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【LIPHLICH】音楽好きを自認する人にこそ知られてほしい稀代のストーリーテラー

今こそ、LIPHLICHの話をしよう

LIPHLICH(リフリッチ)は、ここ十年にわたり、私が見続けているバンドである。
騙されたと思って私の話を聞いてほしい。

「信じる価値のある幻を描ける、今、日本随一のバンドがLIPHLICHだ」
と、私は伝えたいのだ。
信じなくてもいい。
知らないバンドにわざわざ興味を持つ暇な人はあまりいないのは分かっている。

ただ、以下のことに身に覚えがある人は特に、LIPHLICHを知っておいても損はないと思う。

かつてイエローモンキーの描く楽曲群、特に前期の『真珠色の革命時代』など物語性の強く、グラマラスな世界観のある楽曲群に胸を打たれたことのある人。
・同じくデヴィッド・ボウイの演じる『ジギー・スターダスト』を愛した人。

他にいくつか例は浮かんだが、映画を愛するように楽曲を情景として愛した記憶がある人に、届いてほしいと思っている。

そして、LIPHLICHのことを目にする機会があり、一見して
「よくわからなかった」
と思ってしまう人へ、この記事が理解の一助になることを切に願う。

彼らは『ヴィジュアル系』であることを自認し、『ヴィジュアル系』と呼ばれる界隈で、活動を続けている。
それが、どれだけ実力と才能に恵まれた彼らにとって不利であるか、多分今まで多くの人が思ったことはあるだろうけれど、多分言葉にしたことはあまりないだろうと思う。

音楽好きを自認する層が、音楽としての興味を持たず、足を踏み込んでこない界隈。
それが現在の『ヴィジュアル系』と呼ばれる最大の弊害である。

数百人キャパのライブハウス、特にヴィジュアル系専門のライブハウスで主に、ヴィジュアル系のバンドとばかり対バンをして、バンギャ以外の音楽好きに届かないという高い壁がある。
そこを突破しないまま十年が経った不遇の天才の話をしようと思う。

LIPHLICHはなぜ『ヴィジュアル系』の界隈で活動しているのか?

言葉を選ばずに言おう。
『ヴィジュアル系』と呼ばれるだけで、一般的に言う『音楽好きの人』に「好みではないから」「聴く理由がないから」と「not for me」であると判断され、興味を持たれないことが多いのは想像に難くない。
なのになぜ、その界隈での活動を選び、続けているのか?

それは恐らく、
(これはただの客の憶測の域を出ない意見であると付しておく)
一曲ごとの中で、彼らが音楽を用いて描こうとしているものは「映画にも似た物語というイリュージョン(情景)」だからだと思う。

特に初期の曲に顕著だが、一曲の中に物語があり、その登場人物を演じるように彼らは演奏を行っていた。
これらは、「映画好き」を自認するボーカル・久我新悟の手によるもので、彼は舞台の中央でそれらの人物になりきるように歌うというより演じているように見えるパフォーマンスを行っていた。

『夢見る星屑』バーレスクで生きる美女の栄華と堕落
『慰めにBET』看板女優の傍らに立つ新人女優の出番前の緊張
『ミズルミナス』恋する人の目に留まるために自身を見せ物にした女の人生と不安
『猫目の伯爵ウェンディに恋をする』少女ウェンディに愚かな人間世界を案内し、少女が去って狼狽する伯爵を描く

時間経過によって、楽曲の主題は一人称の情景から三人称の物語を主体としたアプローチへと移り変わる。

『DOUBLE FEATURE』見世物小屋で生きるシャム双生児それぞれの独白と、それを取り巻く有象無象の観客についての三部作をまとめた作品

『陽気なノワール』1950sのフィルムノワールをモチーフにしながら、昭和に流行した探偵映画・ドラマを踏襲した作品

『アルトラブラック』時計仕掛けのオレンジのオマージュ。映画の中に出てくる単語『ドルーグ』『マルチック』が歌詞で引用される。

私が彼らの音楽を知った時、そのライブや楽曲を見て、デヴィッド・ボウイが演じた『ジギー・スターダスト』や、イエローモンキーが楽曲の中で描いた物語『ジャガー・ハードペイン』を連想した。

