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万葉集 額田王とその時代を考える

 万葉集を紹介する本を読むとき、不思議な解説があります。それは、万葉集の歌が標題と歌がセットで同時に造られたとの前提条件で解説し、さらにそれを前提で論説を展開するものがあることです。ところが、万葉集の大伴家持に関係する歌日記等の特殊な歌以外は、万葉集と言う歌集の目次となる「目録」、歌の状況を解説する「標題」、「歌」、標題以外となる解説をします「左注」はそれぞれ独立したものです。本来は、最初に歌があり、歌集編纂の時点で歌に標題と左注が付けられ、最後に歌集の目次となる目録が創られることになります。ただ、古今和歌集以降の和歌集では編纂時点で詞書と言う歌の状況を解説する標題と和歌本体を一つの組み合わせとしています。逆に一部の宴会や行事で詠われた和歌では詞書と和歌とを分離すると、歌単独では内容が不明となり歌自体が成立しないものがあります。しかしながら、万葉集というものは、古今和歌集編纂以前のものであって、歌の状況を解説する標題と歌がもともと一体かどうかは保証されていないのです。しかしながら、現代に伝わる万葉集では、後年の万葉集の編纂の時に創られた標題や左注に対しても、後に書き入れられた説明などが元からの地文と同等に扱われているものが存在することが推定されます。ここでの与太話では、標題と歌が一体かどうかは保証されていないことを前提に標題の表記法を下にその歌の作られた年代や作歌者を推定するような特殊な推定は行いません。
 ここで話題とします額田王について、百済系渡来人の氏族長の一員である「王(きし)」の肩書を持つ人物である可能性を排除しません。つまり、「王」の呼称から直ちに皇族の女王とは規定しませんから、時には皇族の従者となる立場も認める立場です。補足参考として、山上憶良の姓には「臣」と「巨」との異なる表記があり、山上臣憶良と山上巨憶良との区別があります。この「巨」は渡来系の族長の意味合いの「巨頭」であり、「王(きし)」に近いものがあり、「臣」は大和朝廷から姓を頂いたとの意味があります。飛鳥・奈良時代、渡来系の人々が活躍する時代でもありますから、現代的な感覚で解釈することが正しいか、難しいものがあります。
 さらに、養老律令以降の正史では、従来の皇族の皇子・皇女の敬称を王と変更したために、五世までの皇族の諸王や帰化王族の人々や皇族との区別がつかないことになりました。そのため、王の表記に、みこ、おほきみ、きみ、きし、などの複数の読みが存在することになりました。ですから、「鏡王女額田姫王」は「かがみのきしのむすめのぬかだのひめきし」、「額田王」は「ぬかだのきし」と呼び習わしていた可能性もあるのです。奈良時代、平城京の朝廷での五位以上の高級官僚は約150人程度です。そのため、「王」と表記しても当時の人々は確実に間違えることなく、みこ、おほきみ、きみ、きし、などと区別して読むことに支障はありません。ただ、現代人には難しい問題です。
 なお、ここでは万葉集の額田王と日本書紀の鏡王女や額田姫王とは、同一人物と仮定します。

<身分の推定>
 それでは、額田王を万葉集の歌から、その身分と居住地について見て行きたいと思います。

標題 額田王下近江國時作謌、井戸王即和謌
標訓 額田王の近江國に下りし時に作れる歌、井戸王の即ち和(こた)へる歌集歌17
原文 味酒 三輪乃山 青丹吉 奈良能山乃 山際 伊隠萬代 道隈 伊積流萬代尓 委曲毛 見管行武雄 數々毛 見放武八萬雄 情無 雲乃 隠障倍之也
訓読 味酒(うまさけ) 三輪の山 青(あを)丹(に)よし 奈良の山の 山の際(は)に い隠(かく)るまで 道の隈(くま) い積もるまでに 委(つば)らにも 見つつ行かむを しばしばも 見(み)放(は)けむ山を 情(こころ)なく 雲の 隠さふべしや
私訳 味酒の三輪の山が、青丹も美しい奈良の山の山の際に隠れるまで、幾重にも道の曲がりを折り重ねるまで、しみじみと見つづけて行こう。幾度も見晴らしたい山を、情けなく雲が隠すべきでしょうか。

反謌
集歌18
原文 三輪山乎 然毛隠賀 雲谷裳 情有南畝 可苦佐布倍思哉
訓読 三輪山をしかも隠すか雲だにも情(こころ)あらなも隠さふべしや
私訳 三輪山をこのように隠すのでしょうか。雲としても、もし、情け心があれば隠すでしょうか。
左注 右二首謌、山上憶良大夫類聚歌林曰、遷都近江國時、御覧三輪山御謌焉。日本書紀曰、六年丙寅春三月辛酉朔己卯、遷都于近江。
注訓 右の二首の歌は、山上憶良大夫の類聚歌林に曰はく「都を近江國に遷す時に、三輪山を御覧(みそなは)す御歌なり」といへり。日本書紀に曰はく「六年丙寅の春三月辛酉の朔の己卯に、都を近江に遷す」といへり。

