Masafumi Kawachi

フィンランドAalto University修士課程卒。一般社団法人Deep Care…

Masafumi Kawachi

フィンランドAalto University修士課程卒。一般社団法人Deep Care Lab代表理事/公共とデザイン共同代表。祖先・未来世代・山川草木などをケアできる想像力を育むための活動を、手さぐりでおこなっています。

マガジン

  • 雑考堆肥

    日々のこころのもやもやと雑感を堆肥化してく

  • WONDER story

    • 14本

    いのちのワンダーをめぐり、多様な実践をおこなっている方々へのインタビューを物語として綴る

  • PROJECT

    • 15本

    Deep Care Labのプロジェクトやイベントのレポート

  • PUBLIC & DESIGN|公共とデザイン

    • 61本

    企業・自治体・共同体と実験を共創するソーシャルイノベーション・スタジオ「公共とデザイン」が運営するメディアです。クリエイティブ視点でガバナンス、民主主義、市民参加などの理論と実践例をお届けします。 プロジェクトのご依頼、登壇や研修、協業などのご相談はサイトのお問い合わせからどうぞ。 https://publicanddesign.studio/

  • 人間性の再想像

    考えを紡いでいった先に、ぼくなりの思想の織物が出来上がれば儲けもの。2020年より、もっぱらのテーマを人間性の再想像と称し、現代から未来に必要な人間性を思索。

最近の記事

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あらゆるいのちへのケアする想像力を。Deep Care Labの設立のお知らせ

先日、Deep Care Lab (DCL)という、一般社団法人を立ち上げました。川地真史と田島瑞希の2名による共同創業となります。「あらゆるいのちへのケアする想像力をはぐくむ」というパーパス(存在目的)を掲げ、複雑な課題に対峙するため研究と実践をかさねていきます。 本稿では、設立にあたりどのような問題意識をもっているのか、何を大事にしていきたいのか、なにをやっていくのか、をご紹介できたらと思います。 <私>と半径2mがよければ、それでいい現代100年後の地球はどうなって

    • 日記や記録を書くなかでの、どうしようもなさ

      昨日は朝7時すぎに家を出た。東京・下北沢で11時から打ち合わせの予定だった。少し余裕をもって着いておこう。そう思って、早めに家をでた。朝おきて、急いでトーストを焼いて買ったばかりのマーマーレードジャムの瓶をあける。瓶ものの調味料やらをあけるときには、やたら力がいるものもあるが、小洒落て落ち着いた青みのラベルシールが貼られている上品ぶっているジャムはやたら簡単にあいた。ほぼ力を入れてないんじゃないかくらい簡単にあいたから、一瞬すでに誰かがあけたのでは..なんて疑念もよぎった。妻

      • ないなら、つくることで生き延びる

        世界に道具にされてしまう、という強い言葉が頭のなかに反芻している。 労働の歯車と化すこと、働けないものは道具として役に立たないと、勝手にどこか思ってまってはいないか。子どもを産めないのであれば、生殖器として機能しない、といったような政治家の発言。 仕事を辞めて2年間、留学していた間は、とにかく不安でしかたなかった。自分が働いてないから、社会に価値を生み出せていないのではないかと思った。その不安は、道具としての価値を帯びない自分はいてもいいのだろうか、という不安でもあった。と

        • 魂を傷つけることと、おっさん穴にすぐ入ること

          漫画『バガボンド』が大好きなのだけど、特に主人公の宮本武蔵の幼少期の「おっさん穴」のくだりがとてもいい。武蔵は天下無双を目指して、強者をどんどん切っていく。ただ切ったものたちからの怨念があったり、終わらない戦いの無限連鎖のようなものに絡み取られていく。 そんなときに、昔、山の中でただ無心で刀を振るっていたときの記憶を思い出していく。小さな洞穴で武士の白骨死体の傍らで、ただ愉しくただ刀を振るう。人を斬り、天下無双に近づくために振るっていたのではない次元で、刀を振るうことそのも

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          WONDER by Deep Care Lab 他
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        • ゆらぎつづける生
          Masafumi Kawachi

