見出し画像

催馬楽と万葉集

 今回、知っている人は知っていると云う催馬楽を取り上げたいと思います。催馬楽は奈良時代後期から平安時代初頭に興り、平安時代中期以降には今様に取って代わられ衰退し、鎌倉時代までには歌われなくなった宮中歌謡です。お気付きのように、催馬楽と万葉集歌とは同じ時代の同じジャンルの娯楽として、その時代での関係を考えることが必要なものなのです。
 催馬楽と万葉集歌との関係を見る前に、知る人は知ると云うこの催馬楽について説明しますと、ネットでは次のような解説を見ることが出来ます。
 
<催馬楽の解説案内>
(1)
催馬楽(さいばら)は、平安時代に、民間の流行歌や民謡などの詞章を題材に雅楽風の旋律によってつくられました。歌には、現在では笙(しょう)、篳篥(ひちりき)、龍笛(りゅうてき)、琵琶(びわ)、箏(そう)の伴奏が付きます。独唱者の打つ笏拍子(しゃくびょうし)は、歌唱者と伴奏者の間を調整する役割があります。
(2)
催馬楽とは、もともとは庶民達の口ずさむ詩に、貴族達が編曲し、楽器の伴奏を付けたものと言われています。各楽曲の由来は、それぞれいろいろと考えられます。例えばある詩は、天皇の即位の時に今でも行われる「大嘗会」での神事を行う際に撰定される、「悠紀地方・主基地方」の民謡が原点であったり、またある詩は、農民が租税として米や穀類、布、特産物などを運ぶ時に歌った歌や、仕事歌、わらべ歌からきていたりと、楽曲毎に由来はいろいろあるようです。もともと民衆の口づさみから出来ているためか、中国の漢詩にメロディーをのせた「朗詠」とくらべると、催馬楽は詩もメロディーもどこか庶民的な雰囲気で、また力強い印象も受けます。催馬楽は数人のヴォーカリストで歌いますが、冒頭は「句頭」と呼ばれる独唱者のソロで始まり、ワンフレーズを独唱した後に付所で全員で斉唱、楽器の伴奏が加わります。催馬楽の演奏は、現在では笙、篳篥、龍笛、琵琶、箏の伴奏が付きます。また句頭は笏拍子を打ちながら歌います。
(3)
催馬楽は、民間の俚謡や流行歌の類が、貴族の宴席の「歌いもの」にとりいれられたものである。このなかには貴族の新作和歌や新年の賀歌も加わり、また大嘗会の風俗歌がはいっている。室町時代の楽書『體源抄』には「風俗は催馬楽よりは述べて歌うべし」「風俗は拍子あり。多くは催馬楽拍子なり」の記載があり、両者の楽曲の類似性が示唆されるほか、現代に伝わる歌詞の内容もほぼ同類であって、風俗歌と催馬楽とは互いにきわめて近い性質をもっていたと考えられる。ただし、風俗歌が東国を起源とする歌謡であるのに対し、催馬楽はより都に近い地方を発生地とすることが明らかとなっている。
『日本書紀』天武四年(675)条には、大倭、河内、摂津、山背、播磨、淡路、丹波、但馬、近江、若狭、伊勢、美濃、尾張等の諸国から歌を能くする男女が朝廷に貢がれたという記事があり、藤田徳太郎は、これらの国名が催馬楽の歌詞の含む国名とほぼ全て一致していることを指摘している。このことより、古来朝廷との交渉が密であった上記の諸国は一度のみならず風俗歌を奉っていたものと推定され、催馬楽は、このような長く繰り返されてきた慣行ののち、地方出身の歌謡が外来音楽による編曲を受けたものであろうと考えられる。
多様な歌詞内容から考慮して、催馬楽は奈良時代の末から平安時代の初めにかけて発達、成立したものと考えられる。それが宮廷歌謡として雅楽化されたのは平安時代前葉と推定される。
 