集歌19
原文 綜麻形乃 林始乃 狭野榛能 衣尓著成 目尓都久和我勢
訓読 綜麻形(へそがた)の林のさきの狭野(さの)榛(はり)の衣(ころも)に著(つ)く成(な)す目につく吾(わ)が背
私訳 綜麻形の林のはずれの小さな野にある榛を衣に摺り著け、身に着けて、私の目に相応しく見えます。私が従う貴女は。
左注 右一首謌、今案不似和謌。但、舊本載于此次。故以猶載焉。
注訓 右の一首の歌は、今案(かむ)がふるに和ふる歌に似はず。但し、旧本には此の次に載す。故に以つてなお載す。

 額田王の人物を考えるに集歌19の歌は非常に重要なものです。その重要性とは、この歌の「狭野榛能衣尓著成」の詞にあります。これを「狭野の榛の衣に著け成す」と訓読みしたとき、「著」の漢字の意味がキーポイントです。「付着させる」と理解すると衣は榛の葉の摺り染めされた神御衣となりますし、「身に着ける」と理解すると衣は榛で染めた黒味かかった濃い緑の衣を意味します。ここで、遷都と云う公の行列での黒味かかった濃い緑の衣は、孝徳天皇の大化三年の七色の十三階の冠の制度からすると大・小黒冠(七位・八位)の官位に相当します。私は「著」の漢字の意味を「付着させる」と理解して、井戸王が詠った相手が着ていた衣を神御衣と解釈します。
 ここで、集歌17と18の歌を見てみますと、歌は近江遷都への行幸の途中で大和盆地全域を見渡せる奈良の平城山付近の峠から、今来た方角を振り返り、大和国との別れの歌です。すると、歌は遷都の行幸で通過する国境での歌ですから、なんらかの神事に関係すると考えて良いのではないでしょうか。つまり、集歌19の歌とは、国境での神事での着ている神御衣が映える姿を誉める歌です。それで、「井戸王即和謌」の標題が付くのでしょうし、それで標題と歌の意味が呼応します。
 そして、その集歌17の歌の標題に従うと、神御衣を着て神事に従事する額田王は、近江宮への遷都のときに井戸王と云う従者を引き連れていることになります。これは、ちょうど、推古天皇の近習の栗下女王が栗隅采女黒女や女孺鮪女達の采女団を率いていたのと同じような風景です。

日本書紀 推古天皇三六年(628)九月の記事より
原文 吾聞天皇臥病、而馳上之侍于門下。時中臣連弥気自禁省出之曰。天皇命以喚之。則参進向于閤門。亦栗隈釆女黒女迎於庭中引入大殿。於是、近習者栗下女王為首、女孺鮪女等八人、并数十人、侍於天皇之側
訓読 吾(おのれ)、天皇(すめらみこと)の臥病(みやまひ)したまふと聞(うけたまは)りて、馳上(まうのぼ)りて門下(みかきもと)に侍りき。時に中臣連弥気、禁省(みやのうち)より出でて曰さく「天皇の命(おほみこと)を以つて喚す」とまうす。則ち参進(もうすす)みて閤門(うちつみかど)に向づ。亦(また)栗隈(くるくまの)釆女(うねめ)黒女(くろめ)、庭中(おほば)に迎へて、大殿に引て入る。是に、近習者栗下(くりもとの)女王(ひめみこ)を首(このかみ)として、女孺(めのわらは)鮪女(しびめ)等八人、并て数十人、天皇之側(おほみもと)に侍りき。

 このように見てみますと、額田王は宮中神事祭祀に関係する「本来の采女」であった可能性があります。本来の采女は、飛鳥坐神社の御田祭に見られるように神婚儀礼を含む神事を行うために後年の「植女」と混同されたため誤解されていますが、その神婚儀礼に関係して天皇の重大な即位の大礼である大嘗宮で御衾の介添えを行う重要な役職です。斉明天皇時代の額田王の姿を含め、天皇の側で神事祭祀に従事する「本来の采女」と解釈するのが、額田王を良く理解できるのではないでしょうか。
 さて、集歌17の歌は、三輪山近辺を行幸の出発点として奈良の平城山付近の峠で、大和盆地を振り返り、大和国との別れの歌を詠うものですから、神御衣を着て神事に従事する立場上、額田王は倭の関係者でよそ者ではありません。つまり、倭での額田王の館は三輪山付近にあったものと思われます。もし、ここで額田王の倭での館が三輪山付近にあったとすると、その館の場所はもう少し絞れてきます。
 少し寄り道をして、新撰姓氏録に載る石上神社祠官家の祖先に当たる布瑠宿禰の由来について、紹介したいと思います。

