まれて初めて冠に「一番」が付いた奇跡の瞬間だったのだ。

こうして初の「一番」を手にした少年だったが、この安定の2番手という称号は、その後も生涯ついて回る事となる。特に空手とパワーリフティングを始めてからは。

※それから14年後の著者(右)相手も同じ空手家で、この二人の棒は先輩方から戦後最強の棒と賞賛された。

(中学校編へ続く)
中学校編への続きはこちらから↓

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この記事を書いた人

田福雄市(空手家)

1966年、石垣市平久保生まれ、平得育ち。
八重山高校卒業後、本格的に空手人生を歩みはじめる。
長年に渡り、空手関連の活動を中心に地域社会に貢献。
パワーリフティングの分野でも沖縄県優勝をはじめ、
競技者として多数の入賞経験を持つ。
青少年健全育成のボランティア活動等を通して石垣市、社会福祉協議会、警察署、薬物乱用防止協会などからの受賞歴多数。
八重山郡優秀指導者賞、極真会館沖縄県支部優秀選手賞も受賞。
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