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野球という競技の"負け方"

 
「勝ちに不思議の勝ちあり、負けに不思議の負けなし。」野球をやってきた人間なら一度は耳にしたことがある言葉だろう。

直訳として「何故か分からないが勝つ事はあっても、何故か分からないが負けてしまう事は無い。負けには必ず理由がある。」というような解釈が多いように感じるが、自分の野球人生を振り返ると、何故か分からないが負けてしまった事は少なからず心当たりがある。
 
今回はこの言葉の意味をきっかけに、野球というスポーツの解像度を上げていきたい。

失敗論


必ずモテる方法など無い。
しかし、これをやると絶対モテないという失敗法は確立されている。

寝癖ボサボサ、洋服ヨレヨレ、異臭プンプンといったような清潔感の欠如は、どんなモテセリフも、モテ仕草も、モテシチュエーションをも打ち負かす。

ただ世の中は甘くなくて、清潔感があっても振られることもあるし、優しくても振られることもあるし、お金を持っていても振られることもある。

つまり、これはキングコングの西野さんがよく言っているが、「成功の対極が失敗では無い。失敗の可能性を下げたからと言って、成功の可能性が上がるわけでは無い。」そう。成功と失敗は同じフェーダーでは無いという事だ。

成功事例の転用による成功は難しいが、失敗事例を転用すれば必ず失敗する。成功はアート失敗はサイエンスで、失敗の法則は確立されている。
 

野球における失敗


野球においても上記の話は同じで、"こうすれば必ず勝てる"というのは無い。ホームランを打ったら勝てる訳でも無いし、150km投げたら勝てる訳でも無い。むしろ、相手よりも多くのヒットを打ったのに負けることだってある。

勿論、投手が点を取られなければ負けないのは事実だが、そんな事はやろうと思ってできるなら誰も苦労はしない。
 

早速、野球における清潔感の欠如である失敗の法則を確立させたいが、その前に野球というスポーツの特性について整理したい。
 
 

野球というスポーツ


サッカー鎌倉インターナショナルFC監督の河内一馬さんのnoteが好きでよく読むのだが、ある
noteで河内さんはスポーツをいくつかに分類していた。それを転用する。
 
https://note.com/kazumakawauchi/n/n3e280127b24c:title

河内さんはスポーツを個人と集団、競争と闘争に分類している。個人と集団は説明せずとも理解できると思うが、競争と闘争とは何か。河内さんはこう表現している。
 

この両者の違いで最も大きなポイントとなるのは「時空間」と「妨害」である。「時空間」とはその名の通り時間と空間のことを指し、「妨害」とは「競技者が目的を達成しようとする過程において、相手競技者に意図して干渉をする行為」のことを言う。それらを分けるのは、相手を妨害できるか否かである。

 

例えば、100m走は個人の競争。バスケは集団の闘争。
 

そう考えると、野球とは個人的要素が極めて強い集団競技であり、競争的要素が極めて多い闘争である。これが何を意味するかを下記に述べる。
 

スキルの領域

 

コンタクトがない、競争要素が極めて多い闘争競技である野球において、100m走や、格闘技などのようにスキルそのものが発揮されるケースは少ない。しかし、集団競技でありながら、個人要素が強い。そのためスキルによる決着がつく場面がある。
 

そう言って真っ先に思いつくのは、投手と打者の勝負であるが、ただこれは一概に個人の勝負とはい難い部分も多い事から、あらかじめ例からは外す。
 
野球におけるスキルとは何か。一言で表すなら「スキルとは速さである」そして「速さとは可能性である」。
 
スイングスピード、投げる球の球速、足の速さだ。

例えば、1塁からリードを取り、モーションの始動と同時にスタートを切ってスライディングをする。
 
そのタイムよりも、投手のクイックモーションと捕手の2塁送球の合計タイムが遅ければ盗塁は成功する。

これはスキルだ。例えば、捕手の2塁送球が2.3秒かかってしまえば、投手のクイックタイムが1.2秒であったとしても、(投手としては合格点である)足の速い選手であれば必ずセーフになる。

これは一例に過ぎないが、こうしたスキルで戦う領域を創り出し、勝てるスキルの領域で、勝負していくことが野球という競技では極めて重要である。

セオリーがまかり通る競技、野球。

 