以上、催馬楽の解説を三つほど紹介しました。
 解説では研究者が天武天皇に所縁を求める態度から推測しますと、この催馬楽の作品と万葉集に載る歌は、ほぼ、同じ時代に発展整備された詩歌・歌謡であろうと思われます。こうした時、平安初頭期は漢風文化全盛期にあり国風暗黒期であったと称される時代ですが、そのような現代に伝わる作品の数だけに根拠を頼る表面上のことがらだけではなく、歴史の色眼鏡を外し、実態を見詰め直しますと、現代に通じる和風文化の底辺を形作った和歌、催馬楽、神楽歌などの芸能は平安時代初頭の漢風文化全盛期と称される嵯峨天皇から仁明天皇の時代に最初のピークを迎えたと考えられます。良く知られる古今和歌集での第一期の歌人が活躍したのもこの時期ですし、今回、話題にしています催馬楽も第一期の流行期を迎えています。およそ、その背景には国風文化の礎となった嵯峨天皇やその皇后橘嘉智子たちの好みが色濃く反映されているのではないでしょうか。
 その催馬楽の整備伝承では重要な位置にあるとされる広井女王について、ネット検索では次のような解説を見ることが出来ます。
 
<広井女王の解説案内>
天長八年(831)従五位下、尚膳となる。嘉祥三年(850)従四位上、権典侍となる。仁寿四年(854)従三位。天安三年(859)、尚侍となる。同年十月薨去。ときに八十余歳。
薨伝には「少くして徳操を修め、挙動礼あり。歌を能くするを以て称せられ、特に催馬楽歌を善くする。諸大夫及び少年好事の者、多く就きて之を習ふ」とある。また、『和琴血脈』においては、広井女王は嵯峨天皇より伝授され、広井女王から仁明天皇と源信へと伝授されている。『河海抄』においては、嵯峨天皇から広井女王へ和琴の曲が伝授され、一時中絶した後、慈賀善門から仁明天皇と源信に伝承されている。
 
 ところで、一般に和歌は三十一音で表現すると云う音数律などに規定される律文学であり、催馬楽、神楽や今様は楽器の演奏に合わせて歌う自由詩の歌謡だと区分されます。この律文学である「ひらがな表記」の口唱で詠う和歌と歌謡のジャンルに収められる催馬楽が、共にその姿を整えられたのが平安時代初頭期です。
 解説にありますように催馬楽は民衆の鄙歌に雅楽の伴奏曲を添え、音楽性を高めたものを楽奏の下に詠うものです。つまり雅楽という演奏があって初めて存在する歌謡のジャンルです。他方、その雅楽で使う楽器は主に奈良時代に輸入・紹介された楽器であって大和古来の楽器ではありません。奈良時代の文化全般がそうであるように雅楽もまた当初は輸入音楽であって、大和に生きる人々の生活に根差したものではありませんでした。およそ、伝統の民衆の中にある民謡の歌に舶来最先端の楽器演奏が融合した先端の音楽です。
 その雅楽の歴史を探りますと、天平勝宝四年(752)の東大寺大仏開眼法要のおり、国風歌舞の五節舞、久米舞等と共に、外来音楽の唐楽、渤海楽、呉楽等が盛大に演奏されたと伝えます。これら楽曲は雅楽寮に所属する楽士や渡来僧たちにより唐などからの輸入された外国の音楽として忠実に演奏されたと考えられ、まだ、大和のものではありません。
 次に時代が下り弘仁四年(813)頃の記録によると、嵯峨天皇は楽奏での大和人の好みに合う新曲の製作を奨励し、正月の内宴で新作「最涼州」を演奏させ、又、南池院に行幸のときは、御自身が作られたといわれる「鳥向楽」が船楽で奏されたと伝えます。およそ、この頃までに輸入された舶来の音楽を下にした楽曲が日本人の感性やリズムに合わせた和の楽曲へと転換し、出来上がったようです。そして、雅楽の歴史では、この弘仁から承和の時代にかけて、雅楽で演奏される秋風楽・十天楽・賀王恩・承和楽・北庭楽・央宮楽・海青楽・拾翠楽等、現在も伝承されている楽曲が続々と創られたと解説します。
 つまり作品構成からしますと、催馬楽は嵯峨天皇の時代の雅楽の新たな展開に合わせて出来上がった娯楽であり、余興のようなものであったと思われます。大和の国は中国儒教等を背景とする男尊女卑の文化ではなく、母系家族性を背景とするような男女対等の文化です。宮中での宴には皇后を始めとして女御や更衣たち、また、それに従う多くの女性が参集します。そのような宴で押韻・抑揚・リズムの規則や縛りを持つ中国語(それも中国正音の発音)による漢詩朗詠だけで娯楽が成り立つかと云うと、なかなか、そうはいかないと考えます。宴に和歌を添えたとしても、和歌は掛詞や本歌取の技法に添え、時に中国故事や漢語が持つ表語文字の力をも使って詠いますから、判る人には判るという類なものであって、漢詩が選ばれし者たちによる中国語で詠う詩歌と同様に和歌もまた優等な歌人たちだけの日本語で詠う詩歌であったと想像します。
 宴を砕けたものや、寛いだものにするには誰もが簡単に楽しみ理解が出来る催馬楽のような鄙の歌に最新の楽器の伴奏を添え大和のリズムで詠うものが必要だったと想像します。雰囲気として、催馬楽は公式の宴の後の二次会でのものではないでしょうか。このような想像と雅楽や催馬楽の歴史を考えますと、平安時代初頭期の、この時代を国風暗黒期と唱えることはキャッチコピーとしては秀逸ですが、学問的には大和国の文学・歌謡の歴史をまったく理解が出来ていないと云うことを白状しているようなものでしょう。
 さて下らない与太話はさて置き、催馬楽の歌詞を紹介します。本来は楽奏が必要ですが、諸般の事情にて歌詞のみでの紹介となります。なお、歌は清音表記による「ひらがな歌」で紹介し、近代の「漢字ひらがな交じり歌」ではありません。当然、清音表記による「ひらがな歌」の場合は古今和歌集の歌と同じように同音異義語などで解釈の幅は大きく広がります。
 