原文 男木事命。男市川臣。大鷦鷯天皇御世、達倭賀布都努斯神社於石上御布瑠村高庭之地。以市川臣為神主。四世孫、額田臣・武蔵臣。斉明天皇御世。宗我蝦夷大臣、号武蔵臣物部首并神主首。因失臣姓為物部首。男正五位上日向、天武天皇御世、依社地名改布瑠宿禰姓。日向三世孫邑智等也。
訓読 男(をのこ)、木事(こごとの)命(みこと)。男(をのこ)、市川(いちかはの)臣(おみ)。大鷦鷯(おほさざきの)天皇(すめらみこと)の御世に、倭(やまと)に達(い)でまして布都努斯(ふつぬしの)神社(かみのやしろ)を石上(いそのかみ)の御布瑠(みふる)村(むら)の高庭の地に賀(いは)ひまつりて、市川臣を以て神主と為(な)したまふ。四世の孫に、額田(ぬかたの)臣(おみ)と武蔵(むさしの)臣(おみ)あり。斉明天皇の御世に、宗我蝦夷(そがのえみしの)大臣(おほおみ)、号(な)づけて武蔵臣を物部(もののべの)首(おびと)とし、并(あは)せて神主(かむぬしの)首(おびと)とせり。これによりて臣(おみ)の姓(かばね)を失ひて、物部(もののべの)首(おびと)と為(な)れり。男(をのこ)、正五位上日向(ひむか)ありて、天武天皇の御世に、社(やしろ)の地の名に依りて布瑠(ふるの)宿禰(すくね)の姓(かばね)に改(あらた)めむ。日向の三世の孫は邑智(むち)等(ら)なり。

 ここから天武天皇の時代の石上神社の神主である布瑠宿禰邑智から三代遡ると額田臣(この臣は「さん」に近い敬称)と武蔵臣との兄弟が布瑠村に住んでいたことが判かります。推定で、弟の武蔵臣が後の布留宿禰に繋がる人物ですから、彼の本拠は大和の布留山から国見山の裾野一帯を支配し、兄の額田臣が大和の中心地に近い布留山から穴師山の裾野一帯を生活の基盤にしたのではないでしょうか。石上神社の神主の布瑠宿禰は大春日臣に繋がる大和の氏族ですから、その先祖である額田臣は大和支配者階級に当たります。つまり、額田部は額田臣の配下に入る部民です。
 もし、額田王の本来の表記が額田部王としますと、額田王は皇女ではありませんから「額田」の名の由来は養育氏族の名ではありませんし、額田王は女性ですから、その額田王は本名ではなく出身地の名に由来していると思います。ここから、額田王の里は布留山から穴師山の裾野一帯、穴師川の流域とする推測が生まれます。これですと若い大海人皇子が明日香の屋敷からなら5km程度の距離ですから額田王の許へ、夜な夜な妻問いすることも可能ではないでしょうか。
 ただ、良くある地名探しから額田王の里を推定する場合は、畿内だけでも額田宿禰、額田首、額田臣、額田部宿禰、額田部、額田部湯坐連など、「額田王の故郷探しの旅」への参加を希望する一族が多数になり、大変だと思います。通常、額田王の故郷探しの研究者は、それぞれの好みで地名を取り上げて、他の候補地は紹介もしないのがルールです。そこでそのルールに従い、私は一番血筋の良さそうなものをここでは狙い打ちしました。
 なお、「額田王の故郷探し」での地名探しで、これらの氏族の拠点や関係地を全て網羅して検討したものは、まだ、無いようです。さらに、渡来系の鏡王の本拠の伝承は飛鳥時代までの渡来系の方々の居住地域からすると滋賀県野洲市ぐらいは検討範囲ですから、もし、「額田」に関わる地名探しなら額田王もそれぐらいに範囲を広げる必要があるはずです。さらに、「額田」が「ぬかる田」に由来しますと、現在の地名で深田や沼田等の地名も「額田」の関係地名になります。つまり、現存する地名からのアプローチでは額田王の故郷探しは非常に困難です。
 ただし、額田王の故郷探しで忘れてはいけない重要な基本ルールは、大海人皇子が一夜の内に額田姫王の許に妻問いが出来る範囲内か、どうかです。当時、大海人皇子は飛鳥の海柘榴市、阿倍、明日香付近のどこかに屋敷があったでしょうから、そこからの妻問いが可能な位置が検討範囲です。
 参考に示した集歌19の歌の左注は、本来の采女が榛の摺り染め衣の神御衣を着て神事に従事する風習をすでに失くした延喜二年(902)頃に紀貫之によって書き加えられたものと推測されます。従いまして、万葉集の専門家が、「狭野の榛の衣に著け成す」の詞から「榛の摺りの神御衣」の可能性を思い当たらなくても、それはそれで仕方がないと思います。

