菅野雅之

スポーツとその周りのこととか

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最近の記事

PERFECT DAYS -暇と退屈の倫理学にのせて-

「よかった。とにかく、よかった。」 タイトルにある通り先日、映画「PERFECT DAYS」を観ました。 感想も小タイトルにある通り「よかった。とにかく、よかった。」です。 この映画の”良さ”を誰かに伝えたくて、それを試みるものの口から出てくる言葉は「マジヤバい」で、この言語レベルがマジヤバいことに気付かされます。 「よかった。とにかく、よかった。」も「マジヤバい」も直感的で感覚的なもので、それは即ちこれまで私の中で生成された”私”と一致、もしくは共感したということ

    • ”夢”と”努力”と”目的”の話

      教育の現場にいると「努力は嘘をつかない」とか「明確な目標が大事」とか「夢を持つことの素晴らしさ」みたいなことは、タコができるくらいに見聞きする。 そして時々、そんなことを言わなければならない空気の場面に出くわす。 中学・高校の時は誰よりもその類の言葉に頷き、信じてきた少年であったが、何だかいつの間にか面倒臭い人間になってしまったので、努力に嘘をつかれたこともあるし、目標を立てることはどうも苦手だし、夢ってのは現実との差分な訳だから受け入れるのには痛みが伴うから手放しで推す

      • フットボールとエンブレム

        FC東京のエンブレムが変わる。 先日、FC東京がエンブレムを2025シーズンから変更するという発表があった。会場からはブーイングが起こり、ネットでも反対の意見が散見されている。 初めに申し上げておくが、私はFC東京のファンでも、サポーターでもなく、何ならサッカー畑の人間でも、フットボール界隈の人間でもない、ただの通りすがりだ。 そんなエンブレム変更という現象は、サッカー文化ではなくフットボール文化そのものであるし、ファンとサポーターを区別する構造そのものであると側から見

        • 応援とは何か -村人と観光客-

          「応援する」とは具体的に何をすることだろうか。 日本語の「応援する」からは様々な姿を想像することができる。 声を揃えて歌うこと、動きをそろえて演舞すること、「頑張れ」と声援を送ること、直接声をかけること、スタジアムに足を運ぶこと、物事がうまくいくように祈ること。 どれもが「応援している」状態であると解釈できる。英語にはそれぞれに適した表現があり、異なる。 では、今年の夏の甲子園で優勝した慶應義塾(以下:慶應)の「KEIO KEIO 陸の王者KEIO」の大合唱は”応援

        PERFECT DAYS -暇と退屈の倫理学にのせて-

          スポーツ文化論 -お客様を楽しませるべきか-

          ”クラブ”と”チーム”と”ファン”と”サポーター” ”クラブ”と”チーム”。そして”ファン”と”サポーター”。これまで、これらに明確な境界線は引かれていなかったように思う。競技によって何となく、サッカーはクラブとサポーター。野球はチームとファンというように、主語がサッカーか野球かによって使い分けられてきたように思う。 ただ、昨今の日本のスポーツチーム(アマチュアを含む)のコミュニケーションの取り方や表現の仕方に猛烈に違和感を感じ、まずはこれらを明確に区別する必要があるのでは

          スポーツ文化論 -お客様を楽しませるべきか-

          ”ダサい格好”の弊害 -ダサいユニフォームを着ると弱くなるのか-

          人が服を着る意味 上記の文にある通り、服を着る理由の一つに「その人が誰かを知らせるため」という表紙やパッケージとしての役割があげられる。 特に日本のスポーツユニフォームにおいては「その人が誰かを知らせるため」という役割が一丁目一番地としてユニフォームがデザインされており、それ以外の役割をユニフォームに持たせるためにデザインされているチームは多くないように見受けられる。 これでは、漢字で名前を入れたカラービブスを着用していることと何ら変わりない。 ユニフォームを着ること

          ”ダサい格好”の弊害 -ダサいユニフォームを着ると弱くなるのか-

          ”聖職”と”労働”と”アマチュアリズム”と”客”と”プロ”

          ”聖職者”なのか”労働者”なのか 教員の労働時間削減を目指す動きは加速していて、業務内容の改善や部活動の地域移行などが進められている。 働くものとして、社会を生きるものとして権利や健康を主張し、守っていくことはとても重要なことであるし、より良い労働環境を求めていきたい。 ただ、業務内容の削減や、労働時間の厳守を主張するがあまり聖職としての教員から遠のき、労働者としての教員となることを私は危惧する。 そもそもなぜ教員が聖職として在るべきかといえば、それはアマチュアリズム

          ”聖職”と”労働”と”アマチュアリズム”と”客”と”プロ”

          野球で"流れ"とかゆうてますけども

          "流れ"というのは野球解説用語であって、 野球用語じゃない。 解説者や実況者が使う言葉であって、 選手や指導者が使う言葉ではないと思う。 "流れ"が来るという事を定義するという事は、 "流れ"が行くという事も同時に定義してしまう。 野球というスポーツにおいて"流れ"が行く事は、 阻止できない。 "流れ"を呼び込む事も自己完結では不可能だ。 故に"流れ"だ。 それは何故なら野球という間接的闘争競技においては直接的な影響を与える事はできない。ボールコントロールができな