        記事

          暮らしの技の消失と、じぶんという存在の萎縮

          鷲田清一さんの『生きながらえる術』を読んだ。生きながらえること、いきいきと生きること、死なないこと..そのためにいろんな「わざ」や「すべ」を身につけていくこと。じぶんのことばになりきらない関心に対して、鷲田さんはいつもうまくことばをあてがっている。 実存的な不安は、歴史の中で先人がどうだったのかは知らないが、現代社会ではこれまでにないくらい渦巻いていると思う。ただ生きててそれでいいのかなと思ったり、働いていて仕事を通じて社会にかかわり、価値をもたらしていることで安心が得られ

          暮らしの技の消失と、じぶんという存在の萎縮

          反逆のあらわれとして行為の崇高さに宿る狂気

          guca owl というラッパーのDifficultという曲に、 「とっておきの暴言の為に、真面目な本を読んだりするんだ この世界が真っ直ぐなら俺も真っ直ぐにやるよ」と、こんな一節がある。 この世界はまっすぐじゃない、ということだ。だから捻くれ、はみだし、抵抗しないと、世界にすでに存在する歪な型に当て込められてしまう。 ものすごい小説や芸術作品にふれたとき、そこから「狂気を感じるなあ」といった”かんじ”が浮かんでくることがある。 例えば、作家の村田沙耶香さんがとても好きな

          反逆のあらわれとして行為の崇高さに宿る狂気

          日々に蠢く無数の感情とふるまいを

          「本当にその日を生きる」ってどういうことだろう、と思う。朝起きると、冬の朝はほんとうに暗いことを知る。夜明けまでにこんなにも時間がかかるのかと知る。もうすぐ、冬至だなと思って調べたら、明日だそうだ。 ねむたい目をこすりながら、ベッド脇のスタンドライトを灯す。人工的な光は、この時間に起きると目を突き刺してくるようだ。 「本当にその日を生きる」ってことは最近ふとよく考える。それだけ、毎日が慌ただしく、するすると日常が流れていってしまう気がしていて、師走だよなあ。 レイチェル・

          日々に蠢く無数の感情とふるまいを

          身体と死という有限性から、一瞬を汲み尽くす

          有限性、という言葉はいろんな角度から見直されるべきかもしれない。限りがなければ、人は思うように生きていけない。 フロムが『自由からの逃走』で書いていたのは、そういうことだ。個人が法権的社会の中で階級的なものから解き放たれ、自らの生き方を模索する中世。無限の情報に溢れて、何者かにならなければと逼迫したプレッシャーが蔓延する現代。 最近みた『すばらしき世界』という映画では、殺人罪で13年刑務所にいた三上という中年男性が、娑婆にもどり、なんとか生きようとするが、日本社会での復帰

          身体と死という有限性から、一瞬を汲み尽くす

          終わることで更新される関係性

          昨日、終わりや別れ、死をテーマにしているスタートアップの方とお話しをしていた。彼は、離島の集落に住んだことから、なくなっていく集落がたくさんあるけど、当人たちは少なからず負い目を背負っている、と言っていた。それは「自分たちの代で終わらせてしまう」負い目だそうだ。 でも、中にはそれを一つの自然の摂理だね、って捉えて、受け入れられているひともいる。この終わりと別れへの向き合い方が、とても大切だと感じて、会社をつくったという。素敵だなと思った。 亡くなったひと、終わったものごと。

          終わることで更新される関係性

          仏のいへになげこめば。「手放す」からはじまる、「受け取る」とケア

          受け取るって、やってきているものに気づくことでもある。昨日は、バトンを受け取ることについて主に書いた。ぼくらはいつだって、多様な刺激ーまたは、呼びかけcallと言ってもいいかもしれないーにさらされている。その呼びかけcallに応答responseするのかは、その呼びかけを聴き取り、それを受け取る=引き受けようと思えるか。それを引き受けた上で、その人なりの応答の仕方が生まれていく。その複数の応答の仕方には、創造性が宿る。 前回の終わりに宗教性と受け取る、ということを書いてみた

