哲学は「哲学者を馬鹿にする事である」の誤読と畜群

哲学というと、フィロソフィア「知を愛する事」が一般的な概要ではあるが、その領域はかなり広い。
数学であれ、文学であれ、新しい道を開拓するのは「哲学」である。
数学の問題を早く解けること、難解な文学を読み解く事、これ自体は勿論凄い事だが、それでは、その領域内にしかとどまれない。
それだけでは、学問の領域において「風穴」を開ける事は不可能である。
そこで登場するのが哲学「問答法」だ。

① 教師が問い、生徒が答えることを繰り返していくことによって学習指導を行なう方法。 ② 特に、ソクラテスが問答によって相手に自分の無知を自覚させ、真理の認識に導いたこと。 産婆術とも名づけられている。
コトバンク参照

人に与えられた問題を解くのが数学や科学なら、そこに疑問、懐疑し続けるのが哲学だ。
勿論、その懐疑は、哲学それ自体にも与えられる。

アリストテレスは自身の師匠であるプラトンに対して懐疑したし、
カントはライプニッツを批判したし、その批判されたたライプニッツは「哲学者自体を批判する事」を提示した。
実存主義の父であるキルケゴールはヘーゲルを否定した。
そう考えると、「哲学は批判の歴史」だし、
批判=哲学と考えても遜色ないくらいだ。
逆にいえば、「これが真理だ」という思考停止はなんら哲学的ではないわけだ。
そもそも、「真理を問答によって導き出す」のが、哲学なのだけど、真理を導きだすのに躍起になるうちに、問答に問答をかけ続け現代に至るわけだ。


それなら、「俺は哲学を否定する」という傲慢な畜群。

哲学を馬鹿にするには、その哲学に対して、懐疑を持ち、"それに変わるだけの哲学体系"が必要。
哲学それ自体は、ソフトウェアのようなもので、必要に応じて書き換える必要がある。
そのコードを書き換えるのが哲学者の仕事であり、いわば哲学者はプログラマーなようなものだ。
哲学者を馬鹿にする事は哲学なのかもしれないが、それを馬鹿にするのから、それに裏付けるだけの否定根拠と、合理性が必要だ。
というのも、主観や、それに伴う否定なら誰にでもできるからだ。
畜群(一般人やコメディアン←日本で言えば芸人)はその主観を利用し、しばしば哲学者を批判するが、それはたんなる相対主義のそれである。
畜群はなんの合理性も、理論も持たずに自分の主観や経験で前時代の哲学者を罵倒する。
哲学者の哲学体系が関数的なものであるとすれば、正しい値が出力されない事への批判が畜群のそれだ。
哲学において、絶対的真理が存在しないと、今の所は解明された以上、それは部分的、パーツ的な関数的一面で機能するわけだ。
しかし、それを理解できない知的な人達(勿論皮肉である)は相対的なポジションをとって、前時代の哲学者の批判をするが、それは全くのお門違いであり、批判するのであれば、それ相応の理論体系が必要である。
ライプニッツの思想的に考えれば、前時代の哲学者を批判するのセオリーであるが、
それには、それにら伴う理論体系と、合理性が必要だ。
どうしても、このライプニッツの哲学者批判が、畜群には誤読されてしまうらしい。
まあ畜群であるから当然といえば当然だが。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?