十年が経つ現在も、当時「天才だ」と思って久我新悟の才能を信じた自分の判断は正しかったと思う。

だが、十年の時間が流れる間に、状況はだいぶ変わった。
バンドのメンバーが変わったことも大きいが、何を主題とするか、何を描くかという点で、天才としての強気さが影を潜め、客に弱みを見せないためのやせ我慢をしていた青年が、自分の弱さを認め、スランプであることを認め、状況が大変であったことを認め、信じてくれる人たちを前に格好つけることよりも真摯に感謝を伝えるようになった。

十年の間に、客層もだいぶ変わった。いなくなった人も多いが、新しく見かけるようになった人も多い。
コロナを挟み、スランプを自認して、曲が作れないつらさを吐露した後に、満を持して発表されたのが今回の二枚組アルバム『EPILOGUE 0』である。

そのリードトラックとして発表された『墜落艶歌』の動画を見て、私は驚いた。

『墜落艶歌』の主題は、前述の経緯を経た久我新悟自身の心情であるだろう。

枯渇 不全感 墜落は差し迫る体感
強くあれと願う僕に 息吹き込むのさ

不確かな世界で この夜の寒さに酔ってる
壊れている とっくの昔に

化物を飼い慣らせ
悲しみはクローゼット入れ
時計仕掛けのこの現実をいかに破壊するのか

壊れたのは 僕だけじゃない

未来はきっと……

かつては、こんな風に自分のことを主題にはしなかった。
どこかから持ち出してきた物語を、手品のような優雅な仕草で披露して見せる手品師のようなストーリーテラーだった。

自身のことを作品にする時は、誤魔化しが効かないものだ。
中途半端に描いて自分に嘘を吐くと、それが形に残ってしまう。
それに、真摯であるかどうかは、彼らを長く見ていた観客からは真偽が見えてしまうものだ。
作品である楽曲を、どれほど真摯に大切にしているかを、客は信じて確かめようとしている。

ここに描かれているのは、創作に向き合う真摯な祈りと、絶望に対峙する願いだ。
主題を難解に見せて煙に巻く、かつての手品師が、こんなに真摯に情けなさを含む自身の心情を吐露して見せるとは思っていなかった。

私がこの記事を書こうと思ったのは、数日前に見た『EPILOGUE 0』リリースに伴うツアーファイナル公演が素晴らしかったからだ。

私は彼らの勤勉なファンではないので、今回のライブツアーも半信半疑で数回足を運び、発表される新曲群の情報量の多さに整理ができないまま、正直な話、彼らを見続けるかどうか、信じ続けるかどうかを、考えあぐねていた。

『墜落艶歌』のビデオに歌詞を載せてくれたことに心から感謝する。
そうでなければ、私の耳はこの歌の内容を聞き取ることができず、理解することもできず、現状の彼らを信じるに至らなかったはずだ。

『墜落艶歌』で描かれたのは、いわば、純文学であるし、私小説だ。
これだけの誠実さで、現実を歌として背負うことのできる人が、どれほど居るだろうと思う。

先日のライブの後半のことを、忘れないうちに書いておく

18曲目、『レイトショーマン~遅すぎた人~』

音源の印象とは異なりヘドバンを煽る激しい曲であったことに驚く。
客席の没入が深まることの証左のように床が揺れる。
叩きつけられるように浴びせられる音に飲み込まれて溺れるように手を伸ばす。

「まだいけるよね」の言葉に続いて始まったのは
かつて彼らの代表曲であった『MANIC PIXIE』だった。

怒涛のような勢いで客席を飲み込む、かつてはライブのたびに演奏されていた曲だ。
LIPHLICH=MANIC PIXIEと認識している人も多いだろう曲を、彼ら自身は杖のように頼りにもしていただろうし、過去曲を越えられない状況を彼ら自身が疎んでいただろうことも見て取れる。

