いつだって人生の選択は大正解だ

一番最初に「選択」したのはいつだろうか。

生まれてから今日までをゆっくり思い返すと、最初に自分で選択をしたのは年長のとある日。


それまでは多分、他の乳幼児と同様、
「したい」「欲しい」「寝たい」「遊びたい」
という欲求のまま動いていたはずなのだが、その日は欲求を表現するでなく、選択を迫られた。


保育園で一番仲が良かった友達のヤベくんが空手を習っていると聞き、なんだかウルトラマンやメガレンジャーになれるような気がした5歳か6歳の“おれ”は、さっそくお母さんに「おれも空手やりたい!」と言ってみた。

「うんうん、パパに聞いてみようね」と母が答えたあと、“おれ”は、ヤベくんと一緒にカッコよくチョップとかキックをしているイメージでいっぱいだった。
その頃は、「まだ遊びたい!」という欲求がうまれても、「いいよ」とそのまま満たされるか、「だめだよ」で否認され泣きわめくかの、どちらか。

承認か秘訣かの二択しかなく、その日もいつものごとく「したい」の欲求のまま動いていた。

空手の件も、OKかNOのどちらかであるはずだったのだが、事態は夜のうちに急展開を迎える。

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水泳にしたら?

帰宅した父親は、空手をやりたいとときめく“おれ”を横目に、突然の提案をしてきた。



「空手は背伸びんくなるから、スイミングにしたら?プールの時も泳がれへんのやろ?」




へ?という感じだった。


そうして、次の日か、その次の日にはスイミングスクールの見学に言われるがまま連れていかれたと記憶している。


ヤベくんには、一緒に空手習おうねと約束しちゃった手前、「やだ、空手がいい」とゴネて見たものの、スイミングスクールにあるプールは、保育園のじゃぶじゃぶ池みたいなのと違い、広くて本格的。

同い年よりちょっと上のお兄さん・お姉さんたちがガンガン泳いでるのも目の当たりにして



あれー?こっちもアリじゃね?



と少しばかり思い始めた“おれ”は、「どうすんねん」とキレ気味に焦らせてくる父親の圧力を受け、空手か水泳かを早急に選ばないといけないことになっていた。(どっちもやる/どっちもやらない、という選択は残されていなかったように思う)




ちなみにうちの父親は若く、極真空手をやっていたし、子どもに対し手も出る足も出るとっぽい人だ。

年上にいじめられ泣いて帰ってくるものなら、俺の首根っこを掴んで「ちょっとこっち来い!」と、怒り心頭。

押入れから出してきたミットに向かって、蹴ったり殴ったりをやらされ、気がつけばカウンターとかも食らって、泣かされて帰ってきたとき以上に泣く羽目になったことも何度もあった。(亀田3兄弟と亀田父の懐かしトレーニング映像みたいなやつは、いつも他人事ではない気持ちで見ている)

故に、息子の「空手やりたい」はどちらかといえば父好みの提案だったはずだったが、彼の推しは空手でなく水泳だった。





ケンカは俺が教える、なのか


技を覚えてガキ大将になってはいけない、と思ったのか


泳げないのは男としてダサい、とか、


水泳でも習ってれば死ぬリスクは減る、と思ったのか……

真意は定かではない。


とにかく、空手がいいと言ったらなんだか怒られそうな空気を感じつつ、水泳をやることで泳げるようになるメリットや、ヤベくんとの約束を破るデメリットなど、色々なことを天秤にかけながら、“おれ”はこう答えた。

「おれ、プールやる!」

これが、たぶん人生で最初の「選択」だったと思う。


厳密に言えば「夜ご飯はチャーハンとスパゲティどっちがいい?」みたいな選択はそれまでにもあったと思う。でもそれは自分の欲求のまま選べば良かったし、悩んだりする要素はない。

