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羅針盤の示す方へ

先日参加したランチ会から「音」という認識が生まれたことで一気に世界が広がったような気がしている。

そこからたった数日で幾つもの気づきが生まれ、なんだどうしたと行った具合に嬉しい悲鳴をあげている。

今回は新たに得られた「音」への認識と、独自の解釈まで落とし込んだ内容をまとめる考察回とする。

先日施術させていただいた方からの感想で「充実している感じ」という言葉をもらった。普通施術といえば「軽くなった」「痛みがない」というような、施術前と比べて「楽になる」という感想が多いはず。

僕自身もそういうものだと思い込んでいたし「それ以外無い」と「信じていた」。というよりそれ以外の感想が出るという感覚が存在していなかった。

まずここで愕然とする。
一体俺はいつから施術の体感が「軽くなる」「痛みが減る」だけだと思っていたのだと。
そうであって欲しいという期待があったのは間違いない、ここの根源は過去の「理解されなかった傷」が視野もアイデアも狭く、小さくしてしまっていたことが原因だ。

感想としては「充実していて、張っている感じがする」とのこと。
ここでピンときたことがある。

その方は自身をどんどん小さくまとめ直すようにより小さい器へと適宜修正していたような心身だった。自らに制限と鎖を設けることで身を守るような、そういう緊急的な措置が必要な心身であった。

これが、施術を受けてもらったことで内的なエネルギーが戻り(膨らみ)始め、本来の容量に戻りつつあるのではないかと思った。

内的な変化に対し肉体は少なからず追いつくのにラグが生まれる(思考の現実化)ため小さくまとめた器(肉体)を圧迫した結果「張っている気がする」という感想になったのではと考察する。

実際に、食事量に対する身体の状態と比較しても、他に回すべきエネルギーがあったような形跡があり、鎖の維持管理のために栄養が回されていた可能性があるのだ。

鎖の維持管理が必要な理由は「気がついたら過去の辛さと向き合わないといけないから」だ。
そうするくらい痛いものなのだ。傷というのは。
そうでもしないといけなかったという事実と、それを抱えながら今日まで生きてくることができた事実に、感謝以外の言葉が出るはずもない。

施術とヒアリングを行ったことでその鎖がゆるみ、本来の形が顔を覗かせたことで一時的に満たされた結果「充実」という表現になったのではと思っている。

これらの考察は、心身の観察とヒアリングによるお客さんの声の感じから「音」を五感で受け取ったことで得られた感想、結果であると思っている。

ここで1つ質問をしよう
「トカゲの尻尾は切ってもどうして元通りになるのか?」

これはトカゲという生き物には専用の「鋳型」があり、その形にそうように身体は形成されている。

つまり傍目には尻尾が切れてなくなっているように見えるが「トカゲ」という生き物の「鋳型」は、「切れてない状態」がデフォルトであるため、切れた分を修正するように「鋳型」の形に戻っていくという話だ。

じゃあ人間はどうなのか?
切れた腕が戻らないのは何故か?

これはひとえに「集合意識」「周波数」「そういう設定」の為せる業らしい。
つまり「戻らないと思っているから戻らない」だ。

おいおいまじかと思った。
それくらい「濃い」現実においてもやはり有効なのかこのルールは!!!
やっぱり思い込みじゃねえか!!

完全にブリーチのグレミィと同じだ。
想像したことが全て創造される能力。
最終的には自身の想像力に負けるというなんともオサレな展開だった。

何もフィクションではない。
人は自分の想像力で自らを生かすことも殺すこともできる。
何を創造するのかは自身が握っているんだというのを引きこもりと自殺未遂で学んだ。

そんなことを考えていたら
ONE PIECEのシルバーズ・レイリーの「疑わないこと、それが強さだ」が
フラッシュバックした。

炎炎ノ消防隊のアーサー・ボイルの「バカすぎて能力の限界がない」を思い出した。疑うことを知らない、ものを知らないということはある意味最強であると思う。

知らぬが仏とはよく言ったが、知らなければ思い悩む必要のないことが今は無限にある。

自分とは全く関係ない土地の犯罪のニュースをみて一体なんになるのか?
それよりも今目の前の朝ごはんを何にするかというのが「生活」であり自身に誠実に生きるということではないのか。

どこまで自分を信じ抜けるか、確信できるか。
自分にとって「これだ!」と思えるものをかき集められるのか。
自分という存在の羅針盤をどれだけ信じて進んでいけるのか。
自分の感覚を無条件に信じるという練習をしているのか。

なんのために勉強するのかと言ったら、誰に何を言われても揺るがないこの想いをより強固に、自分の色にするためにあらゆる知識や情報を集めるのだと思った。

竹内晶貴という「鋳型」に沿うものを探し続けること。
俺はこのために「音」という概念に出会ったのだ。

どういう「鋳型」でいるのかとは
どういう「在り方」でいるのかだ。

周波数というものを軸に展開していくと自身の持つ感覚や信念が全て線で繋がる。

そうだ、俺にとって必要なのは入り口だけだったんだ。
気づきたいこと、求めていること、それら全ては過ごしてきたところに散りばめられていて、しっかり認識している。

でもそれが「音」という鍵を持ったことでより明確に、解像度が上がった状態で「自覚」という形に上がってくる。

なんというシンプル。
なんという心地よさ。

そんな自分をより後押しするように今日、波動スピーカなるものがあってそこから流れる音楽とスピーカなしのタブレットから流れる音楽を比較させてもらった。

波動スピーカは丸く、奥行きがあり、その場にいるような臨場感がある。
タブレットはその形通りに、それよりも薄く、平面的な印象だった。

形状がその物質を表すというのは身体も同じなのかということがこの体験を通して学べた。

やはり形状には「意図」がありそれが意図的にデザインされたのか積み重ねの先の無意識的なものなのかの違いだけなのかもしれない。

とても面白かった。この体験が施術をより味わい深いものにするのにどうやって繋げてやろう。こういうことを考えてるのが本当に楽しい。

どのアニメと漫画を現実的な要素と掛け合わせて生み出してやろうか。

あまり真剣にならず、遊ぶように、自分の心の羅針盤を信じて大海原を航海する。そういう「音」が生まれた時から入っている。

どんな風にこの世界を捉えてやろう。
どうすればもっと施術が面白おかしくなるだろう。

何それ!面白い!意味わかんね!って言われるような、そんなちょっとぶっ飛んだ施術をこれからもっと磨いて突き詰めていく。

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