          野球で"流れ"とかゆうてますけども

          体育会系だから挨拶ができて、挨拶ができるチームは強いのか。

          「勉強だけやってた奴はダメだ。挨拶すらろくに出来ない。やっぱ体育会系なんだよ。」って この前、ある人が言っていた。 この人にとてつもない濃度の色眼鏡がついていることは間違いないのだけれど、私が俗に言う体育会系の環境の中で育ったせいか、どうもこの意見を否定しきれないでいた。 そして先日そんなタイミングで、クソみたいな食事会に出くわしてしまった。同席したやつらが空いたグラスや皿は下げられない。テーブルマナー的な事もできない。挨拶もできない。 しまいには「うちら体育会系じゃ

          体育会系だから挨拶ができて、挨拶ができるチームは強いのか。

          偶然を待って生きている。

          どうやら自由意志というのは存在しないらしい。 この前あなたが食べたケーキは、実はあなたの自発的な意志ではなく、誰かの、何かの影響を受けたことによる選択である可能性が高い。 たまたま歩いていた道で焼き立てのケーキの匂いに誘われたからかもしれないし、SNSのタイムラインにオシャレなケーキが流れてきたからかもしれないし、その日は誰かの誕生日だったのかもしれない。 このように一見、自らの意思で自発的に、そして能動的に行っていると認識している事柄のほとんどは、実のところ何かの、誰

          偶然を待って生きている。

          野球選手は、かっこよくなければならない。

           私は選手の立ち振る舞いや、ユニフォームの着こなしが“ダサい”事と、そのチームが“弱い”事は限りなくイコールに近いと考えている。 では“ダサい”から“弱い”のだろうか、それとも“弱い”から“ダサい”のだろうか。 私は断じて“ダサい”から“弱い”のだと思う。 野球選手は、かっこよくなければならないのだ。 (詳しくは河内一馬さんのnoteをご覧ください) 野球というスポーツ この話を進めていく上での前提を整理する。 鎌倉インターナショナルFC監督の河内一馬氏は

          野球選手は、かっこよくなければならない。

          何かを引きずってそれも忘れて −ナイトオンザプラネットに乗せて-

          卒業生へ 人生の中での何かの"終わり"というのは ゴールテープを切るように、 はたまたサウナ室から出るように、 はたまた大根を包丁で切るように、 突然喜びが押し寄せてきたり、 苦しみから解放されたり、 今を境に何かが分断されるものでは、 どうやらないらしい。 クリープハイプの尾崎世界観は 「恋愛も仕事も気持ちよく何かが切り替わらないことの方が多い。」と言っていて https://youtu.be/yWp_cJn5UQs そんな想いをナイトオンザプラネットという曲で こ

          何かを引きずってそれも忘れて −ナイトオンザプラネットに乗せて-

          野球という競技の"負け方"

          「勝ちに不思議の勝ちあり、負けに不思議の負けなし。」野球をやってきた人間なら一度は耳にしたことがある言葉だろう。 直訳として「何故か分からないが勝つ事はあっても、何故か分からないが負けてしまう事は無い。負けには必ず理由がある。」というような解釈が多いように感じるが、自分の野球人生を振り返ると、何故か分からないが負けてしまった事は少なからず心当たりがある。 今回はこの言葉の意味をきっかけに、野球というスポーツの解像度を上げていきたい。 失敗論 必ずモテる方法など無い

          野球という競技の"負け方"

          “強いチーム”と“弱いチーム”

          “強いチーム”には言葉があり、 “弱いチーム”には言葉がない。 「才能を超えるのは思考。思考をつくるのは言語。」とは格闘家の青木真也の言葉だ。 言葉のないチームは思考がない。思考がないチームは受動的な表現をする。概念が統一されていなかったり、プレーを表現する言葉を持っていなかったり。受動的な表現をするということは技能で勝負をすること。更には技能が発揮しきれないことを意味する。 そのことから “強いチーム”はやろうとしているか否かという意思にフォーカスを当て

          “強いチーム”と“弱いチーム”

          野球というスポーツにおいてチームが”強くなる”ということ。

          我々は一体”なぜ”練習をしているのだろう。それは今まで出来なかった事を出来るようにするため。もしくは、その完成度を上げるため。もしくは、その確率を上げるため。だろうか。(以下では”技術習得”とする) では、我々は一体”何のために”練習をしているのだろう。それは勝利するためであり、強くなるためである。 では、我々はそれらを実現するために”何の”練習をするべきだろうか。上記で述べた”技術習得”だろうか。 しかし、コロナ禍でしばらく練習ができない日が続いても技術的要素が

          野球というスポーツにおいてチームが”強くなる”ということ。

          さよなら"先生"。

          【With コロナ時代の学校と先生】ウーマンラッシュアワーの村本さんが言ってた。「わかったふりする事を仕事にしているヤツ。それは教師とコメンテーターだ。」と。 以前も書いたが、 僕は教育という言葉があまり好きではない。 先生と呼ばれるのもあまり好きではない。 そこにはどうも一方的で、上下関係があり、 先生は"分からない"と言う事が"悪"であるかのようなニュアンスが含まれているような感じがするからね。 しかしね。とうとう来てしまったよ。 VUCAどころの騒ぎじゃ済ま

          さよなら"先生"。