催馬楽 我駒
いてあかこま はやくいきこせ まつちやま まつちやま
まつちやま まつらむひとを いきてはや いきてはやみむ
標準的な口語訳
さあ私の馬よ 早く歩み行き峠を越してくれ 真土山を 真土山を
真土山の その向こうで待っているだろう人に 行って早く 行って早く会おう
 
同様歌 万葉集巻十二 歌番3154
原文 乞吾駒 早去欲 亦打山 将待妹乎 去而速見牟
訓読 いで吾駒早く行きこそ真土山待つらむ妹を行きに早見む
私訳 さあ、私の馬よ。早く行ってほしい。真土山の名前のように、私を待っている愛しい貴女を、帰り行って早く会いたい。
 
催馬楽 妹之門
いもかかと せなかかと いきすきかねてや
あかいかは ひちかさの ひちかさの あめもや ふらなむ
してたをさ あまやとり かさやとり やとりてまからむ してたをさ
標準的な口語訳
愛しいあの娘の家の門でしょうか 愛する男の家の門でしょうか その前を通り過ぎることは出来ないよ
私がその家の門を行くならば ちょっと肘を笠にする ちょっと肘を笠にする そのようなにわか雨でも降って欲しいよ
幣垂の田長よ 雨が降る間の雨宿りだ 笠がわりの雨宿りだ 雨がやむまで休んで出かけよう 幣垂の田長よ

同様歌 万葉集 歌番2685
原文 妹門 去過不勝都 久方乃 雨毛零奴可 其乎因将為
訓読 妹し門(かど)去(い)き過ぎかねつひさかたの雨も降らぬかそを因(よし)にせむ
私訳 愛しい貴女の家の門を行き過ぎることが出来ず、遥か彼方の大空から雨も降って来ないだろうか。それを言い訳にしたいものです。
 
催馬楽 甲斐が嶺
かいかみねに、しろきはゆきかや、いなをさの、
かいのけころもや、さらすてつくりや、さらすてつくり。
標準的な口語訳
甲斐の嶺に見える白いのは雪でしょうか、いいえ、違います。
甲斐の褻(け)の普段着の布、その布を晒す作業です、その布を晒す作業です。