<額田王の生年を考える>
 やはり、額田王は謎の人物ですが、次の歌から或る程度の年齢が推定できそうです。この歌を詠ったときを二十歳ぐらいと想定しますと、額田王は舒明五年(633)頃に誕生したことになります。
 さて、万葉好きの素人考えではありますが、次の歌を見てみます。

標題 明日香川原宮御宇天皇代 (天豊財重日足姫天皇)
標題 額田王謌 未詳
標訓 額田王の歌 未だ詳かならず
集歌7
原文 金野乃 美草苅葺 屋杼礼里之 兎道乃宮子能 借五百礒所念
訓読 秋の野のみ草刈り葺(ふ)き宿(やど)れりし宇治の京(みやこ)の仮廬(かりほ)し念(おも)ほゆ
左注 右、檢山上憶良大夫類聚歌林曰、一書戊申年幸比良宮大御謌。但、紀曰、五年春、正月己卯朔辛巳、天皇、至自紀温湯。三月戊寅朔、天皇幸吉野宮而肆宴焉。庚辰日、天皇幸近江之平浦。
注訓 右は、山上憶良大夫の類聚歌林を検むに曰はく「一書に『戊申の年の比良の宮に幸すときの大御歌なり』といふ」といへり。ただし、紀に曰く「五年の春、正月己卯の朔の辛巳に、天皇、紀温湯(きのゆ)より至(かへ)ります。三月戊寅の朔に、天皇の吉野の宮に幸(いでま)して肆宴(とよのほあかり)したまふ。庚辰の日に、天皇、近江の平浦に幸(いでま)す」といへり。

 この歌の標題では「明日香川原宮御宇天皇代」となっていますから、標題に信頼性があるのなら明日香川原宮(655-656)の斉明天皇時代となります。ただし、歌の左注の山上憶良の類聚歌林に記す暦の「戊申」は、648年の孝徳天皇の大化四年に相当します。ところが、同じ左注に対応する日本書紀の記事では斉明天皇の近江の平浦への御幸は斉明五年三月(659)となっていますので、歌が詠う季節である「秋の情景」に合いません。集歌7の歌の内容、左注に示す類聚歌林による年号、日本書紀に載る平浦への御幸が、それぞれの辻褄が合わないのです。そこで、普段の万葉集の解説では、詞書での「未詳」を歌が詠われた時が不明として、解釈し説明します。
 ここで、もう一度、左注の「一書には戊申の年の比良宮に幸す」について考えてみたいと思います。ここで、「戊申の年」の年号に注目すると、和銅元年(708)戊申の年の九月に元明天皇は山背国相楽郡(京都府木津川市)の岡田の離宮に御幸されています。場合によっては、山上憶良は類聚歌林で「ある本の記事では」と同じ方面への元明天皇の御幸を紹介した可能性はあります。この場合、偶然に集歌7の歌の内容と元明天皇の御幸とは、その場所も季節も一致します。さらに、歌の歌詞と同じように元明天皇の岡田の離宮への御幸で行宮を建てたことも続日本紀から確認できます。なお、普段の解説のように比良宮を平浦と読み換えることが可能なら、「比」の漢字にある「なら-ふ」の読みを取り比良宮(ならのみや)と読むことも可能です。すると、左注は二つの記事と考えることが出来ますし、左注-2は歌の内容が判らなくなった時代での追記の可能性があります。

左注-1
原文 右、檢山上憶良大夫類聚歌林曰、一書戊申年幸比良宮大御謌。
左注-2
原文 但、紀曰、五年春、正月己卯朔辛巳、天皇、至自紀温湯。三月戊寅朔、天皇幸吉野宮而肆宴焉。庚辰日、天皇幸近江之平浦。

 すると、困ったことが生じます。皇極天皇から斉明天皇の時代で宇治方面に宮を建てたのは、孝徳天皇の白雉四年秋(653)、山背国の山碕(やまさき)の宮だけなのです。日本書紀の記事から拡大解釈しますと、先の皇極天皇は白雉四年秋に現天皇である孝徳天皇を難波宮に置き去りにして、倭飛鳥河辺行宮に移られ斉明天皇として朝廷を開かれています。つまり、日本書紀での白雉四年秋を斉明即位前紀と見做すことも可能ですから、集歌7の歌は斉明即位前紀としての白雉四年秋の歌と推定することも可能ではないでしょうか。
 ここで、最初の額田王の年齢推定に戻ります。額田王がこの歌を詠った時は、斉明天皇の歌を代作するような従者です。裳儀を済ませたばかりの少女の十三歳位ではなく、ある程度の身分の宮中の女性として二十歳ぐらいと想像しますと、白雉四年から逆算して舒明五年(633)頃の誕生の推定が出てくるわけです。そして、倭を里とする額田王に白雉四年(653)秋の倭飛鳥河辺行宮への遷都で、大海人皇子と出会いがあり十市皇女を生んだとしますと、十市皇女は白雉五年(654)頃の生まれとなります。この推定では、天智十年(671)の時点では十市皇女は十八歳となります。懐風藻の記事では、十市皇女の夫である大友皇子が天武元年(672)七月に二十五歳ですから、ほぼ、バランスは取れています。
 なお、額田王は大和の和珥一族の支流の春日臣に連なる布留の一族に関わるとすると、大海人皇子とは同じ神々を祀る同祖関係が成り立ちます。そこから、額田王は同祖の大海人皇子の袴着の添臥の立場だったとの考えもありますから、この場合は、大海人皇子が白雉四年(653)秋に十四歳位としますと、舒明十二年(640)の生まれと推定されてきます。その添臥として7歳ほどの年上となる額田王の年齢ともバランスします。もし、大海人皇子が舒明十二年の生まれとしますと、奇しくも伝承での有馬皇子と同年の異母兄弟になります。偶然ですが、この大海人皇子が舒明十二年の生まれの推定は興福寺略年代記の記事に似合うようです。行ったり来たりしますが、額田王は舒明五年(633)頃の生まれ、大海人皇子は舒明十二年(640)頃の生まれで、十市皇女は大海人皇子の袴着の儀式での御子との推定が可能です。

