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職業人としての柿本人麻呂

第一章   氏族社会の和珥族と柿本臣
柿本人麻呂の氏族を考える

 人麻呂が生きた時代は、家族・一族・係累が互いに助け合い生活していた氏族社会と規定し、個人が自由に住居地を定め、また、個人の意思で職業を選べる時代ではなかったと規定します。その時代、皇族・王族・豪族などの有力者の子弟だけが特別に教育を受ける機会があり、その才能によって天武天皇の時代以降に始まった律令規定の社会環境でのみ選抜を受けて官途に就ける、そのような氏族社会と考えます。
 人麻呂の生涯と職業を考える上で、手始めに人麻呂が属すると思われる氏族を考察します。なお、先の約束事に従って、人麻呂の名とは字名(あざな)(または仮名(けみょう))として柿本朝臣人麻呂または柿本朝臣人麿と呼称される人物であり、『新撰姓氏録』に載る柿本臣に属する人物として考察します。また同時に柿本朝臣人麻呂なる名称が本系図に載る本名であるとの保証はありませんし、対して歴史において人麻呂の名称が本名であると、それが確認された事実でもないことを確認しておきます。追加しますと、万葉集に載る標題や左注の記述が律令で規定する公文書記述要綱に完全に従っている保証もありませんし、確認もされていません。つまり、死亡記事で使われる「薨」、「卒」、「死」と区分された表記は身分を示す指標とはなりますが、それでもって身分を確定することを保証するものにはなりません。

和珥族と柿本臣

 和珥族は、日本書紀や古事記の歴史では孝安(かうあん)天皇の兄の天足(あまたらし)彦(ひこ)国(くに)押(おし)人(ひとの)命(みこと)(天押帯日子命)の子孫です。ところが、応神天皇の妃に和珥(わに)日触(ひふれの)使主(おみ)の娘の宮主宅媛(みやぬしやかひめ)(宮主矢河比売)がいたとの記事があり、また、櫟本や柿本の名称は山蚕の絹織物や当時の最新の甘味である干し柿に関係します。姓(かばね)として使主の肩書は朝鮮半島からの渡来人を示唆し、櫟本の櫟は山繭の餌となる樹木ですし、柿本の柿は輸入植物である柿の樹木をイメージします。つまり、和珥族が姓(かばね)として持つこの使主や、姓(せい)での櫟本や柿本などの名称から、和珥族とは応神天皇頃の古い時代に大陸から朝鮮半島を経由して渡来した一族であったと推定されます。
 さて、和珥族が祀る神が奈良県天理市櫟本町和珥にある和爾(わに)坐(います)赤阪比古(あかさかひこ)神社の阿田賀田須(あたかたす)命(みこと)(赤阪比古命)と市寸島(いつきしま)比賣(ひめの)命(みこと)です。この阿田賀田須命は素戔鳴尊の六世の孫の大国主命の、その六世の孫の吾田片隅(あたかたす)命(みこと)と同じ人物と想定され、その吾田片隅命(阿田賀田須命)の直系の子孫が宗像神社の神主である宗形君です。その宗形君が祀る宗像神社は多紀理(たきり)毘賣(ひめの)命(みこと)、市寸島(いつきしま)比賣(ひめの)命(みこと)、田寸津(たきつ)比賣(ひめの)命(みこと)の三女神を祭神としています。つまり、興味深いことに、この祭神関係からすると和珥族と宗形君一族とは同祖関係、または、和珥族が宗形君一族に従うと云う関係が見えて来ます。こうした時、その宗像神社の三宮の所在位置が朝鮮半島からの渡航ルートである朝鮮海峡上にあると云う関係からも、和珥族が大陸から朝鮮半島を経由して渡来して来た一族であろうと推測することが可能ではないでしょうか。このように姓や祀る祭神の両面から、和珥族とは古い時代に大和へと渡って来た渡来人の一族と考えて良いと考えます。
 ここで日本書紀に興味深い記事があります。多紀理毘賣命、市寸島比賣命、田寸津比賣命の三女神は素戔鳴尊と天照大神との誓約(うけひ)の中で素戔鳴尊が佩く十握剣から生まれた女神で素戔鳴尊の御子と扱われています。その素戔鳴尊が狼藉のために天界から地上に追放されたとき、日本書紀に一書として紹介された異伝ではその天降りのルートとして