同様歌 万葉集 集歌3351
原文 筑波祢尓 由伎可母布良留 伊奈乎可母 加奈思吉兒呂我 尓努保佐流可母
訓読 筑波嶺に雪かも降らる否をかも愛(かな)しき児ろが布(にの)乾(ほ)さるかも
私訳 筑波の嶺に雪が降ったのでしょうか。違うのでしょうか。愛しい貴女が布を乾かしているのでしょうか。

同様歌の類型歌 万葉集 集歌28
原文 春過而 夏来良之 白妙能 衣乾有 天之香来山
訓読 春過ぎて夏来るらし白栲の衣乾したり天の香来山
 
 催馬楽と万葉集を比較してみれば一目ですが、民衆の鄙歌に対し洗練された貴族のものと云う雰囲気があります。また、歌の変遷を想像しますと、最初に催馬楽の原歌となった鄙歌があり、次にそれが万葉集での題材として使用され形式美を持つ和歌となり詠われ、一方、別の方向として鄙歌に雅楽の伴奏が付き、ある種、流行歌として催馬楽の楽曲になったと考えられます。
 先に一般にされる解説文を載せましたが、催馬楽は笙、篳篥、龍笛、琵琶、箏(又は和琴)などの楽器伴奏が付くと云う特徴があり、楽しむにはある程度の支度や場面が必要なものです。従いまして、催馬楽が生まれるには雅楽の楽団を保持するような大貴族が個人の好みで鄙歌を採り、それに専門の楽士により楽曲を付けさせると云う作業が必要となります。確かに鄙歌が母体ですが、雅楽の伴奏が必要と云う時点で、大がかりで専門的なものにならざるを得ないことになります。そして、さらに催馬楽が時代に残るには、その作品は流行歌的なものですが時代を超えるだけの普遍性を持つ秀逸な作品であることが求められます。そうしたものだけが生き残ると云うことになります。
 以上、概説を紹介してきましたが、万葉集は嵯峨天皇の時代に古万葉集歌群の中から秀逸な短歌が選ばれ四巻本万葉集が選集されたのと同じ姿で、催馬楽もまた、国風暗黒時代と称される嵯峨天皇から仁明天皇の時代に都人の好みに合う鄙歌が採られ、それに雅楽が作曲・付与されたと考えられます。こうしますと、嵯峨天皇の時代とは、国風文化への視線からすると実に不思議な時代です。
 ただし先に紹介しましたように、催馬楽は雅楽の楽団を必要とする芸能です。その大仰な舞台装置が必要と云う弱点からか、平安時代中期以前に衰退を始め、今様というものに取って代わられてしまいます。その平安中期以前に、催馬楽に取って代わった今様は次のように解説され、扇や笏での手拍子で調子を取ることも可能な音曲を伴う歌謡です。そしてその付帯する音曲も場面に左右されることなく簡便に行うことを許し、扇や笏による手拍子や口ずさみでも行えるものです。また、内実において、他人に披露する和歌には論理的な思索が求められますが、今様では披露するものとしても即興や座興で「今」を詠うものですから論理より情理であり、口調が大切です。しかしながら、「今」を詠う点から催馬楽の鄙歌の歌詞より、詠われる内容や口調が貴族好みとなっています。その為か、催馬楽から今様への変化は催馬楽が全盛期に達した途端となる平安中期以前に早くも生じたのでしょう。
 
<今様の解説紹介>
主に七五調四句の形をとり,当時は長いくせのある曲調が特徴と感じられたようです。扇や鼓などで拍子をとる場合や楽器の演奏をともなう場合もあり,また即興で歌ったり,歌詞を歌い替えたりすることもありました。
 