 <紀温泉の歌>
 先に額田王の生年と故郷を推測しました。ここでは、斉明天皇の時代の額田王の周囲を見て行きたいと思っています。
注:集歌10から12までの歌は、本来は民謡としての伝承歌だったと思われますので、本来の意訳を行うと非常に卑猥なものになります。それで意訳紹介は割愛させていただきます。

標題 幸于紀温泉之時、額田王作謌
標訓 紀温泉に幸ましし時に、額田王の作れる歌
集歌9
原文 莫囂圓隣之 大相七兄爪謁氣 吾瀬子之 射立為兼 五可新何本
訓読 穏(しづ)まりし浦波(うらなみ)騒(さゑ)く吾(あ)が背子がい立たせりけむ厳橿(いつかし)が本(もと)

標題 中皇命、徃于紀温泉之時御謌
標訓 中皇命の、紀温泉より徃へりましし時の御歌
集歌10
原文 君之齒母 吾代毛所知哉 磐代乃 岡之草根乎 去来結手名
訓読 君が代も吾が代も知るや磐代(いはしろ)の岡の草根(くさね)をいざ結びてな

集歌11
原文 吾勢子波 借廬作良須 草無者 小松下乃 草乎苅核
訓読 吾が背子は仮廬(かりほ)作らす草(くさ)無くは小松が下の草を刈らさね

集歌12
原文 吾欲之 野嶋波見世追 底深伎 阿胡根能浦乃 珠曽不拾
訓読 吾(あ)が欲(ほ)りし野島は見せつ底(そこ)深き阿胡根(あこね)の浦の珠ぞ拾(ひり)はぬ
左注 右、檢山上憶良大夫類聚歌林曰、天皇御製謌云々。
注訓 右は、山上憶良大夫の類聚歌林を檢がふるに曰はく「天皇の御製の謌、云々」といへり。

 さて、この集歌9の歌は、いつ詠われたのでしょうか。日本書紀の記事では、斉明四年(658)十月十五日に紀伊国の牟漏の温(ゆ)へ斉明天皇は御幸を行っていますから、十月二十日頃以降の歌でしょうか。ここで、注目したいのは、この斉明天皇の紀温泉への御幸において、先の孝徳天皇の御子である有間皇子が反逆の疑いで十一月十一日に処刑されています。日本書紀の記事によると、紀温泉への御幸では道中で天皇は同年五月に亡くなられた孫の建王を思い出して、悲嘆の歌を詠われていますし、それを追うような有間皇子の反逆の発生です。しかし、万葉集に載る歌自体は、未亡人である中皇命が詠うとすると非常に性的で卑猥な歌ですから、素人が単純に歴史や時代背景から見ると、びっくりしてしまいます。
 このような背景や歴史は棚上げして、最初に、未だ定訓の無いとされる集歌9の歌から見ていきます。

集歌9
原文 莫囂圓隣之 大相七兄爪謁氣 吾瀬子之 射立為兼 五可新何本
訓読 染(そ)まりなし御備(おそな)え副(そ)えき吾(あ)が背子し致(いた)ちししけむ厳橿(いつかし)が本(もと)
私訳 一点の穢れなき白栲の布を奉幣に副えました。吾らがお慕いする君が、梓弓が立てる音の中、その奉幣をいたしました。大和の橿原宮の元宮であります、この熊野速玉大社を建てられた大王(=神武天皇)よ。