原文 素戔鳴尊所行無状。故諸神科以千座置戸、而遂逐之。是時、素戔鳴尊帥其子五十猛神、降到於新羅国、居曾尸茂梨。之処乃興言曰、此地吾不欲居。遂以埴土作舟、乗之東渡。到出雲国簸川上所在鳥上之峰。
訓読 素戔鳴尊の所行は無状。故に諸神は科(とが)とし千座(ちくら)を以って置戸とし、遂にこれを逐(お)ふ。是の時、素戔鳴尊は其の子五十猛神を師(ひき)ひ、新羅国に降り到り、曾尸茂梨に居る。この処の言を興(あ)げて曰はく、此の地に吾は居ることを欲さず。遂に埴土(はに)を以って舟を作り、之に乗りて東に渡る。出雲国の簸川の上(ほとり)、鳥上の峰に在る所に到る。

とあります。つまり、素戔鳴尊は天界から新羅国へ天降りし、その後、出雲国の簸川の上流にある鳥上の峰にある里にやってきたことになっています。島根県益田市に残る高山(または神山)の説話もこの異伝が根拠です。このように大陸からの渡航ルートと和珥族が祭る祭神とに深い関係があります。
 次に阿田賀田須命の別称である「赤阪比古命」に注目します。一部の解説ではこの「赤阪」を「赤い色の土の坂」のことと解説していますが、漢字の由来からすると、どうも、違うようです。『説文解字』などに載る漢字の解説では「赤は火に通じ、朱は木に通じ、丹は土に通じる」とのことです。従って、「赤い色の土」を表すのであれば漢字では「丹」と記すのが本来です。
 少し視線を変えると、日本書紀には、「又全剥真名鹿之皮、以作天羽鞴(また、真名鹿(まなか)の皮を全剥(うつはぎには)ぎて、天羽鞴(あまのはぶき)に作る)」や「蹈鞴、此云多多羅(蹈鞴、これをたたらと云う)」の言葉とその解説があります。政治的な記事ではなく生産技術の言葉ですから後年に恣意的に作文して挿入した可能性は薄いと思われます。この一節から古代大和に手動の鞴(ふいご)と足踏みの鞴との二つの鞴の技術が伝わっていたと考えて良いでしょう。つまり、金属の生産技術からみると人工送風による木炭火力の製鉄・製銅技術が伝わっていたと考えられます。こうしたとき、製鉄遺跡の発掘では、製鉄炉に付帯する炭窯には登り窯形式が多く見られるようです。漢字で「赤」は「大きなる火」を表し「赤」は「赫」に通じると云いますから、「赤阪」は製鉄・製銅の基本となる木炭製造での「登り窯」の意味合いがあるとも考えられます。つまり、赤阪比古命の名には、製鉄・製銅の基本となる製炭を司る神(=渡来の技術者)の意味合いがあると推定することが可能ではないでしょうか。ちなみに、製鉄自体は箱型炉を使うため、製鉄炉と「坂」との直接の関係は見出せません。従来の解説とは相違しますが丘陵の坂の部分で炉を構えて風を集めて製鉄をしたと言うよりは製鉄で使用する木炭を製造していたと考えるのが相当なのです。
 ここからの解釈は少し飛躍します。
 それは、赤阪比古命の別名を持つ和爾坐赤阪比古神社の阿田賀田須命とは、素戔鳴尊・大国主命系統の渡来人であるとともに製鉄に関係した氏族でもあったとの仮説です。この仮説が成り立つとしますと柿本臣と小野臣や布留臣との間で興味深いことがあります。小野臣は彦(ひこ)姥津(うばつ)命(みこと)の五世孫の米餅搗大使主命の後とされ、布留臣は柿本臣同祖の天足彦国押人命の七世孫の米餅搗大使主命の後とされています。ここで、姓の米餅搗(たがねつき)は鑿着(たがねつき)と記すのが本来です。つまり、柿本臣、小野臣や布留臣は鑿着大使主命(たがねつきのおほおみのみこと)の子孫に当たりますから、阿田賀田須命の末の中でも鏨を使うイメージから、鉱業でも探鉱や採鉱・選鉱の分野を分担する一族と推定するのが相当となります。
 このように、柿本臣の周辺を探ると祭神や『新撰姓氏録』などの資料からは、柿本臣一族は製鉄や採鉱に関わるような、それも探鉱や採鉱・選鉱の分野を業とする一族であったとの推測が出来そうです。なお、中世以降では近江の小野臣が水力式臼の技術から応用した製粉技術や米菓製造に深く関わり、その米菓のイメージから姓の「鑿着」を「米餅搗」へと表記を換え、現在に繋がる米菓の神様系となっています。そのため普段の一部の解説では柿本臣、小野臣や布留臣に対する氏族の職業や先祖への評価・推定が違っています。

