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「0」を創る

先駆者とは「0」→「1」を創る人だと思っていた。

でも「0」とは、「存在しない」ということが「存在している」という前提で「認識できること」だ。

「無い」ということが「在る」ということ。
「無い」ことが「無い」ということは「認識できない」ということだ。

先駆者とは「0」を創ることから始めた人たちのことだと思う。
「そもそもこんなもの世の中にないよね」という「0」を認識することから創造というものは始まる。

「0」→「1」ではなく
「無」→「0」だ。

僕は自分がやっていること、やりたいことはこの「無」→「0」なのではないかと思っている。

僕に限らず、何か新しいことをしたいという人は皆、「無」→「0」を無意識に行おうとしているのではないか。

でも「常識」として何か新しいことをやるときは既にあるものに憧れたり、興味を持って取り組むきっかけを掴む。

「1」→「2」もしくは「0」→「1」というように。
ありふれていたり、なんだかつまらないという感覚はほとんど全てが「1」→「2」であり、たまに「0」→「1」が出てくるという感じなのではと思ってる。

そしてこの「0」→「1」が異様に評価される。
でもその前の「無」→「0」を忘れている。

これは各人が持つ「個性」であり自分を自分たらしめる「重力」なのではないかと思っている。

「無」→「0」に着手するときは「お手本」は存在しない。
全くの手探りで始まる。参考になるものは自分が求めるもののヒント的なものであったり、それに近いことをしている人との出会いなどで少しずつ形になっていく。

とはいえ、生きているうちに完成させたいと願うほど、直感は鈍り強引になる。
自分に与えられた使命なのだから生きているうちに完成させるのが当然だと思い込んでいる。

でも、そもそも自分の役割が「無」を認識して「0」に向かうこと、である可能性もある。「時代」というのは「枠」だ。

肉体という枠の中で何ができるか、したいかを考えるのと同じで時代にはその時代特有の「可能性」と「制限」がある。

この時代における自分という存在の役割ともいうし、
なぜこの時代だったのかという問いにもなる。

自分がやりたいことを探求する中で「師」となる存在がいた方が良いとたくさん聞いてきた。

でもそれは自分とやっていることが同じでその道の先にいる人だからなのか
自分が目指しているぼやっとしたもののヒントがもらえそうな、なんか近いことやってるすごい人なのか

この細かい「意図」が僕にとってはとても重要だった。
なんか権威っぽい人に出会えれば楽ができるという思考だ。

自分で考え、思い悩むことが減ると思っていた。
確かに意固地になるよりは多くの人の意見を取り入れた方が早い。

でもそれは自分の中にどのような信念があるのかを知ることが先だ。

僕にとってのそれは「何がなんでも自分の力で創り、掴み取ること」
自分の人生の舵を自分で取りながら、自ら生み出した重力で多くの人や出来事を引き寄せること。

信念や何がなんでも貫きたい熱というものに気づいて、そこを軸に日々生きていく。これが折れることがあるかもしれないが、それはその時悩めばいいと。

誰も知らない、存在していないことを認識すらしていない。
そういうものを自分独自の感性と嗅覚で掴み、具現化していく。

これは思考ではなく心で気づいて掴むものだ。
既にあるものからヒントをもらい、自分にしか創れないものを創っていく。

明日が来ることを当たり前だと信じて疑わない日常から
今日をなんとか生き延びるという日々にもなる。

生きているうちにそれができるかわからないが、そこはきっと重要じゃない。
やれるところまでやり切って死ぬ前とかにようやく「これが自分の役目だったのか」と気づくのかもしれない。

それまでは色鮮やかに自分なりの色を出して生きていこうと思う。

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