 定訓が定まっていませんから、ある程度、自由に解釈しても良いと勝手に解釈して、天皇が紀国の温泉に御幸された折に、神武天皇ゆかりの熊野速玉神社を参詣されたと想定しています。この歌の背景を日本書紀の神武天皇紀に求めましたから、標題の「幸于紀温泉之時」の温泉は、牟漏の那智湾付近(現在の勝浦温泉磯の湯)ではないかと想定しました。これは、ちょうど、柿本人麻呂の集歌496の歌から推定される持統四年九月の紀伊御幸と同じ場所になります。
 この御幸では中皇命が主体ですから、当然、御幸の主人公は女性天皇です。女性天皇が皇祖である神武天皇を敬って「吾が背子が」の表記になったと思っています。女性天皇が神武天皇ゆかりの熊野速玉神社への参詣の風景を想い浮かべれば、それほど見当違いではないでしょう。古事記や日本書紀から推定すると、神武天皇は神話ではこの熊野速玉神社付近に行宮を建て滞在されて劣勢の兵力を立て直した後に、熊野・伊勢豪族を連合して鳥羽・伊勢多気・奥津・御杖と反時計回りに進軍され、最後に兎田野の芳野川最上流部から大和の宇陀・倭へと行軍されたようです。従って、橿の原を切り開いて建てられた橿原宮以外に神武東征の過程で、畿内で長期に滞在されたのは熊野村の行宮だけですし、この熊野が畿内平定の出発点になります。それで、熊野村の行宮を「橿原宮の本の宮」と解釈しています。
 斉明天皇は斉明四年十月十五日から斉明五年正月三日まで紀温泉へ御幸されていたことになっていますから、紀温泉に長期滞在用の行宮が建てられていたと思われます。すると、日本書紀の意図する記事からは、常識的には集歌9から12までの歌は、紀温泉の行宮で行われた宴会での歌なのでしょう。ただし、日本書紀の斉明天皇紀は、多くの記事の内容に乱れがあることが指摘されていますから、どこまで信頼できるかは不明です。この御幸の最中の十一月五日の夜に先の天皇の御子である有間皇子と畿内の有力豪族である蘇我臣や阿倍臣が関係する反乱が発覚したことになっているのに、なぜ、斉明天皇一行は紀温泉から直ちに帰還しなかったのでしょうか。それとも、皇太子が大和で統治をしていたから、斉明天皇一行は大和に帰還する必要がなかったのでしょうか。つまり、「天皇は、君臨すれども統治せず」だったのでしょうか。それならば、万葉集の標の中皇命の意味合いが理解できます。
 ところで、集歌10から12までの歌の、その「中皇命」とは誰でしょうか。孝徳天皇の皇后である間人皇女でしょうか、それとも、舒明天皇の皇后である宝皇女(皇極・斉明天皇)でしょうか。孝徳天皇が正式な大嘗祭を経ていたとするならば、天皇制のルールからは、次の天皇が大嘗祭を行うまでは、間人皇女が中皇命に相当します。一応、集歌12の歌の左注で、山上憶良の類聚歌林では「天皇の御製の歌」とありますから、この中皇命は日本書紀に従って、三代前の舒明天皇の皇后である宝皇女(皇極・斉明天皇)となるのでしょうか。
 ここで、もう一度、集歌10や集歌11の歌を見てみますと、これらの歌は女性から男性に贈った歌です。特に、集歌11の歌の「草無くは小松が下の草を刈らさね」は、「旅先で夜伽の女性がいないのなら、私を抱きなさい」のような意味合いがあるとされています。つまり、老年の宝皇女(斉明天皇)には相応しくない歌です。歌の寓意からは、三十路前の間人皇女の方が相応しいのではないでしょうか。つまり、中皇命は亡くなられた孝徳天皇の皇后であった間人皇女と考えるのが自然ではないでしょうか。
 ただし、ここで、困ってしまいます。それは、このとき二人は共に天皇の未亡人の立場です。従って、天皇の未亡人である間人皇女も太政皇太后である宝皇女(斉明天皇)も夜を共にするパートナーは公式にはいませんし、男が欲しいとも詠うことは出来ません。では、なぜ、集歌11の歌で代表される、このような猥歌を詠ったのでしょうか。この辺りは別の機会に有間皇子と共に一度考えてみたいと思います。