どっちが正解かサッパリわからないけど、今この瞬間に正解を出さないといけない、そういう選択は間違いなくこの時がはじめてだ。

スイミングを選択したことに後悔はないし、親に言われつつも自分で考えてちゃんと決めたことだった…。。。。。と思っている。

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たれればのパラレルワールド

結果的に“おれ”は“俺”になるまでの過程でスイミングスクールに通い続け、色々なものを手に入れる。


まず、個人メドレーまでは楽勝でできる程度には泳げる。たまにカナヅチの友人と海に行くが、当たり前のことでもアドバンテージだなと感じる。


小学校に上がれば「オリンピックに出てサッカーと水泳どっちもで金メダルとる!」という、アホ丸出しの夢を作文にも書けるようになった。


選手コースになって、中学生まで続けたから、競技の厳しさも少しは理解している。
一般人よりやや豊富なスタミナは、サッカーだけでなくスイミングのおかげて培われた部分まで大きいはずだ。


今となればやってて良かったなあ、というだけで後悔はない。そもそも回想すれば5歳の“おれ”に、親のプレッシャーを感じながらにそれでも空手がいい!とゴネる術はなかった。(プレッシャーに気がつかなければ、駄々をこねたかもしれないが)


結局、空手をやらないと聞いたヤベくんは悲しそうな顔をしたし、未だに格闘技やってましたって人に会うと、潜在意識でビビってしまう。


当時、空手を選んでたら選んでたで違う人生…それこそ2020年の東京オリンピックに出ていることになってたかもしれないわけで、水泳でもサッカーでも鳴かず飛ばずの俺では説得力もないが、可能性はゼロじゃないだろう。

しかし、そんなパラレルワールドの自分に想いを馳せても仕方がなく、俺は「こっちパターンを選んだ俺」で、世界と人生を生き抜き、今日も明日も、いろんな人と出会って協力し、日々戦っていかねばならない。


ちなみにサッカーを始める時も同じような選択を迫られた。

サッカーを始めたきっかけは渋々だ。

仲良しのヒラヤマくんとハマナカくんが、いきなりサッカーを習い始め、いつも彼らと遊んでいたのに、サッカーのせいで週末にあそぶ友達がいない。

それがきっかけで、仕方がないから俺もサッカーやるかと思ったのがことの始まりだった。

ただ、その際に両親は


「野球の方が確実にアップでテレビに映るよ」
「サッカーより野球の方がお金もらえるよ」

とかいう謎理論で野球をオススメしてくることになる。


空手のときと同じ轍を踏むまいと思ったのか、そうでなかったのか、ハッキリとは思い出せないが、このときは「やだ!サッカーがいい!」と、両親を跳ね除ける。

その後サッカー選手として生活もできたし、選択は間違ってなかったと思うし、俺がサッカーのおかげでそこそこおもしろい人生を歩めたことは、このnoteをご贔屓にしてくれる皆さんは知っての通りだろう。

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その後、何度選択をしただろうか

子どもの頃は欲求に近い選択が多かったが、大人になるにつれて、2択や3択ではなく無数に選択肢が増え、選択することで得られる結果をリアリティを持って予測しなければならない場面が増えてくる。

チャーハンかスパゲティどっちがいい?みたいな、どっちを選んでもハッピー確定!という場面は年齢に比例し減ってくるということだ。


例えば、
「高校に行くべきか、海外でサッカーをすべきか」
「タイのリーグに挑戦するのか、ドイツに留学するのか、ブラジルに武者修行するのか」

というまさに人生の分岐点といった選択を何度もすることになるし

「監督の言う事を聞くべきか、自分の意志を貫くか」

とか

「ポジションを無視して攻めに上がるのか、自分の役割を全うするのか」

とか

「シュートか、パスか」

とか

即座にで判断することが求められるようなことを積み重ねる日々。

忘れてはいけないのは、

「その全ての選択の結果、今の俺がいる」

ということ。

歴代のどの選択が違ってても、今日の俺はない。


「コンビニのおにぎりはシャケとツナマヨ、どっちにしようかな」

みたいなレベルの選択なら、さすがに影響がないような気もしつつ、やっぱり食べたもので自分の身体は作られるわけで、ちょうど10年前の今日にラーメンかハンバーグかで迷った末にみそラーメンを食べたおかげで今の俺はあるだろう。

