命の尊さとは

赤本の問題を解くことがあったので、それについての記事です。東京医科歯科大学 2007年度 前期 医学部(保健衛生学科看護学専攻)の小論文

出題は宇都宮直子『「死」を子どもに教える』と渡辺文夫『異文化のなかの日本人』より

内容はどちらも似ている。宇都宮氏の方は、現在の子どもたちが凶悪犯罪を起こすのは彼らが命を軽視しているからであり、それは社会が子どもたちに「死」を教えてこなかったからだ。これについて、あなたはどう思うか?というもの

渡辺氏の方は、国は違っても自分と同じ人間だと思った人が、思わぬところで自分と違う考え方をもっていると気づき、この人のことを理解できないと悲観的になることがある。マンボウとふぐの写真を掲載し、これらは違う魚ではあるが基本的な体の構造は同様であると説明する。ここから、表に現れた形は違えども、深い部分では共通している。(構造主義の話で、一見異質と思われる地球上の近代的および未開の社会には、人類の長い歴史の流れとは関係なく、共通な世界が広がっていることを明らかにし、思想界に衝撃を与えた、らしい)

自分と違うと思っても深い部分では同じ人間というので、対立や争いがあったとしても相手を完全に理解できない他人だと思わず、対話をする姿勢を持っていこうということ。医療職の方への試験なので、看護師、医者として働くに辺り周りの関係者や患者とのコミュニケーションが一筋縄でいかなくとも諦めないように、つまずいたりしても理解するように努めようという内容であった。

いかにも大学入試の小論文らしいなと思ったのだが、一つ目の課題文、及び二つ目の内容を読んでいて、つい最近明るみに出た茨城一家殺傷事件のことが頭をよぎった。

茨城一家殺傷事件とは?

一言でまとめてしまうと、猫や人を殺害してみたいと思いそれを実行に移したサイコキラー なんと被害者家族との接点はなかったというもの

これを見た後に、宇都宮氏の「今の子どもたち(とはいえ容疑者は26歳だが)が凶悪犯罪を犯すのは社会が命の大切さを教えてこなかったからだ」というのに違和感を覚えた。そもそもの話であるが、ここまでの凶悪犯罪を犯す人たちは少数派である。そういう願望をひっそりともっている人がいたとしても、彼らはだいたい実行には移さない。心のストッパーがあるからだ。

では、そういう大多数の人たちは「社会」から「命の大切さ」を教えられてきたのか?といえば、氏の論でいえばそうはならないのだろう。だいたいの人は一律に公教育を受けて、程度の差はあれ18歳くらいまでは家庭で育ってるように思う。彼らは「社会」から「命の尊さ」を教えられたわけではないけれども、こういうことを行わない。言ってしまえば、行う側は完全なマイノリティであり、バグである。彼らにも、もちろん自分たちと似たような共通点はあるのだろうけれども、自分の快楽のために人に殺めるという一線を越えた部分が存在する。そう思うと、「命の大切さ」を社会が教えてこなかったから凶悪犯罪を行うやつが出てくるというのもなんだか投げやりな感じがする。

また、それに対する赤本の回答も(こんなことにケチをつけても仕方ないのは重々承知だけれども)どこか本気で考えていないように思われた。引用してみる

『たとえば、食卓に並ぶ焼き魚ひとつをとっても教えられることである。私たちは他の生命を食べることで、自らの命を永らえることができる。ゆえに感謝していただくべきであるという、昔からの自然の循環の教えを家庭教育に取り入れるべきである。地域が協力し、家庭教育のあり方についてのセミナーなどを頻繁に開催し、まず親が家庭教育のあり方を学ぶべきだ。また、学校教育においては、低学年のうちから植物や動物を育て、それらの死をもって死の意味を知るという教育も大切であろう・・・(以下略)』

そもそも、そうしたマイノリティの対する対策としてはあまり意味がないように感じた。彼らはバグであり、バグは社会から排除しなければならず(そうしないとまた同じような被害が起こる)それは報道や私刑でなされてもいいように思われる。

というのも、医療少年院の精神科医も治療困難なケースがあると実際に言っているからだ。長いが、そのまま引用してみる

https://jcc.jp/news/17174272/

『<まるっと!>家族4人殺傷の容疑者の男(26歳)・精神科医“治療困難だった”
茨城県境町でおととし9月、家族4人が殺傷された事件。
容疑者の男は10年前、少女2人を切りつける事件を起こして医療少年院に送致され、治療を受けていたにもかかわらず殺人事件の容疑者として逮捕された。
埼玉県内の少年事件の精神鑑定を数多く担当している井原裕精神科医は「一般論として、医療少年院は精神病院だと思ってください。一般的には医療少年院というのは意味があります。ですけど非常に特殊なケースです。ある独特の性癖を持っているような少年に対しては、そもそも今の精神医学の中にそういった人たちを治療して、そういう性的傾向を修正するような治療技術自体がありません。(容疑者の男が医療少年院に入るも、殺人事件の容疑者になっているが?)少年少女たちというのは、まだまだ成長しうる余地を残している人たちなので、やっぱり人生の敗者復活戦を用意しなくてはいけない。そのような愛情を持って育てようという考え方の法律の中で、今回のような希有な事件が起きた時には、愛情で何とかなるケースじゃない場合はどうしようもないんですよね」と話していて、「治療が困難なケースだった」と分析している。
また、井原裕精神科医は「事件でご家族が犠牲になったことの重みを考えれば、どうすればこうした悲劇を防げるのか一人一人が考え、国がルール作りを進めてほしい」と話している。』

繰り返しになるが、こういう存在に対して教育は無意味であると思うし、実際に治療されてまともな人間になるというのも不可能である。そして、彼らは極刑にならない限り、いつかは世に出てくるわけであり、今回のように名前を変えて出てくることも考えられる。社会に害を及ぼすリスクを考えれ、更生が難しいとなるのであれば死刑を存置している国として、極刑を下してほしいと感じた。そういう自分は命の尊さとやらをしっかり理解しているのだろうか。そんな疑問も生まれた。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?