かつての彼らを象徴するこの曲に頼らず、セットリストに含めないという姿勢が、今回のツアーでは見て取れて、私は内心驚いていた。
彼らの自立心は、今作の自信、ひいては過去ではなく現在の彼ら自身への自信を示すものなのだと感じる。
そこに意固地になるのではなく、「過去の彼ら自身」も「自らの一部」であることを認め、現在の四人で先へ進む現在のLIPHLICHの糧にするということなのか。

かつてのMANIC PIXIEに頼り切っていた昔の彼らと、現在のLIPHLICHの間には大きな隔たりと距離があることも感じる。
「前バンドの曲みたいだな」とすら思う。
よくよく耳を傾けると、ライブで用いられている同期音も耳慣れたものではなく、録音し直したものだろうことが分かる。ピアノ音が立っていて、以前のような勢い一直線のものではなく、少し距離を取った冷静さが見て取れた気がした。
それでも気が付くと、うっかり飲み込まれて、息をするのを忘れてしまう。

「最高ですか? こちらは最高です」
いつもより広いホールの会場の中に、ミラーボールが白い光を散らす。

「ひとりひとり、ここに来てくれたみなさんに感謝します
 楽しいことも、どうしようもないことも、繰り返してやってるんです
 でも、あと一歩で負けないから、続いているんです
 これからもよろしく、来年も、再来年も」

久我さんの言葉に続くように始まった20曲目は『楽園』。
『EPILOGUE 0』の最後に位置する象徴的な歌だ。

ミラーボールが回る。
客席を見渡しながら、すみずみまでひとりひとりに祝福を届けるように歌う久我さん。

楽園には光があって
楽園にはあなたがいて

その景色を無心に信じ、そのことを届けようと、手を伸ばす客席。
こんな景色は、感動してしまう。
言葉が出てこないまま、息を飲んでその情景を見る。
「何を見て、信じて生きるかということが、結局人生を形づくる」のだということを考える。

たとえ自滅したとしても もう戻れないのさ

このフレーズは、人生の話をしているとしか思えなかった。
『楽園』というものは、生きている中で時折訪れる「特別なひとときの時間」なのだと強く感じる。
そんなことを、近年の久我さんは繰り返し歌っているじゃないかとハッとする。

目の前にいる観客への、惜しみない感謝。
化粧がはがれて、衣装が汗だくになっても、そのままの姿を無邪気に見せられるようになった強さ。
観客を信じる深い信頼と愛情。
この景色が、彼らの定義する楽園なんだと、言語外の音楽の力で強く感じる。

歌い終わった後、マイクを離し、マイクを通さない肉声で観客へ向かい「どうもありがとうございました」と叫び、頭を下げた久我さんの姿が印象に残った。

本編が終わり、メンバーが去って、会場内はミラーボールが回り続けるままにアンコール待ちの時間になった。

去り際、礼儀正しく深いお辞儀をした新井さん。
大きく笑顔で手を振った竹田さん。
演奏中の印象と真逆だなと思う。
新井さんは表情豊かでよく動く。ギターの音は鮮やかながら、久我さんの声を遮らない。
竹田さんはあまり動かない。真剣な面持ちで地面を揺らすようなベースを弾く。
ステージの上手にも下手にも礼儀正しくお辞儀をしていく小林さん。これは彼のドラムの丁寧さに通じると感じた。

暫しの時間を挟み、メンバーが再び現れる。
「いろんなことがありましたが、責任もあるし、逃げ道はないです。
 後悔はしていません。
 リスタートで、来年からがつがつやっていくので
 大きくなっていくLIPHLICHの目撃者になってください。
 よろしくお願いします」

