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熱に浮かされて。

池袋駅に金色のガッシュ!!のグッズスペースがあって死ぬほど興奮した。

漫画やアニメは元々好きなんだけど、この作品はもう本当に好きで。
続編も始まってて本当に熱い。

何がいいかって、もう何がいいんだろうね
言語化よりも先に熱量が襲いかかってくるからもうこの気持ちを味わうことに精一杯で話できないくらいには好き。

それと同時に、好きなことを語ってるときの自分って結構気持ち悪かったなと過去を思い出してる。

今回はオタク特有の早口についてサイキック整体的視点も交えつつ、自分なりの解釈と言語化でまとめてみようと思う。

あくまでも僕自身もオタクであり、圧倒的な早口によって人が離れた経験をしたからこそ語れる話である。

ただ切り口鋭く、時に強い言葉が飛び出るので、心に濃いめのオタクを飼う友人たちは閲覧に注意が必要だ。

なぜなら、過去の古傷を再度傷口にする可能性が高いからだ。
当時の思い出を情景と感情を合わせて感じるのが情緒あふれる「ヒト」の素敵な才能であるが、それが辛かった思い出となると話が変わってくる。

僕は以前、ありとあらゆる罵詈雑言を自身に浴びせ、徹底的に自分を痛め付けて成長してきたタイプ(今はやめた)なのでいくらか耐性がある。
こういう特殊な性癖がない限りは閲覧するのに少し注意が必要だ。
傷つくかもしれないから。

それでもよければ是非とも見てほしい。山があれば谷があるように最終的に登頂することで終わりを迎えるのが竹内晶貴という人間のnoteの特徴だ。

時に突き刺し、時に突き刺し、最後にちょっと優しい言語化の旅に出ようではないか。

オタクの早口を気持ち悪いと感じる理由を一言で言うと
「熱量と言語化のバランスが悪すぎるから」である。
熱量200%に対して言語化30%とかになってしまってとにかく必死に映ってしまう。

急いでいるが身体が動かず段差に引っ掛かるみたいに
想いが前に出過ぎて相手にぶつけてしまうのだ。

オタクというのは内向的な傾向があるのが常だと思っていて、個人に内包されている宇宙の存在を生まれながらにして知覚している存在だと思ってる。

その多くはコミュニケーションに苦手を感じていることも特徴ではないだろうか?
ここは丁寧に扱う問題だと思っている。
動くよりも考えることが得意な特徴があるがゆえに、自分の話を聞いてもらえず、人の話ばかり聞かされ、そういう不満も吐き出せず、なんやかんやで現世に絶望した結果、そんな理不尽を全て力とポジティブで解決する画面の中のヒーローに憧れて入っていく。

そういうオリジン、原点ともいえる体験があって、年を重ねるごとにこじらせていく。季節ごとに更新されるアニメ、どんどん出てくる新しい漫画。新作を次々に産んでいくゲーム会社など。自身に向き合うなどという古臭くて地味なことよりも、刺激的で劇的なフィクションの世界に浸っていたいのは、明日が来ることが当たり前になってしまった現代において仕方のないことなのかもしれない。

そうして日常で受けた傷を歪んだ思想でコーティングして、独自の世界観という名の悲しみの結晶を「個性」と名付けてしまい今に至るということだ。

ぐちゃぐちゃの、絡まったひものごとく、もはや自身では修正不可能なところにまで行ってしまっていることも多い。

立ち止まれば不安が襲ってくることも多く、モンスターエナジーと今季アニメの批評でなんとかその日を過ごすことも少なくない。

改めて言うが、僕自身もオタクであり、その熱量から人が離れていってしまった経験を多くしている。

でも好きなものを人と共有したり、肯定されることは好きで、同じ釜の飯を食いながら好きなキャラについて話すことは至上の喜びでもある。

好きな声優さんがどうでとか、2期の何話のあのシーンがとても好きとか、主題歌はあのアーティストで死ぬほど熱いとか。
そんな話を満足するまでやり尽くしたいと思ったものである。

自身を振り返って思うが、あの早口はまるでバイキングで全品食べるまで帰らないぞという意気込みのような、せっかく来たのだからもとをとらないとみたいなのと似ている。

今話しておかないと次いつこんなチャンスがあるかわからないから、今までの蓄積した熱量を全て吐き出そうとしたのかなと。

学校とかだと席同士が近いので他のクラスメイトの話が聞こえることが多い。
その中でアニメや漫画の話題が出ると聞き耳を立ててしまい、なんとかしてそこに入れないかとそわそわしていた。