大国主命と高市皇子

 和爾坐赤阪比古神社の阿田賀田須命の歴史を、もう少し探ってみます。
 天照大御神と素戔鳴尊が天安河で誓約(うけひ)をして生まれた素戔鳴尊の子となる神々が宗像神社で祀る多紀理毘賣命、市寸島比賣命、田寸津比賣命の三女神で、この三女神を祀る神社の神主が宗形君です。この宗形君は、素戔鳴尊の六世の孫の大国主命の、その六世の孫の吾田片隅命の後とされる氏族です。柿本人麻呂に関係する人物では高市皇子が、天武天皇と宗形君徳善の娘である尼子娘との間の御子ですので、祭神からすると吾田片隅命の直系の関係者になります。先に見ましたように和珥族も市寸島比賣命を祀りますから、祭神関係では高市皇子と柿本人麻呂とは遠い同祖関係となります。
 この天安河での誓約に戻りますと、誓約で生まれた天照大御神の御子となる五人の男神の中に天菩比命がいて、その天菩比命の御子が建比良鳥命で出雲国造の祖となります。古事記ではこの天菩比命は天照大御神の配下から離れて大国主の家臣に自ら加わっていますから、家臣筋の出雲国造が出雲大社で主人筋となる大国主を祀る姿となります。また、古事記によると大国主命が宗像の三女神の内で娶ったのは多紀理毘賣命だけですから、この吾田片隅命は大国主命と多紀理毘賣命との間の御子である阿遲須枳(あぢすき)高日子(たかひこ)命(みこと)または阿遲須伎高日子命と称される人物の末となります。
 一方、大和の地に目を向けると、天照大御神系の天孫族が大和に君臨した時に降伏した素戔鳴尊の子孫である大国主に繋がる一族は、香具山・畝傍山・耳成山を囲むように三輪山の大神神社(祭神は大物主)、葛城山の高鴨神社(阿遲須伎高孫根命)、宇奈提の雲悌神社(事代主)、雷山の飛鳥神社(賀夜奈流美命)に祀られて、そこから天照大御神系の天孫族の長である天皇を守っていることになっています。ただ、大和での素戔鳴尊系の大国主の後となる吾田片隅命系の祭神としては、奈良県天理市櫟本町和珥にある和爾坐赤阪比古神社の阿田賀田須命(赤阪比古命)と市寸島比賣命であり、城上郡(桜井市)の宗像神社三座の多紀理毘賣命、市寸島比賣命、田寸津比賣命の三女神ですから、祭神を祀る人々に注目しますと素戔鳴尊系の人々の大和盆地への進出には第一波の大国主系と第二波の吾田片隅命系のとの間に時代のズレがあった可能性があります。出雲を中心とする日本海側の人々が早く、朝鮮半島に縁を持つ宗像北部九州玄界灘側の人々が遅れて入ったような姿です。
 こうした時に祭神の由来や氏族の系統からは筑紫の宗形君、三輪山の大神神社(大物主)を祀る三輪君、葛城の高鴨神社(阿遲須伎高孫根命)を祀る鴨族とは同祖関係になります。また、視線を変えると高市皇子が吾田片隅命の関係者として宗像の多紀理毘賣命、市寸島比賣命、田寸津比賣命の三女神を祀っても不思議ではないことになります。
 先に見たように和珥臣が阿田賀田須命を祖とする氏族ですと、高市皇子と柿本人麻呂とには同じ神を祀る同祖関係が成立しますし、大和において高市皇子の配下には大和盆地を取り囲むように丘陵に宿る三輪君、鴨族と和珥臣一族とが同祖関係として入ることになります。つまり、高市皇子は大和盆地の平地部の大伴、物部や蘇我、また紀伊国の紀族に匹敵する大部族の代表者になります。この関係において柿本人麻呂が柿本臣の一員として市寸島比賣命系の鉱山や金属製錬関係技術者として高市皇子の配下に入る可能性が見出せます。