久我さんの挨拶に続き、アンコール1曲目は『オディセイ』
青緑紫のライトに照らされる下で細やかに弾かれるギターのアルペジオが美しい。

「愛している」と話せるようになってしまったから
追いかけるよ たゆたうことは疲れてきたから

叙事詩のように淡々と描写される情景。

「影を追う?」と問いかけたのは未来よりも先
なぜ見ていると あふれ出すあいは宇宙より先

意味が分かるようでわからない言葉たちが、透明で澄んだ音楽に沿って体に注がれて満ちる。
その景色を見ていた時、私はノートに「今日一かも」とメモを残していた。

続いたのは『ケレン気関車』

突き刺し 止まる心臓 土壇場
蘇生するこの命の使い方は ケレン気へと

正直な話、この曲が発表された当時、私はこの曲の意味が全く分からなかった。
なぜ、今、こんな曲を、こんな歌を発表する必然性があるのか?
いくら考えてもわからず、考えることを放棄していた私に、友人が言った。

「一回死んだんだよ、言葉の通り。かつての久我さんは」
「生き返ってみたものの、どうやって命を使おうか?って途方に暮れてる歌だよ」
「かつての天才手品師だった久我さんはもういないんだよ」
「自信を失ったなんでもない一人間の久我さんが、そこにいることを白状した歌だよ」

それを聞いて、目から鱗が落ちた。
そんな大事なことを、こんなところで、こんな形で、吐露されているとは思わなかった。
天才である久我さんを信じて、自らの生活を削ってまでライブに通うファンに向けて、誠実に弱みを見せるにもほどがある。
作品として、こんな形で見せられても、私は考えてもその可能性に考え至らなかったくらいだ。

そんなことを思い出す。
この歌を知った時。この歌の意味を理解した時。
この曲を聴いて、泣きそうになるとは予想もしていなかった。

破れかけている負けん気を吐いてただ忙しいんだ
正しい生き方なんて分からない
遠くても近いみんなとさすらう 希望の消費者さ

一瞬会場内のライトが止まり、全部がフラットな光に照らされる。
ステージがステージである魔法が解けて、ただの景色の中に居ることを見て思いだす。

正しい生き方なんて蹴っ飛ばして
ケレン気と時代と変わる夢 夜空への飛び方

映画のエンドロールみたいだなと思う。
出来事全てを包括して、着地に導くシーン。
「WE GOT THE SUN」と叫ぶ時の確信。迷いのなさ。
「希望の消費者」はここにいる彼らを信じる人全員を指す言葉だと感じる。

良かったね、一回死んで。と思う。
友人の解釈が正しいのかどうか、作者に確かめたわけではないのでわからないけれど、私は彼女の解釈で、この歌を飲みこもうと思う。
この歌は、逃げ場を断った彼らの前を向く決意なんだと思う。
この場所で、それを示すために、この曲はセットリストに含められたのだと思う。

「今日、この日から、連れ去られてください」
の言葉に続けて演奏されたのは『FLEURET』

NO ONE KNOWS 僕だけの小さな世界へと
NO ONE DOES 君だけを連れ込んでみせる

彼らが珍しく飾り気のないわかりやすくストレートな言葉で、観客へ手を伸ばした曲だ。
活動が一区切りする前の最後のアルバムで、先述の意味で、久我さんが死ぬ前の直前期の代表曲だと言っていいと思う。
「夜を行く」が「僕と行こう」と歌詞が変わっていることに気付く。

囚われてなんかいないよ TAKE THIS HAND

「信じて良い」と手を伸ばすことは、真摯さと甲斐性だ。
信じていいのだ、と思わせられる。
バンドの演奏を、音楽の力を背景にして、これほどシンプルで強いメッセージをてらいなく差し出せること。