          仏のいへになげこめば。「手放す」からはじまる、「受け取る」とケア

          受け取るためには、気づくこと。贈与としてのバトンを受け取る。

          何かを「受け取る」ということは、とても日常的な動詞であると同時に、宗教的な位相まで深みを持ちうる。 郵便物を受け取る、メッセージを受け取る、好意を受け取る、プレゼントを受け取る、フィードバックを受け取る、バトンを受け取る…。 こうして用例を並べてみると、それらが向こう側から「やってくる」ものだということがわかる。そして、やってきたときに受け取ることが難しい類のものもあれば、比較的受け取りやすいなというものもある。 郵便物を受け取るのは、サインをすればいいからとても簡単だ。し

          受け取るためには、気づくこと。贈与としてのバトンを受け取る。

          想像力の危機は、環境の危機でもある。文学的想像力とエコロジカルなケア

          結城正美さんの新著が、とてもすばらしかった。ぼくが取り組んでいるのは、この文学的想像力を日常的に「実感を伴うかたち」で意識かし、受肉していく物語を個々人が、また集合的に、勝手に育まれちゃう環境形成だな、とおもった。 工場排水による水質汚染も土壌汚染も、廃棄されるプラスチックや海洋ゴミの問題も、結城さんは海や土や森や大気に対しての想像力のなさなのだ、と言っている。まさにこれが!みたいにビビッとくる記述がたくさんあって、よかったのでメモしておきたい。 触れあい、手をかけること

          想像力の危機は、環境の危機でもある。文学的想像力とエコロジカルなケア

          路傍の石に目をみはり、魂のかけらを宿す

          少し前の記事になるが、テッド・チャン、ケン・リュウ、エルヴィア・ウィルク、ジーン・リムという4人のSF作家が対談している記事がある。ずいぶんまえに読んだのだが、自分のtwitterのフィードを遡っていたときに見つけ、改めていま琴線にふれるところがあった。 インタビュアーは、「何に希望を見出すか」と尋ねたところ、ケン・リュウは以下のように答えていた。 これがとってもいいなと思った。やっぱりぼくは、いろんなものが人間的ではなくなってしまう、これは人間だけのはなしではない、植物が

          路傍の石に目をみはり、魂のかけらを宿す

          愛しく悲しいという古語とケア

          今年の6月から3ヶ月ほど、「人間以上の存在へのケア関係」を探求し実験するプログラムをやっていた。各々の参加者が、身の回りをとりまく、プラスチック、蚊、海と魚、ホコリ、蚕、など多様な存在を通じたケアしあう関わりを、日常の中で実験した。 その「やってみる」というパフォーマティブな営みからのみ、自ずとたちあがる感覚がある。「ケアよりも愛でる」といったことばのほうが、しっくりくるんじゃあないか。日本語ではないケアということばは、ややこしい。そんな声も聴こえてきた。その「これがしっく

          愛しく悲しいという古語とケア

          たまたまという制約からはじめていくことと、記述的な創作

          先日、京都のメディアショップで千葉雅也さんと山内朋樹さんのトークセッションがあった。作庭のフィールドワークから、制作論に拡がっていき、とてもまなびが多い時間。庭の話だけではなく、絵画や小説など多岐にわたる制作に通ずるしさにとんでいた。 印象に残ったのは「仮固定」だった。庭をつくるうえで、重要なのが石だ。西洋的なガーデンとは異なり、日本の庭では石ありき。その石をどこに配置するのかが肝になる。それは、常に仮組みだ。山内さんのフィールドワークでは、なぜここに石が置かれたのかであっ

          たまたまという制約からはじめていくことと、記述的な創作

          信じることと、想像と、無意識

          夜、お世話になっている近所のお寺さんで知人がひらくイベントに参加してきた。テーマは「法力とはなにか」だった。もともと、阪大のユング心理学の研究者が、その観点から現代の空海とよばれる阿闍梨さんのもつ「法力」について解き明かす、という本がある。 ぼくは本を読まずにいったので、法力とは何かのイメージはまったくなかった。ただ、今年から修験の道に足を踏み入れ始め、お山をのぼり、神様に祈りにいくなどを何回かしている。そのなかで、やはり霊力をあげるだったり、神を降ろすことだったり、妖怪の

          信じることと、想像と、無意識