物部氏と和珥族の関係

 ここで、和珥臣に縁のある大和石上神宮について見てみますと、伊勢神宮において天皇が祭主で度会氏が大神主であるのと同じ関係として、石上神宮は物部氏が祭主で布留宿禰が神主となっています。その布留宿禰は柿本朝臣同祖の天足彦国押人命五世孫の鑿着大使主命の後で、柿本朝臣が天足彦国押人命の後ですので、布留宿禰は柿本氏の枝族の関係になります。つまり、石上神宮の関係では物部氏が支配者で和珥臣が被支配者のような姿があります。
 一方、物部氏は饒速日(にぎはやひの)命(みこと)の後とされていますが、天照(あまてる)国照(くにてる)彦(ひこ)天火明(あまのほあかり)奇玉(くしたま)神(かむ)饒速日尊(にぎはやひのみこと)または天照国照彦天火明櫛玉(くしたま)饒速日尊(にぎはやひのみこと)と同じともされています。この人物は天照大御神の御子の正勝(まさかつ)吾勝(あかつ)勝(かつ)速(はや)日(ひ)天(あまの)忍穗耳(おしほみみの)命(みこと)と高木神の娘の萬(よろず)幡(はた)豊(とよ)秋津(あきつ)師(し)比賣(ひめの)命(みこと)との間の御子である長男の天火明命(あまのほあかり)と同じ人ではないかと推定されていて、次男の御子が日子(ひこ)番能(ほの)邇邇藝(ににぎの)命(みこと)で高千穂の峰に天孫として降臨された方になります。
 この石上神宮は、日本書紀 垂仁二十七年の記事によると、出雲国造から奪った大国主の支配する出雲国を言向けた経津主神の化身である神宝の太刀を以って神を祀ることを起源にし、このとき物部十(とを)千根(ちねの)大連(おほむらじ)が祭主に命じられています。ただ、物部氏が饒速日命の後とされていますから、神武東征のときに征服された饒速日命が降伏の印に差し出した剣を、再度、饒速日命の後の物部氏に戻したのかもしれません。つまり、素戔鳴尊系の大国主の末が饒速日命系の物部氏に征服され、その饒速日命系の物部氏が天照大御神系の天孫族に征服されたと云う二重の物語があると推定されます。このように想像すると、石上神宮において素戔鳴尊系の大国主の末に繋がる和珥族の布留宿禰が天照大御神系の天孫族の物部氏の支配下にあり、その物部氏が天皇家の支配下にあることが理解できるような気がします。
 すこし整理すると、天孫族には天照大御神系と素戔鳴尊系とがあり、素戔鳴尊系は出雲を中心とする日本海側から早く大和盆地に入り、天照大御神系は朝鮮半島との連絡を保ちつつ宗像玄界灘沿岸から遅れて大和盆地に入ったという推測です。その関係で古事記や日本書紀で長髄彦が仕える饒速日命と神武天皇とが矢羽根交換で同祖関係があったとするのでしょう。
 ここで、和珥族は、大国主命の、その六世孫の阿田賀田須命を祖とする氏族で、その枝族となる布留宿禰が、出雲国造の神宝の太刀が石上神宮に祭られるのと同時に、その神宮の神主になると云うのは偶然でしょうか。先に新撰姓氏録から布留宿禰は鑿着大使主命の子孫であるから製鉄や採鉱に関わるような金属製錬を業とする氏族であったと推測しました。ここからは憶測になりますが、垂仁天皇の時代に布留宿禰を出雲地方から石上神宮周辺に鉄剣や鉄盾などの鍛冶技術者として移住させたのではないでしょうか。こうしたとき、大和国式下郡(現、田原本町)の岐多志太神社の縁起では、本来、石凝姥命の末となるはずの鏡作連の祖を、饒速日命の十一世の孫の鍛冶師(きたしの)連(むらじの)公(きみ)としています。つまり、鏡作連の祖は物部氏と同祖関係であるとの伝承です。これらから類推して、古代の大和王権では物部氏が金属製錬・加工に関わる部民を管理していて、後年にその部民たちが物部氏の本系図に入り込んだと考えられます。
 なお、歴史では天武天皇の生前の名である大海人皇子の由来は、凡海(おほあま)族が養育に関与したことに因むとされていて、その凡海族は畿内難波と丹波の丹後半島を基盤とする氏族です。凡海族が本拠とする丹後半島で、この凡海族と同祖を持つとされる丹後海部氏が祀る籠(こも)神社(じんじゃ)(元伊勢籠神社)の祭神は彦天火明命です。つまり、古代において凡海族が丹後半島の竹野地域の天火明命系氏族の代表者ならば、物部氏は大和における天火明命系氏族の代表者です。そして、高市皇子が大国主系の氏族の象徴ならば、大海人皇子は天火明命系の氏族の象徴となり、金属製錬に例を取ると高市皇子は新規渡来の市寸島比賣命系の鉱山や金属製錬関係技術者の代表に対し、大海人皇子は古くからの大和鍛冶である物部鍛冶師連に継ながる金属製錬関係技術者の代表となります。近江・飛鳥時代において、親子共々、金属製錬氏族と深い関係が見出せます。
 この関係を整理すると次のような表になります。
世代 氏族・部民 祭神 分野 代表/象徴
第一世代 物部連 天火明命
製錬・製鉄 大海人皇子 物部鍛冶連など 経津主神 刀剣加工