「競争要素が極めて多い闘争である。」とは集団競技でありながら、個人要素が強いこと。更には、同時空間でプレーしていながら直接的な妨害ができない。からである。

故に野球では、セオリーがまかり通る。
例えば、ランナー1塁での送りバント。
1塁側に転がすのがセオリーである。
それはなぜなら、1塁手がベースに付いているため前に出られない。だから1塁側に転がすのだ。
 

逆をいえば守備側は1塁側に転がしてくることはわかっている。素人からすれば、それがわかっているのなら防げよ。となるが、そんなことは基本的にしない。それを防ぎにいくリスクが高すぎるからだ。

身体接触を伴う競技であれば、相手の意思が明確であれば阻止する事は可能だが、野球という競技においては阻止するリスクが高すぎる。もしくは、阻止できない場面というのが存在するのだ。

楽天の石井一久監督がシーズン開幕前のインタビューで「攻撃における采配はあまり重要ではない。采配において重要なのは選手起用。特に投手の継投。」と語ったのは、野球における攻撃の采配というのは基本的にセオリーに従い、それを遂行できれば成功する。という事を理解しているからであろう。
https://youtu.be/meqQf8wtEtE:title
 
よく言う「点を取った次の回に失点しない」とか「バントは一発で決める」とかいう野球界に残る、セオリーのフリをした謎の言伝えは、自らがコントロールできるものでは無い事から結果論以外の何者でも無い。

そんなことを言う指導者や、解説者を見るとうんざりする。
 
 
極めて意思を表現し難いスポーツ、野球。

スポーツにおける攻撃の定義は2つあると考える。

①得点やポイントを取りに行く行為。
②ボールコントロールが出来るか否か。

サッカーやバスケ、バレーやラグビーなんかを想像してもらえれば上記の2点が当てはまる。自らがパスを繋ぎ、得点を取りに行く。

しかし、野球においては②ボールコントロールができない。

実際にボールコントロールをしているのは"投手"である。つまり、得点を防いでいる側だ。

つまり、野球における攻撃は他のスポーツと異なり、投手の投げた球を打つという受け身である事が大きな特徴である。

その事から、野球は意思が表現し難いスポーツだと言える。
 

卓球のような野球


卓球において、弱い選手というのはボールを打たされるらしい。自らの意思では無く、反射的に撃ち返す。逆に強い選手というのは意志のある卓球をする。こういうスピンのボールを打てば、こういう球が返ってくる。そうすれば自分が決められる。まあ、こんな具合だろう。

そんな、弱者の卓球のような野球をしていると勝てない。というよりも、負ける可能性が飛躍的に上がる。

この野球という競技の特性を理解せずに、攻撃だ。打てばいいんだ。と草野球や体育のソフトボールみたいなことをやっていると、身体接触が無く、競争性の高い闘争競技であり、投手というボールコントローラーの能力が勝利に大きく関与し、意思が表現しにくいスポーツである野球においては相手が技術的に格下であっても負ける可能性が上がる。
その逆を私は「意思ある野球」と呼ぶ。
 

意思ある野球

 

では、野球において意思を表現できるプレーとは何だろうか。
 
意識を表現できるプレーとは下記のような定義である。
自らの主体的なアクションによって相手を動かすことができる。もしくは相手に妨害されることなく意思を表現できる。
 
そう考えると「守備シフト、バント(構えも含める)、走塁」精々こんなもんだ。
 
投手に関しては、自らの主体的なアクションによって相手を動かす事ができるが、打者という妨害が入る事から、今回は意思は表現し易いポジションではあるがグレーという事にしておこう。
 
だから、プロ野球の開幕前の監督インタビューや、高校野球のチーム紹介などを見れば、どこのチームも「足を使って」「今年は走塁を」というコメントが散見されるのは、そういうことだ。自らの意思でコントロールできるプレーというのはそう多く無いからだ。
 
 