それが女の子から話題として出ると余計そわそわして「もしかしたら話を振られるんじゃないか、そこから恋愛に発展するのではという」AVを見てこれが真実だと思い込む童貞のように、どっから出てきたのかわかんない期待を持ち続けて疲れるということも多かった。異性の目を見て話をすることが恥ずかしいのに、なぜアニメの話だと自信持って話ができると思うのか。

練習でできないことは本番ではできない。
これは施術という好きなものを見つけてようやく気づいた1つの真理のようなものだと思う。

冒頭にも伝えた早口の原因として「想いと言語化のバランスの悪さと、一気に全部伝えようとする必死さ」が相手に嫌悪感を与えるのではと言った。

コミュニケーションにおいて大事なのは話すよりも聞くことだというのをどこかで聞いたことがある。

ゲームやアニメなどでいうコミュニケーションは、一方通行であることがほとんどだ。キャッチボールがなされることはほとんどない。自身の愛の強さを画面内の物語に一方的にぶん投げられる。

強いていうならシュミレーションやギャルゲーなど、自身の選択によってゲームのストーリーが変化する類のものはその限りではないが、人との会話と比べると天と地ほどの差があるのはいうまでもない。

キャラの特徴や声優、アニメの裏事情や聖地については無限に話せるが、コミュニケーションとは相手の話を受け止めて返すとか、相槌を打つとか、生きてれば自然に身につくような「認識されにくいけど当たり前にある所作」がネット社会が日常になったことで授業として導入が必要なくらいになってしまっている。

相手を見ながら言動を選択するみたいな脳の使い方をしなくても良い風な時代なので、そこの回路が繋がっておらずなにしたらいいのかわかんなくなるのだ。

これはもう練習するしかない。
アニメの知識が豊富なのはそれについて多くの時間をかけたからだ。
それが辛くないのは好きだからだ。

でも人とのコミュニケーションは苦痛だ。
だって過去にたくさん傷ついてきたのだから。
自分が期待した通りの返事が来ることなんてほぼないからだ。
相手に合わせて話を進めるのは自分がいなくなるようでとても辛いからだ。

毎朝可愛い妹が「お兄ちゃん、起きないと遅刻しちゃうよ?」なんて優しく起こしてくれる世界線はここにはない。

あるのは朝を知らせるうるさいアラームと、差し迫った課題の提出と、面白くもない数学の授業だけだ。

心身のバランスが崩れていることで起こる前のめりな主張は「文章化」するという練習で多少はマシになる。

日記でもブログでも構わない。
今の気持ちを文字で表現するとどうなるのかというのを、初めて自転車に乗った時のように丁寧に慣らしていくのだ。

現実創造でも同じで、頑張ってるのに思い通りにならない焦燥感は、身体を丁寧に動かすことでバランスが取れてくる。

好きなものを語れる熱量はサプリや病院の薬よりもよっぽど効果のあるものだ。
しかしある程度コントロールする術を身につけることが大切だ。

アニメや漫画はとてもドラマチックで劇的だ。そんなところに勇気や気づきをもらうことはとても多い。それのおかげで今日も頑張ることができる。

でも自分の人生もそうなるかどうかは話が別だ。
アニメのような劇的さはなくても、目を向ければ結構奇跡の連続で、魔法のような体験をすることも多い。

実は画面の中より目の前の現実の方がよっぽど色鮮やかじゃないかと思う瞬間も多い。しかしそれは日々の地味〜な積み重ねが大事なことも多く、つまらないと感じることもあるかもしれない。

オタクは基本的にスペシャリストが多い。
だから理解されることも少ないし、陰陽でいうところの陰の性質を持つ人が多いから、意識の方向を内に向けるのが得意。
自然と自身の脳内との対話の時間が多くなる。

でも今は、自身の内側にある宇宙をこの世界のルールを利用して表現することで共感が生まれ、思ってもない方向に広がっていく。

人は熱に浮かされて判断を誤るが、熱が無ければ恋をすることすらできない。
俺は熱を愛していると秤金次も言っている。

好きなものがあって、それが何かわかるというのは素晴らしいことだ。
その有り余る熱を使っていければ、人生はきっともっと色鮮やかに拡大していくことと思う。

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