第二世代 柿本臣・小野臣 市寸島比賣命
製錬・加工 高市皇子 宗形君・高市部

 人麻呂が生きた時代に古事記や日本書紀が整備され、同時に、朝廷は有力な氏族にその先祖の由来と配下となる支族・系列を明らかにするために氏族の家系図や戸籍に相当する本系図の作成と提出を求めました。つまり、人麻呂の時代、ここで説明したことは政治であり、氏族の政界での位置取りとその地位の確認でもあったのです。現在では神話と片付けるような事項ですが、人麻呂時代は十分に根拠ある実話として扱われるべき事項だったのです。氏族社会ですから祖神が鏡作りなら銅鏡の製作に関係し、土師に関係するなら土器製作に関係することが予定されます。鍛冶もまた同じです。

和珥族の祭神と金属製錬

このように古代の氏族が祀る祭神を調べていくと、備前国赤坂郡で興味深いことを見つけることが出来ます。この備前国赤坂郡は現在では岡山県赤磐郡吉井町を中心とする地域ですが、この地に『延喜式神名帳』に載る石上布都之魂神社と宗形神社があります。古代において土地に由来しない祭神は氏族の祭神でしょうから石上布都之魂神社は和珥族の布留氏に、宗形神社は宗形君に関係すると見て良いと考えます。これらの神社は延喜式神名帳に載ることから古代では有力な神社です。本来、その土地にゆかりのない氏族ですが、延喜式神名帳が整備された平安初期においてもある一定の勢力を張っていたと考えられますし、その大和地方に関係する布留一族と玄海九州に関係する宗形君一族が、ともに同じ備前国に住んでいたことに興味が湧きます。これらの氏族は有力氏族ではありませんし、布留一族は物部氏の管理下にある部民です。推定で、布留一族や宗形君一族の備前国赤坂郡への移住の背景には、大和王権の意思があったと考えられます。こうした時、興味深いことに、この備前国赤坂郡からは銅鉱石や褐鉄鉱を奈良時代までは産出していました。布留一族と宗形君一族とが金属製錬・加工に関わる氏族ではないかとの推測が可能な時、なにか偶然の一致では無いものを感じます。当然、奈良時代では備前国の重要な産物は鉄鍬などの鉄器であることを忘れてはいけません。なお、参考として、古代 備前国での製鉄法は褐鉄鉱からの鉱石を利用するもので、砂鉄を使うたたら製鉄法ではないとの研究があります。
 ところで、日本では古くから作業場には作業の神様をお祭りし、作業の安全と製品の出来を祈ってきました。では、古代において重要な金属である銅の製錬作業はどうだったのでしょうか。古代では金銅色に輝く銅は貨幣の銅銭、宮殿・寺院の装飾金具や金銅仏像など、民生品より官途の指向が強い金属です。また、銅の製錬作業の副産物としての国際通貨である銀も生産されてきます。こうした時に銅の製錬作業において、それを行う氏族にとっては自己の祀る神は誇りを持って祀るに相応しいと思います。