ハンバーグを食べてたら、美人なモデルや女優を取っ替え引っ替えしてたと思うとちょっとさみしいが、それもまた人生だろう。

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全部正解

ちなみに俺は自分の人生に一ミリの後悔もない。
後悔なく、自分の人生に自信を持っている。

大成功したあの日も、しんどくて天井を眺めることしかできなかったあの日も、大事な俺の人生だ。

自分の人生に自信が持ててるなら、すなわち全部の選択が正解だったといっても過言ではない。

そう信じたいとか、そう思わないとやってられないとか、そういうことじゃなくて、マジのマジでそう考えてる。


「もっと良い選択ができたかもしれない」と思わないこともない。

ことさらサッカーにおいては、
「あのシュートをなぜあっちに打ったんだろう」
とか、
「なんであんなファールをしてしまったんだ」
とか、そんなふうに考えることも少なくなかった。


けど結局、日々のトレーニングの積み重ねや実力がピッチに反映されてるだけだと心から思えたころ、ピッチ内の「たられば」も凄く減った。



そう思えるようになった俺に、人として男として成長を感じる部分はある。なんというか、解釈が大人になったし、余裕ができた。


ただ、よくよく考えてみるとそんな「解釈」も本来必要ないのかな?と気づかされる。

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そもそも、1ルートしか存在しないのだから、失敗も成功もない。

「別れたことが間違った選択じゃなかったって思えるように、これからの人生を歩んでいくしかない!幸せになるもん!」

みたいなことは、かつて(かつて)、俺世代の女の子がSNSに書きがちだったフレーズ。

だが、これは一理あるが、一理しかないと思う。


間違いじゃなくて正解だったという風に変えていこうと努力していけることは、いつまでもクヨクヨしてる人たちより、よっぽど生産的で意味のあることだ。

けれど、そもそも、人間において「間違った選択」とはどんな選択なのだろうか?そんな選択、あるのだろうか?



ゲームのようにリセットが効くならともかく、生きとし生けるものすべてがたった一度きりしか歩めない「人生」という道において、成功か失敗かはもはや検証不可能だ。

できることは、過去選択した数々のデータをもとに、これから来る選択をより良いものにしていくことだけ。

それは「間違いじゃなかったって言えるようにしていこう」っていってた俺世代の女の子マインドに近いけど、失敗したことで次に成功ルートを選べるなら失敗したことすらもはや成功。失敗って言葉すら間違ってる。

むしろ、1回失敗()したことがなければ、次はもっと失敗していたかもしれない。

「失敗は成功のもと」とは、エジソンの言葉だけど、エジソンに始まり、古今東西の様々なえらい人もそんなことを都度都度言ってる。

だから、過ぎたことを振り返って一喜一憂することに実はほとんど意味はない。



「過去失敗した選択のことを毎日よく考えて生きていきましょう」

って言ってるえらい人がほとんどいないことに、多くの人が気づいてるようで気づいていない。


というか、成功だなと思ってる選択より、もっともっと優れた選択肢が隠れてたかもしれないわけで、それだって終わってみれば調べようがないのだから、やっぱり選択したことに正解も不正解もない。

あの時の選んだのは正解だった!と悦に浸るのはいいけど、もっともっと正解っぽい道を選べてない可能性を忘れてしまうのは滑稽でないだろうか。


森羅万象、すべてのことは1つになっている。

故に、最早「なんでもいいや〜」って感じなんだけど、大切なのはその時その時を一生懸命に、誠意を持って自分や周りと向き合って、よく考えつつも直感を大事にし、総合的に判断をする努力をし続けることだと思う。


自分や他人に嘘をついて得た「正解」はいつか痛い目になって戻ってくる。

突飛なAプランも、常識的なBプランも、奇想天外Cプランも、人に唆されたDプランも、どれをどう選んだって自由。間違いはないし、正解とかもない、でも全部正解ってことでもいい。

だけど、責任なくテキトーに選んで、素晴らしい結果が返ってくるはずがない。


要は気合い入れて一生懸命頭と身体動かして生きろってことだよな。???


サッカーを始めたこと。

怪我をしたこと。

騙されたこと。

社長になったこと。

借金をしたこと。

経営的な選択、偉い人のアドバイス、戦略、採用、決議、決定。

どれをどう選んだって、選んでしまえばそれしかないんだから、本気でやろうぜってだけだぜ。、

俺何も後悔してないぞ。逃げずに頑張るだけだぞ。成功するのは間違いないぞ。


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