<春秋競いの歌>
ここで、額田王の集歌16の春秋競いの歌を取り上げて見てみます。

標題 近江大津宮御宇天皇代 天命開別天皇、謚曰天智天皇
標題 天皇、詔内大臣藤原朝臣、競憐春山萬花之艶秋山千葉之彩時、額田王、以謌判之謌
標訓 天皇の、内大臣藤原朝臣に詔(みことのり)して、春山の萬花(ばんくわ)の艶(にほひ)と秋山の千(せん)葉(ゑふ)の彩(いろどり)とを競はしたまひし時に、額田王の、歌を以ちて判(こと)れる歌
集歌16
原文 冬木成 春去来者 不喧有之 鳥毛来鳴奴 不開有之 花毛佐家礼抒 山乎茂 入而毛不取 草深 執手母不見 秋山乃 木葉乎見而者 黄葉乎婆 取而曽思努布 青乎者 置而曽歎久 曽許之恨之 秋山吾者
訓読 冬こもり 春さり来(く)れば 鳴かざりし 鳥も来(き)鳴(な)きぬ 咲(さ)かざりし 花も咲けれど 山を茂(も)み 入りても取らず 草深み 取りても見ず 秋山の 木(こ)の葉を見ては 黄葉(もみち)をば 取りてぞ偲(しの)ふ 青きをば 置きてぞ嘆く そこし恨めし 秋山(あきやま)吾(わ)れは
私訳 冬の木芽から春を過ぎ来ると、今まで鳴かなかった鳥も来て鳴き、咲かなかった花も咲きますが、山は茂り合っていて入ってその花を手に取れず、草は深くて花を手折って見ることも出来ない。秋の山の木の葉を見るに、黄葉を手に取っては偲び、黄葉していない青葉はそのままに置いて嘆く。それが恨めしい。それで秋山を私は採ります。

 歌は、最初に春山の初々しい情景を詠い上げますが、次第に木々や草が荒々しく茂生し、そして、黄葉の秋山の艶な状況へと移っていきます。その状況を思い起こさせて、額田王は秋山が好きだとしています。この歌の感覚から、この歌が詠われたのは、私は初夏の宴会、それも五月五日の薬狩りでの宴会と想像します。
 さて、こうしたとき、当時の知的な宴会の準備の様子が判る歌が奈良時代中期の漢詩集である懐風藻に残っています。それが、次の下毛野朝臣蟲麻呂が詠う新羅使節を送る宴会での歌です。

標題 大學助教從五位下下毛野朝臣蟲麻呂  [年三十六]
標題 五言 秋日於長王宅宴新羅客、並序、賦得前字。
標訓 秋日長王の宅において新羅の客を宴す 並せて序 賦に「前」の字を得たり
夫、秋風已發       それ秋風すでに發す
張歩兵所以思歸      張歩兵(ちょうほへい)が歸を思ふ所以
秋氣可悲、宋大夫於焉傷志 秋氣悲しむべし、宋(そう)大夫(たいふ)ここに志を傷ましむ
然則、歳光時物      然るときはすなわち歳光(さいこう)時物(じぶつ)
好事者、賞而可憐     事を好む者、賞して憐れむべし
勝地良游、相遇者     勝地良游(しょうちりょうゆう)、相ひ遇ふ者
懷而忘返         懷(おも)ふて返ることを忘る
況乎、皇明撫運、時屬無為 況や皇明(こうめい)運(い)を撫(ぶ)して、時に無為に屬(ぞく)す
文軌通而華夷翕欣戴之心  文軌通じて華夷(かい)欣戴(きんたい)の心を翕(あつ)め
禮樂備而朝野得懽娯之致  禮樂(らいがく)備つて朝野懽娯(かんご)の致(ち)を得たり
長王以五日休暇      長王五日の休暇をもつて
披鳳閣而命芳筵      鳳閣を披(ひら)きて芳(ほう)筵(えん)を命じ
使人以千里羈游      使人千里の羈(き)游(ゆう)をもつて
俯雁池而沐恩盻      雁池に俯して恩盻(おんべん)に沐す
於是雕爼煥而繁陳     ここにおいて雕爼(ちょうそ)煥(かがや)いて繁く陳(つら)なり
羅薦紛而交映       羅薦(らせん)紛(みだ)れて交じて映ず
芝蘭四座         芝(し)蘭(らん)四座
去三尺而引君子之風    去ること三尺にして君子の風を引き
祖餞百壺         祖(そ)餞(せん)百壺
敷一寸而酌賢人之酎    敷くこと一寸にして賢人の酎を酌む
琴書左右、言笑縱橫    琴書左右、言笑縱橫
物我兩忘、自拔宇宙之表  物我兩つながら忘れて、自から宇宙の表に拔きぬづ
枯榮雙遣、何必竹林之間  枯榮雙び遣る、何ぞ必ずしも竹林の間のみならんや
此日也          この日
溽署方間、長皐向晩    溽署(じょくしょ)まさに間にして、長皐(ちょうか)晩(くれ)に向はむとす
寒雲千嶺、淳風四域    寒雲千嶺、淳風四域
白露下而南亭肅      白露下つて南亭肅(しゅく)たり
蒼煙生以北林藹      蒼煙生じて以つて北林藹(あい)たり
草也樹也、搖落之興緒難窮 草や樹や、搖落(ようらく)の興(きょう)緒(ちょ)窮(よ)り難たし
觴兮詠兮、登臨之送歸易遠 觴(しょう)と詠(えい)と、登臨の送歸遠ざかり易し
加以           加ふるに
物色相召、煙霞有奔命之場 物色相召して、煙霞(えんか)奔命(ほんめい)の場有り
山水助仁、風月無息肩之地 山水仁を助け、風月息肩の地無きことをもつてす
請、染翰操紙、即事形言  請ふ、翰(かん)を染め紙を操り、事に即して言を形(あら)はし
飛西傷之華篇       西傷の華篇を飛ばし
繼北梁之芳韻       北梁の芳韻を繼がむ
人操一字         人ごとに一字を操る
(賦に「前」の字を得たり)
聖時逢七百        聖時 七百に逢ひ
祚運啓一千        祚運(そうん) 一千を啓く
況乃梯山客        いはんやすなわち山に梯(てい)する客
垂毛亦比肩        垂毛(すいもう) また肩に比ぶ
寒蝉鳴葉後        寒蝉(かんせん) 葉後に鳴き
朔雁度雲前        朔(さく)雁(かん) 雲前を度る
獨有飛鸞曲        ひとり飛鸞(ひらん)の曲のみ有りて
並入別離絃        並せて別離の絃(つる)に入る