偶然をデザインする


昨今、日本プロ野球でも目にするようになった大胆な守備シフト。素人が見れば、人が居ないのだからそこへ打てばよいと思うかもしれないが、これはそう簡単なものでは無い。
 
そして、更に人の心理的な影響が大きいだろう。行動経済学的な観点から言えば損失回避的な側面が大きい。
 

守備シフトを引いて、損失を食らうくらいなら、普通の守備シフトを引いてヒットを打たれた方が良いと考えてしまう。ましてやトーナメントの一発勝負の高校野球なら尚更だ。
 
そもそもなぜ、大胆な守備シフトなんてものがまかり通るかと言うと、野球において打者がボールコントロールすることは、極めて難易度が高いからである。

シフトの間を狙って打つことなど海堂高校でも無い限り不可能に近いからだ。

ただ、ここからはこれとは逆説的な文章を展開する。結論から言えば「それでも最低限、打つ方向、もしくはゴロかフライかは意思を持って打て」である。
 
打者というのは「自分の狙い球を、自分のタイミングで、バットの芯に当てる」ことを目的に打席に立つ。これをgood hitと呼ぼう。例えそれが結果的にアウトになったとしても、打者の満足度は高い。
 

しかし、野球というのは皮肉なもので「自分の狙い球を、自分のタイミングで、バットの芯に当てる」事が出来なくても、ヒットになるし、点数が入る事がある。これをbad hit と呼ぶ。
 

つまり、打者というのは「①GHH(グットヒットのヒット) ② GHO(グットヒットのアウト) ③BHH (バッドヒットのヒット) ④BHO(バッドヒットのアウト)」の順を目指し、打席に立つのだ。
 
(② GHO(グットヒットのアウト)よりも③BHH (バッドヒットのヒット)が後に来るのは、バッドヒットはコントロールできないからである事と、グッドヒットを目指してバッドヒットになる事はあっても、バッドヒットを目指してグッドヒットになる事は可能性的に少ないからである。)

しかし、一方でチームへの貢献度で言うと「①GHH ③BHH ④BHO ②GHO」となる。
 
ここからが重要であるが、私が思うにランナーがいる状況で、打者が目指すべきものは「④BHO ①GHH ②GHO  ③BHH」となる。
 
野球という競技は陣取りゲームだ。
BHOであっても進塁させることはできるし、得点する事もできる。
 
その偶然にもバッドヒットしてしまっても、勝利へ貢献できるように、グッドヒットを目指す。あらかじめ偶然をデザインしておく事が極めて重要なのだ。

繰り返しになるが、野球という競技の打者はボールコントロールが極めて難しい。(バットに当たる事すら補償できない)
 
しかし、それも相まって偶然に得点する事も珍しく無い。意思とは反した結果が好転することもある。
 
しかし、意思は表現し難く、ボールコントロールの難易度も極めて高いが、それを表現しようと、コントロールしようとしなければ、負ける確率は上がる。偶然を祈っているだけでは、不思議と負ける。何故だか負けるのだ。

偶然をデザインししろ。
 

結論


「勝ちに不思議の勝ちあり、負けに不思議の負けなし。」の「勝ちに不思議の勝ちあり」とは能力のある者が偶然的に能力を発揮できた場合。もしくは相手が自ら負けてくれた場合のことを言う。
 
そして「負けに不思議の負けなし。」の負けを定義するものは
①相手にスキルの領域で戦われた。
 もしくは、意思ある野球をし、された。
②こちらが意思なき野球をした。
の2つに分類される。
 

よく言う「ミスが出たので負けた」は、勝てなかった理由にはなるが、負けた理由にはならない。
 
負けないためにどうするかが大事なのであって、「ミスをしない」は、成し遂げる事が約束できない。むしろ「ミスは必ず出る」。

「①相手にスキルの領域で戦われた。
 もしくは、意思ある野球をし、された。」
 
とは要するに相手が格上だったと言うことだ。最後の最後に勝敗を分けるのは技術である。お互いがスキルの領域を創り合い、そこで勝負して負けたと言うことだ。こればかりは仕方がない。
 

「②意思なき野球をした」とは、能力のある者が偶然的な能力の発揮を期待したが、偶然的に能力を発揮できなかった状況を指す。
 

つまり、野球における失敗論とは「偶発的な能力の発揮を望む事」であり、必要なのは「意思ある野球」をする事である。
 
そして練習では、それを可能にする訓練を積む事である。
 
「①相手にスキルの領域で戦われた。
 もしくは、意思ある野球をし、された。」で負ける事は本望であり、そんなゲームをしたのなら讃えたい。
 
しかし、ほとんどの場合"技術"で勝負を分けるには至らない。
 
大概が意思なき野球をして敗れる。
 
偶然をデザインし、洗練された意思を持ち、それらを表現させる事が野球という競技の指導者には求められるだろう。
 
 
 
菅野雅之
 
 
 

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