 この視線で見てみますと、奈良時代最大の銅の製錬事業である東大寺大仏の鋳造では、東大寺の守護神社として新羅系鍛冶に関係するとも推定される宇佐八幡大社の市杵嶋比賣命が九州の国東半島の宇佐からはるばると勧請されています。歴史では、聖武天皇は東大寺の大仏建立に先駆け一度は甲賀紫香楽宮(信楽宮)で甲賀大仏を建立しようとしますが、その鋳造に失敗しています。この東大寺の大仏は信楽から奈良に場所を変えての再度の大仏鋳造への挑戦です。そのときに宇佐八幡大社から市杵嶋比賣命が奈良へと勧請されています。そして、その肝心の実務者として東大寺の大仏の建立に関係した鋳造関係者は、東大寺修二会での過去帳に載る鋳師柿本男玉の名前や続日本紀の記事から求められるその柿本男玉の昇階位の記録から推定して、鋳造の全体指揮者は高市真国、鍛造作業指揮者は高市真麿、鋳造作業指揮者は柿本男玉(小玉)だったと考えられます。
 続日本紀の記事から推測すると、東大寺の大仏の鋳造開始は天平十九年(七四七)、最後の鋳造が天平勝宝元年(七四八)十月二十四日です。柿本男玉は天平勝宝元年十二月に正六位上から外従五位下に昇階し、さらに天平勝宝二年十二月に外従五位上に昇階しています。これは、天平十七年九月、天平十九年八月及び天平勝宝元年の東大寺の大仏建立に係わる事件によるものと思われます。この時、朝廷は東大寺大仏鋳造への宇佐八幡大社の神人の協力を得るため、宇佐から奈良に宇佐八幡大社を招聘し、その大仏建立への関係者の功を評して官位を授けています。東大寺大仏に先行した甲賀大仏は鋳造に失敗して放棄されましたが、この東大寺大仏は宇佐八幡大社の神人等の協力を得て、試行錯誤のすえに完成しています。先の天平勝宝元年十二月の柿本男玉の外従五位下への昇階位はこの東大寺大仏建立の完成の功を評するものと考えられます。
 この叙位の記事では柿本男玉には朝臣の姓(かばね)がないことから推定して、一世代前の柿本朝臣佐留や柿本朝臣人麻呂とは直接には関係が無い支族または卑母の子と思われます。また、正倉院文書によると東大寺には引き続き柿本朝臣一族の柿本朝臣猪養が造寺司小判官として職についています。ただ、このとき朝廷が大仏建立の一番肝心な鋳造作業に「柿本」の姓を持つ人物を据えたことから、当時の大和朝廷において柿本臣一族が銅鋳造技術に関わる中心的な氏族であったことは確実です。そして、落慶後の造寺司小判官である柿本朝臣猪養は付帯の設備や大仏の補修・手直しに関係する職務に就いていたと思われます。
 この状況から推定して当時が氏族社会であるとすると、柿本男玉や柿本朝臣猪養が所属する柿本臣が祀る和爾坐赤阪比古神社の阿田賀田須命(赤阪比古命)と市杵嶋比賣命は、宇佐八幡大社の市杵嶋比賣命と同様に金属鋳造に深く関わる祭神と見て良いと考えます。また、銅地金を銅鉱石から生産する方法から類推すると、祭神の市杵嶋比賣命は厳かな杵の神様の意味合いにおいて杵と臼で鉱石を砕く作業を示し、多紀理(たきり=多霧)比売命は鋳吹き製錬作業を示し、多岐津(たきつ=たぎる)姫命が溶融炉の湯の状態を示すのかも知れません。
 そして、古代氏族社会では、柿本臣が金属鋳造に関係する氏族であるならば、柿本臣の姓(せい)を持つ柿本朝臣人麻呂もまた金属鋳造に関わる人物となります。

 

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