今様の歌の例:
花の都を振り捨てて くれくれ参るはおぼろけか 
かつは権現(ごんげん)御覧ぜよ 青蓮(じょれん)の眼(まなこ)をあざやかに
 
遊びせむとや生まれけむ 戯(たぶ)れせむとや生まれけむ
遊ぶ子供の声聞けば 我が身さえこそ揺(ゆ)るがるれ
 
 今様は基本的に和歌とは違い催馬楽と同じ鄙歌であって下々のものです。出家し貴族階級から解脱した法皇や貴族が今様を男装した巫女に奏上を求めると、演者は後の白拍子と云うものになります。その今様は紹介しましたように七五調で歌が進行します。一方、万葉歌は主に五七調で進行をします。いつの時代でしょうか、このように人々のリズム観は変化したようです。当然、万葉集の歌に七五調好みの人が訓点を付ければ、そのリズム感の相違と云う影響を避けることは難しいのではないでしょうか。その万葉集に新点が付けられたのはこの七五調好みの今様全盛期の平安末期から鎌倉時代初めです。なお、そのリズムの変化が生じたのが下々の庶民からなのか、それとも上流貴族階級からなのかは、難しいところです。そして、御存知のように七五調と五七調では歌の句切れの位置が変わりますし、訓読みにおいて句切れの位置変化があれば語訳が変わるはずです。
 
柿本人麻呂の従石見國別妻上来時謌より抜粋
つのさはふ 石見し海の 言(こと)さへく 辛(から)の崎なる 海石(いくり)にぞ 深海松(ふかみる)生(お)ふる 荒礒(ありそ)にぞ 玉藻は生ふる 玉藻なす 靡き寝し子を 深海松の 深めて思へど
 
 今回もまた、催馬楽と催馬楽から今様へについてのものが取りとめの無い話となりました。知っている人は知っていると云う話題を提供しましたが、ただ、色眼鏡を外して専門家が説明する解説を味わうと、その解説は時に結構いい加減ですし、おかしなものもあるのではと疑問を持つことがあります。また、万葉集を鑑賞する時、催馬楽と万葉集歌とのリズム感の比較と階級性についての研究、五七調から七五調への変化と階級構成人の変遷など、まだまだ、研究すべきことは多いようです。現代日本人は飛鳥時代から平安時代まで貴族階級を構成する出身人種には変化がないことを前提にしていますが、はたして、それでいいのでしょうか。色々、考えさせられます。
 おまけとして、先に催馬楽と和歌の関係で万葉集の集歌28の「春過ぎて夏来るらし白栲の衣乾したり天の香来山」の和歌を紹介しましたが、催馬楽の「甲斐が嶺」と万葉集の集歌3351の歌が見立て技法の歌としますと、当然、集歌28の歌も見立て技法の歌と考えるべきものとなります。まぁ、この問題を指摘すると教科書古典に問題が生じますから無いことにしておくのが良いようです。
 およそ唐以降の近代漢詩の鑑賞には押韻・抑揚・リズムの規則を理解する必要があるようです。さて、ご存知のように中国の人々は時代により北方、南方、西方など人種の入れ替わりが大きく、使う文字と文法が同じでも発声や文字の意味は日本に古音・呉音・正音が存在するように変化しています。従いまして秦・漢系、呉・晋系や隋・唐系の漢詩では鑑賞態度を同一とすることは難しいと想像します。
 このような視点を持ちますと、嵯峨天皇の父親である桓武天皇は宮中で育った人ではありません。官人として出仕するまで、諸王の一人として百済系の人々の生活の中で育った人です。一方、御子である平城天皇や嵯峨天皇は宮中で幼少期を過ごした人ではありませんが母系は阿部氏ですので、壬生の風習から倭の古豪の文化を受け継いだと考えられます。幼少から青年期までの生活環境が人格や好みに大きな影響を与えるとしますと、桓武天皇と平城天皇や嵯峨天皇とは相当に違う生活環境にあったと考えられますので、その影響は無視できないのではないでしょうか。ちなみに桓武天皇の生い立ちは特異ですが、それ以外の天皇は大和氏族の文化の中で養育されたと考えられています。
 さてはて、国風文化の礎となった嵯峨天皇はどのような好みの文化人だったのでしょうか。
 なお、老婆心で将来のある高校生や大学生は私の戯言を信じないでください。ほぼ、従来の正論に疑義を呈していますから身を滅ぼします。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?