ポーズではなく、誠実さ。
これを、今日一番伝えたかったから、最後の曲に位置させたのだなと感じた。

今度こそ終わりだと思った後に、再度のアンコール。
やる予定ではなかったと言いながら演奏されたのは『夜間避行』
彼らを、信じて見守るファンのことを夜空の星に喩えた曲だ。
ステージすれすれまで三人とも前に出て、じゃれあうようにくるくる回るギターとベース。
上着を脱いで、靴も脱いで、裸足で歌う久我さん。

「大切になった曲はいっぱい増えたけど
 今のLIPHLICHが一番格好いいし、それを表すのはこの曲なので、
 もう一度聴いてください」
と演奏された『墜落艶歌』

『楽園』『オディセイ』『ケレン気関車』『FLEURET』『夜間避行』ときて再度聴く『墜落艶歌』は、意味の重さが積み重なっている分もあり、鳥肌が立った。
言葉の一つ一つが意味を持って刺さってくるのが分かる。

から回る世界でいつものように手を上げたら
かすかにあるさ ホントのよろこびが

「強くあれ」と言った君の声を もう一回聞きたいから

「君の声を」と歌いながら、久我さんは客席の一人一人を見渡して指さしてゆく。

から回る世界でそれでも負けず手を上げたら
ここにはあるさ ホントのユートピア

祈りであり、決意であり、宣言であり、感謝であり、誠実な吐露であるこの曲に象徴される、誤魔化しのないLIPHLICHの姿。

それを、多くの人に届くことを願った。
音楽好きを自認する人たちにこそ、届いてほしい。
現在の彼らが在るのは、彼らを見出し、信じて支えた女の子たちの功労であるだろう。
だが、ヴィジュアル系としてくくられる限り、その外側の大半の届くべき人のところへは届かない。

彼らの実力に裏打ちされたイリュージョニストとしての甲斐性を知らしめたい。
そう思ったのが、この記事を書こうと思った直接の動機である。

『ヴィジュアル系』の外側へ

LIPHLICHは、ヴィジュアル系とは関係のないイベントライブに出演が決まったとTwitterで告知を見かけた。

その場で彼らの音楽を目にする大半の観客は、初見で彼らの楽曲を把握することは正直困難だと思う。

単純に音楽としても情報量が多すぎるし、前情報なしで『墜落艶歌』の歌の意味を理解するのも不可能に近い。
そして、ヴィジュアル系のライブでよく見かける統率の取れた振付の客席を見て、呆気にとられる人も多いし、そちらが印象に残ってしまう可能性もあると思う。

でもこれは、貴重な機会で、大きな意味を持つ。
彼らがヴィジュアル系という地盤に頼らなくても、音楽性と持ち前のイリュージョニストとしての実力を、初見の音楽好きに見抜かれるチャンスは少しでも多くあるべきだ。

願うべくは、彼らを応援するためには、『バンギャ』にならなければいけなかった状況を払拭できるようにしてほしい。
そうすると、『ヴィジュアル系』外に居る一般の人へのハードルが大きく下がる。

久我さんへ。
信じています。がんばってください。

■追記
上記のライブで、LIPHLICHは圧倒的な演奏をして、新記録だという46万票を獲得し、ぶっちぎりの1位(2位は9万票)となった。本当に格好良かった。
彼ら自身の演奏が圧倒的という点はもちろん、お客さんも誠実でスマートで格好良かった。参加していた他のバンドも、上手で見やすく誠実に音楽に向き合っているバンドたちで、催しとしてとても楽しかったです。皆様お疲れ様でした。
ファンだけが盲目に投票した結果に見えるかもしれないけれど、私の近くに立っていた大学生らしき男子たちのグループが呆気に取られて演奏を眺めた後、全員無言で必死に投票していた姿を見て、私は感動しました。

このイベントはテレビ埼玉のカメラが入っており、地上波に乗るということや、大型スクリーンでのMV放送権など、企業・メディアからのバックアップが受けられる点も大きい。
企業・メディアの力を借りて、彼ら自身の「いつもの」演奏を、多くの人へ知らしめて、本当に大きくなっていくところを見せてほしいと思った。
がんばってください。

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