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不思議さの感覚を、こころに再び留めること

昨日、親が岐阜のおばあちゃんが誕生日の月だから、と実家から岐阜の家のほうに行ってたらしい。そこで、「あんたがつくった仏さま時間経って色がかわりはじめたね」とLINEがきた。

家に釜がないので、塑造用の粘土で小さな人差し指サイズの仏さまをつくることを去年の末ごろから細々とつづけている。作品をつくろう、といった気概までもなく、精巧な仏さまをつくりたい気持ちも特にない。ただ京都にいる作家さんの作品やそのつくりだす量に影響を受けた。最初は、自分もたくさんの仏さまをつくって、空間で仏さまに囲まれたらどんな感じ方の変化があるかなとおもい、はじめたことだった。

なので、とても拙いものだ。人に見せられるようなものでもないが、家族にならいいかと思って、実家と岐阜のおじいちゃん・おばあちゃんにひとつずつ、正月ごろだろうか、つくって手渡した。おじいちゃんたちもけっこうな高齢だし、見守ってくれたらいいな、と思ってのことだった。最も、岐阜のおじいちゃんはここ最近はやめてしまったが、10年来、大量の円空仏を趣味で彫っており、そもそもはそれに影響されたことも大きい。

今年の頭は1日1-2個つくっていたが、忙しさもあったり、こころの余裕がなくなるほどに、徐々に毎日から1週間に1度、そして1ヶ月に1度…と頻度がかなり落ちた。けれども、夏に取材した陶芸家さんにくず土をもらい、うちの釜で焼きにきていいよ、と言ってもらったのがきっかけで、作り溜めてもっていこう、と、ここ最近また少し熱があがってきた。

そんなときに、半年以上前に手渡した、岐阜の家にある仏の色が変わったというLINEは、なぜだか不思議なよろこびを感じられた。ありがたいなあ、とおもった。じわっとした。誰かに感謝の手紙を書いている感覚に近いかもしれないが、自分がそんなに時間をかけたわけでもなく、拙い出来だけれども、小さな仏さまがちゃんと岐阜の家を見守ってくれてるんだな、というよろこびだ。自分のつくったものが、ただ作られたものを超えて、ほんとに仏になってるのかもしれない、と少しだけ思った瞬間だった。その不思議さに触れた。

そのあと、近所のお寺に参拝しにいった。そうしたら、パートナーが応募していた陶芸ショップの週末バイトの面接に通ったとの連絡をうけた。彼女は台湾人なので、日本語がまだペラペラではなく、面接も不安がっていたが、受かってよかった。いいことは続くものだ。

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そういえば、昨日はもうひとつ昔の夢、とまではいかないが、「自分が確かにこんなこと言ってたな」といったかつての憧れに出逢い直せたことがあった。たまたま、仕事で地域経済や観光のプロジェクトに関わりそうなので打ち合わせのためにリサーチをしていたところ、沼津で深海魚でまちづくり、といった趣旨の記事を見つけた。「深海魚」は全く詳しいわけではないが、なぜか昔から惹かれるものがあってずっと好きだ。沼津の深海魚博物館もいったことがある。大学生のときだ。当時は少し寂れていたし、もっとディープにいけるはずだろ、とか思っていたけど、いまはまちづくりで活性しているのだろうか。そのときには、水族館にも深海魚ってあんまりいないよな、深海魚だけの水族館あったらいいのにな、なんて思ってた。深海の水圧の再現など、生育環境を作るのが色々と難しいからないのだろう、と思う。無限にお金があったらつくりたいな、と当時思っていた。

ただ大事なのは、この「深海魚水族館つくりたい」という夢や目標未満のやってみたさや関心をすっかり忘れていたことだった。そういえば、こんなこと思っていたな、と思い出せた。思い出す、っていうのはre-memberingとかく。再び、こころに留めるということらしい。こころに留めるってのは、当時抱いてた希望や面白いという感覚もふくめて、こころに刻み直すことだ。
それはある種、過去の自分とふたたび出逢うことだなとおもった。なんで忘れていたんだろう、と思った。

そして、おそらく学生の当時は「深海魚の水族館」なんて実際に不可能だったし、作れたらいいのにと思ったけれど「つくろう」と本気で動くわけでもなかった。いや、今もじゃあ仕事をやめて「深海魚の水族館」を作りたいわけではない。だけれど、ぼくの今の仕事の作り方だったら深海魚に関する活動は、水族館の立ち上げは無理だとしても関わる何かはできそうだなと思った。だから、このタイミングで当時の欲望ともいえない曖昧な関心に出逢い直せたことには意味があるのだろう、と思う。インターネットの彷徨いがつなぐご縁なのかもしれない。これもまた、不思議な感覚だった。仏さまのLINEのときに感じた不思議さとはもちろんまた異なる類の不思議さだった。

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ふたつ、不思議な感覚を味わったなあ、という記録だ。そして、この不思議さが、今の自分にとって不思議なのは、今の自分がすこしの未知さや理解のしえなさ、自分の外側にあるものだという感覚を持っているからだと思う。その味わった不思議さの感覚が、そしてとても大事なものだった、というのを昨日は散歩したり、夜寝る前にかみしめた。そっちに惹かれるものがある。新たな自分を産み直す予兆を感じる。そう思う。

こんな不思議さの感覚はふと流れていってしまう。日常が流れていくし、感覚なんてものはその時々なので、一瞬でうつろってしまう。だから、こうやって留めておきたい、って思うことも人間の普遍的な欲望だとおもう。それは留めても流れていくし、とどめきれないけ。不思議とは、仏教用語で思議が不可能なこと=仏や菩薩の神力らしい。人間のちからを超えるものだ。そんなことを記述して保存なんてできるわけがない。それでも、書くことでこころにふたたび、仮留めくらいはできるかもしれない。

その仮留めした曖昧なものは、次の一手につながる。ものを書くときも全くの余白から書き出すのが難しいが、何かひとつの文章さえあれば案外筆がすすみだす。庭づくりでも、石を一つ置くと次の石の置き場がみつかるという。だから、こころに仮でも留められれば、こころの庭をつくっていくことができそうだ。そうこうして、数年前の自分とは全く新しい風景の自分に変容しつづけていくのだろう。

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