見出し画像

大日本帝國海軍 《戦艦》

 我が国は四方を海に囲まれている上、領土拡大や戦略上の良港を求め 牙を剥く強国ともごく近いロケーションであったため、古代より敵が上陸してきそうな海岸では防塁を築くなど、水際の守りや海上における戦闘力の強化は国家としての重要課題であった。そんな地政学上の立地に成り立つ国だからこそ、日本は世界レベルの海軍力を持つに至ったのだといえる。

 海の上での戦闘といえば、軍艦同士が撃ち合って砲弾を当てられた方の船が沈むということなのだが、海の上での戦闘は必殺の主砲を放つ船だけで成り立つものではなく、実に様々な目的の艦艇が必要となる。しかしここではあくまで最前線で敵に直接攻撃を加える艦船に焦点を当て、大東亜戦争時に実在した軍艦を例えにしながら、艦種毎に至極主観的に語ってみたいと思う。

《戦艦》
 浮かべる砲台。味方の巡洋艦や駆逐艦に囲まれ、敵に致命傷を与えるべく主砲を撃つ。よって艦隊の最前列に出てくる船ではない。脚は遅く、その速度は最大でも時速 50 ㎞ 程度である。主な艦としては下記大和の他、武蔵(テーマ画像)、長門 などが一般には有名だ。

 『大和』は言わずと知れた大東亜戦争以降 我が海軍の象徴であり、終戦の 4ヶ月前に海上特攻として沖縄に向かった悲劇の巨艦である。今、海底深く眠るこの艦の最期は、そのまま帝国海軍の終焉を意味していた。全長 263 m という長さを何かに例えるとすれば、東京ドームの直径がほぼ 200 m ジャストだから、大和は東京ドームの 1.3 倍の長さである。
 現在に至るまで世界にその大きさを凌駕する戦艦は出ていないことにも驚くが、80 年以上前の日本、いや世界においても正に常識はずれであり 海面に現れた山脈の如しであったはずだ。

 日本海軍は伝統的に大きな砲を持つ戦艦にこだわったし、確かに昭和初期には世界でその競争が繰り広げられてもいた。そしてその結果大和は桁はずれなサイズの主砲を積むことになったのだ。長さが 20 m 以上(!!)もある砲身から発射された直径 46 cm (!!)もある砲弾は、高度 1万m 以上(!!)の高度まで上昇し、放物線を描き着弾する地点は、実に発射点から 40 ㎞ 先(!!)である。大阪駅から京都市内に届く距離といってもピンとこない方もいると思うが、とにかくとんでもない。関東で例えるなら 東京駅から鎌倉駅や千葉駅までの距離が大体 40㎞ だ。この 40 ㎞ という着弾点までの距離は、地球の丸みより向う側にあるため、撃ったはいいが当たったかどうかは発射点からは視認できない。よってその戦果を確認するためには、他艦や航空機による助けが必要となるのである。そんなことを知ると 大和は今の私たちが考えるレベルをはるかに超えるスケールだったことがわかる。

東京ドームと戦艦大和
サイズ感としてはこんなもんかなぁ・・・

 ところで『ド阿呆』や『ド根性』などという接頭辞の『ド』は、その後ろの語を強める言葉として使われているが、元々は20世紀初頭にイギリスで建造された当時の画期的巨大戦艦である『ドレッドノート』に由来する。ドレッドノートと同等のクラスの戦艦を『ド級戦艦』、それ以上の戦力、能力を有する戦艦を『超ド級戦艦』と呼んだのである。当然超ド級の戦艦である大和の全長は、基準となるドレッドノートよりもはるか 100 m 以上も大きかったのだ!

 しかし・・・。その威力がいくら凄まじかろうが、砲弾が遠くまで届こうが、当たらなきゃ如何ともしがたいのは道理だ。陸上に向けて砲撃して無差別に市民を殺戮するという鬼畜な作戦を実行するなら話は別だが、大阪から京都までの距離がある海上の一艦に照準を定めて砲撃したところで、当然命中させるのは至難の業だ。こっちも向こうも波で揺れる中にある訳だし。もっともレーダーによって敵艦の位置を特定して撃つってこともあったのだけれど、当時の技術力では遠距離の標的にはやはりなかなか当たらない。そうなると多数の飛行機に爆弾や魚雷を抱かせて一度に攻撃した方が、確実に敵にダメージを与えられるのは道理だ。

 しかし海上における『戦艦による砲撃 ⇒ 航空機による爆弾や魚雷』という戦闘パターンの変遷も、ミサイルの登場によって飛行機でさえ旧式兵器になってしまう。そう、いくら人智を尽くして 画期的な武器や戦法を繰り出しても、時代がそれを追い越してゆくのだ。最新であったものも 一つの新機種によっていっぺんに旧型になる無情は今も昔も変わらない。大艦巨砲主義と呼ばれた、無敵と思われた作戦が幻だったことは、私の中で大和の最期に一層の悲壮感を加えてしまうのだ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?