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美容文化論 ー太夫と花魁ー

 太夫と花魁を一緒くたにしている人が少なくないが、確かに混ざってしまっている部分もあってややこしいのだが、ざっくり説明すると 太夫は諸芸を極め、古くは公家のもてなしまで可能であった接客のプロフェッショナルであり、一方の花魁は一夜でベラボーな料金をとって 自分が気に入った客のみ相手をする 最高級の遊女であると言えばイメージが掴みやすいだろうか。

 そして太夫は京嶋原や大坂新町などの花街に、花魁は江戸吉原にそれぞれ存在感たっぷりに君臨していた。なぜ東西の違いが出たのかといえば、『太夫』の名は江戸中期 宝暦年間に吉原からは消えたからである。よってその時期以降は『太夫』の称号は基本的に関西にしか存在しない。
 昭和31年に売春防止法が成立し、娼妓というものが法的に認められなくなった。もちろんその頃、昭和の世には既に花魁など存在しない。しかし驚くべきことに、京島原には令和の今も わずかだが太夫の称号を認められた芸妓が存在している。

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《小梅太夫にモノ申す》
 さてお笑い芸人の小梅太夫さんは名前につけるくらいなんだから『太夫』のはずである。ネタとしての『チックショー!!』は、100歩譲ってまぁ許すが、彼(彼女?)は諸芸に秀で、様々な知識と経験を駆使して客人に対しては第一級のおもてなしの達人である『太夫』ではないように見える。
 そしてあの髪型はいけない。多分ちゃんと植毛されたカツラではなく、帽子みたいにスポッとかぶれる簡易タイプだろうと思うが、飾り物の『かのこ』や『ちんころ』の赤が目立つあのヅラは、形からいって『島田髷』の一種である『結綿(ゆいわた)』かなぁと思う。まぁいずれにしても素人で若い(十代)女性が結う髪型、要するに素人娘のものだ。

 何度も言うが小梅さんは『太夫』である。時代によって大きく変わる部分もあるものの、着る物、身につける物、化粧、そして髪型と、彼が扮する姿は『太夫』としては全く話にならない。せめて着物とヅラは『太夫』のものにしてもらえると少しは納得度が上がるんだけどなぁ。

京 島原の太夫(大正期)
太夫道中(明治中頃の絵葉書)

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 まだ前髪も上がっておらず、切りっぱなしの10歳そこそこの少女が、太夫の見習いとして置屋(太夫の所属事務所)に預けられる。これらの少女は『禿(かむろ)』と呼ばれ、太夫の身の回り一切の世話をする。『禿』は『ハゲ』と同じ字だが間違えてはいけない(笑)

 お呼びのかかった座敷(揚屋)で待つ客のもとに、ホームグラウンドである置屋から練り歩いて赴く太夫道中においては、禿は真っ赤な着物を着て主役を先導する役目を担う。また禿にかかる一切の経費は太夫が持ったという。

 下唇のみ紅を引き(おちょぼ口に見せるためらしい)、鉄漿(おはぐろ)を施した太夫としての地位を奪取できたのは、禿1,000人中5~6人だけともいわれる。お歯黒を施すのは、宮中では白い歯をみせるのははしたないとされ、御所にあがる男女の証だった時代の名残である。

 京都の街の中心部には時間が何百年も前から止まったエリアが点在している。この先私が死ぬまでの間にお茶屋遊びなどに興じる時間を持つことはないだろうが、太夫の着物やかんざしなどの身につける物を、一度でいいから間近で見たり触れたりしてみたいものだとは思う。いや、万一実際お座敷に太夫と私が同席している状況になったら、きっと質問攻めにするんだろうな。・・・いやぁ京都らしくない。実に無粋だ(笑)

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