 この漢詩に付けられた序からしますと、新羅使節を送る宴会の五日前に宴会の出席者に漢詩を詠うときに織り込む漢字のお題が示されています。この漢詩の作者である下毛野朝臣蟲麻呂のお題は「前」の漢字で、詠われたのは新羅使節の送る宴は神亀三年(726)の晩秋から初冬の九月下旬から十月上旬の時です。額田王の集歌16の春秋競いの歌と下毛野朝臣蟲麻呂の新羅使節を送る漢詩が詠われた時の間には約五十年の差がありますが、天皇が主催するような宴の準備や内容はさほど違いはなかったと思います。
 ここで、集歌16の歌は、普段に目にする解説では歌の標にある「内大臣藤原朝臣」を中臣連鎌足のこととして、その中臣連鎌足が天智天皇から命じられて、ある宴会の準備をしたことになっています。ところが、先の鏡王女の項で説明したように「内大臣藤原朝臣」は藤原鎌足では無い可能性が非常に高いのです。それに、日本書紀の天智七年九月の記事から推定して、生前の中臣連鎌足は大王の私的秘書官である内臣(うちのまえつきみ)で、朝廷において無官の小物の沙門(ほふし)法(ほふ)弁(べん)・秦筆(じんひち)を追い使うのが役職で、朝廷筆頭の重臣が行うような職務を行ってはいません。また、天智天皇朝の朝廷にあって、中臣鎌足は中臣金とは違い、中臣一族を代表する大臣(おほおみ)でもありませんから、従来の推定での縛りである内臣中臣鎌足が亡くなった後の天智八年(669)十月以降の宴であってもよさそうです。天武天皇の時代に天武天皇十一年(682)詔に応じて中臣一族で氏の代表を決めて朝廷に墓記と氏上者を報告していますが、中臣金の弟の中臣許米の子の中臣連大嶋であって、中臣鎌足の子の中臣史ではありません。
 こうしたとき、天智天皇の時代の宴に注目しますと、天智十年五月五日(新暦671年6月20日)に恒例の薬狩りの宴が盛大に行われています。この宴の田舞は、天平十五年(743)五月五日の宴での元正太上天皇の詔では「国の宝の舞(五節の舞)」とされていますから、天智天皇の時代としても宮廷行事としては盛大な状況と思われます。

日本書紀 天智十年五月の記事より
原文 五月丁酉朔辛丑、天皇御西小殿。皇太子・群臣侍宴。於是、再奏田舞。
訓読 五月の丁酉の朔の辛丑(5)に、天皇(すめらみこと)、西の小殿(こあんどの)に御(おはしま)す。皇太子・群臣、宴に侍(はべ)り。是に、田(た)舞(まい)、再び奏(つかまつ)る。

 天武天皇が始めた田舞は後の五節の舞ですが、内容は年若き美人四人で舞う祝いの舞です。もし、天智十年五月五日の恒例の薬狩りの宴で額田王の集歌16の春秋競いの歌が詠われたとしますと、このとき、額田王はおよそ三十八歳です。群臣の前で舞う年若き美人四人が、草木が芽吹き、花が咲く春山とするならば、歌を詠う中年の額田王は華やぎの黄葉の秋山に相当します。当時、天武天皇の周りに年若き女性としては、天智天皇の御子の大江皇女と新田部皇女、藤原大臣の娘である五百重娘、蘇我赤兄大臣の娘である大甦娘がいましたから、天武天皇の御子を産んだ額田王は、年若い彼女たちに対抗心はあったのではないでしょうか。
 ただ、こうした推測が成り立つなら、鏡王女でも推測したように「内大臣藤原朝臣」は「右大臣藤原朝臣」が本来であって、それは右大臣中臣連金を示すことになります。
 さて、万葉集側から飛鳥・奈良時代の様子を眺めましたが、皆さんが思う歴史と一致していたでしょうか。暗示されたものを取り除き、白紙の状態で素直に漢文や万葉集の歌を眺めますと、さて、一体、どのような根拠で、従来の歴史感は得られたのでしょうか。実に面白いものです。

 

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