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万葉の時代、王都の京と宮とを考える

 古典文学の万葉集を鑑賞する時、一つの例として上古代の歴史・社会・人物関係などの人為を踏まえて鑑賞する方法と、そのような人為をすべて排除し自然だけに焦点を当てて鑑賞する方法とに大きく区分することが出来ると思います。その例として、人為を排除して鑑賞するものに『万葉集の植物(吉野正美・川本武司)』を代表例として万葉集の動植物だけに注目して研究されるお方がいます。一方、恋歌について、昭和時代までは歌垣歌に似た雰囲気で宴会などでの余興の相聞問答を詠った場面だけであっても、その歌人が男女だった場合での相聞歌を詠うことは、即、妻問い関係や同居の夫婦だと決めつけ、その決めつけから相聞歌の存在だけから家系図を作るようなトンデモ論的な夢想を学問とする人文研究者もいます。その夢想の代表が、額田王を巡る天智天皇と天武天皇との三角関係説であって、根拠として、旧暦五月五日の初夏の風習である男たちは野狩を、女たちは薬草狩の遊びを行うものが蒲生野で催され、その日の獲物を使っての大宴会で披露した歌をもって、それにより三角関係が存在するとの面白い夢想の根拠とします。これは人為から万葉集を鑑賞する典型と思ってください。
 人為から万葉集の鑑賞にあって、古代の歴史・社会・人物関係などを踏まえて鑑賞する方法では、現代人は平成時代中期以前とそれ以降では歴史・社会・人物関係などの捉え方が大きく違うことに注意する必要があります。まず、大きく違う最大のものが飛鳥藤原京と云う王都の存在の有無です。飛鳥藤原京の規模感がほぼ確定して来た平成10年頃、つまり、その平成時代中期以前では、日本史最初、朝廷機能の建物群とそれをサポートする機能を持つ区域を持つ王都であり、同時に大陸の王都に匹敵する規模を持つ飛鳥藤原京(大藤原京の存在)と言う都市の存在自体を認めていません。それにより万葉集に登場する当時の人物の評価が大きく違います。端的に言うと、飛鳥・奈良時代史の評価が、全くに違うのです。ここで「宮」は王の居住区と政治をする政庁区の区域を意味し、「都」は宮区域と大規模な人々の居住区域や社会活動区域を含めた、近世での城と城を含めた城下町との関係のようなものです。
 平成時代中期以前の万葉集学者の飛鳥藤原宮への認識は、日本書紀などの資料に宮として藤原の名前があることを承知していましたが、従来でのその藤原京の推定された位置が藤井ヶ原(略称で藤原)という、万葉集の歌でもオオカミが出没すると詠うような大和盆地中心部に存在した大湿地帯の最南縁に位置します。その地形や地盤の制約からして飛鳥藤原京とは天武天皇が建てようとした離宮の「新城」であり、補完の「新益京」を意味し、規模としては飛鳥浄御原宮の離宮程度と考えました。最大の可能性でも柿本人麻呂が詠う高市皇子への挽歌から、太政大臣を務めた高市皇子の別宅と考えていました。この認識から発展して、平成後期以降の現代人が飛鳥藤原京と云う王都や大寺院群から認識する、昭和時代の高度経済成長期や明治時代の文明開化期に匹敵する飛鳥藤原京時代を、昭和の時代からすれば歴史的な大建築物や社会的な事績などは何も無かった時代と断定し、それにより、草壁皇子や高市皇子については歴史的な事績を考慮する必要もないし、持統天皇もその名称の通りに飛鳥浄御原宮から平城京へ時代を「維持して統べる」だけの人物、それも吉野の別荘への旅行が好きな女性のような感覚で捉えるだけで十分と考えていました。まったく、現代からすると古代史の捉え方が違うのです。飛鳥藤原京は存在せず、イメージと現在の法隆寺寺院群地域のような飛鳥浄御原宮からいきなり大陸基準の規模を持つ平城京が生まれ、その平城京の建設を遂行する社会基盤を作ったのが藤原不比等だったとの歴史認識です。ほぼゼロから唐朝に匹敵する律令体制を作り上げたとする、古代政治家の中でもスーパーマン的な理解でした。
 また、万葉歌人の柿本人麻呂の扱いでも、平成時代初期までですと、高市皇子や忍壁皇子の郷に建てられた小さな別宅に出入りする、日頃は旅して廻る遊行詩人のような生業を持たない旅芸人の感覚で扱っていました。遊行詩人のような遊女を伴う都会の猿若衆のような旅芸人だから、人の動きの少ない飛鳥時代にあっても中部地方の尾張国から九州北部の豊前国までを旅することが出来たと考えます。一方、平成時代中期以降に飛鳥藤原京が平城京や平安京よりも規模が大きな王都であり、前期平城京の大極殿などは飛鳥藤原京からの解体・移築の再利用だったことが再確認されると、その王都を建設した太政大臣を執った高市皇子やその社会基盤となる浄御原令などの律令体制を作り上げた忍壁皇子と交流を持ち、そのような皇族たちの公式の葬儀での弔辞に相当する挽歌を作詞するとなると、柿本人麻呂の身分や立場は政府中枢に係るものと再構築せざるを得ません。このように、高市皇子の別宅程度の規模を想定した藤原宮と考えるか、それとも日本史上、初の大陸の都にも負けない本格的な王都として飛鳥藤原京を考えるかで、万葉集の鑑賞は変わりますし、飛鳥・奈良時代を中心とした古代史の解釈も変わります。
 万葉集の次の組歌二首については、平成初期までは天武天皇が建てようとした離宮の「新城」を詠う歌と考え、歌中の「大王」は天武天皇と認識します。他方、飛鳥藤原京の存在を認めると「皇」は持統天皇としても、従来の日本史の組み立てからすると「大王」の扱いに困ります。歴史への色眼鏡を外して二首組歌をそのままに解釈すると、律令用語なら政務全権を持つ太政大臣高市皇子であり、日本語ならば高市大王を意味すると認識する必要があります。ただ、これは従来の教科書に載る日本史とはなりません。

壬申年之乱平定以後謌二首
標訓 壬申の年の乱の平定せし以後(のち)の謌二首
集歌4260
原文 皇者 神尓之座者 赤駒之 腹婆布田為乎 京師跡奈之都
訓読 皇(すめらぎ)は神にし坐(ま)せば赤駒し腹這ふ田(た)為(い)を京師(みやこ)と成しつ
私訳 天皇は神であられるので、赤馬が腹をも漬く沼田を都と成された。
左注 右一首、大将軍贈右大臣大伴卿作
注訓 右の一首は、大将軍にして贈右大臣大伴卿の作れる

集歌4261
原文 大王者 神尓之座者 水鳥乃 須太久水奴麻乎 皇都常成通 (作者不詳)
訓読 大王(おほきみ)は神にしませば水鳥のすだく水沼(みぬま)を皇都(みやこ)と成しつ (作る者は詳(つばび)かならず)
私訳 大王は神であられるので、水鳥が棲みかとする水沼を都と成された。
左注 右件二首、天平勝寶四年二月二日聞之、即載於茲也
注訓 右の件の二首は、天平勝寶四年二月二日に之を聞く、即ち茲(ここ)に載せるなり

 平成初期までの古代史の組立からの玉突き現象として、紹介しましたように昭和時代では柿本人麻呂の立場も、歴史に何も事績を残さなかったはずの草壁皇子や高市皇子の郷の小さな別宅に出入りするだけの人物と云う扱いですが、これが大きく変わります。このような文学上の認識がありますから、昭和時代では日本史や美術史で使う歴史区分の「藤原時代」と言う言葉は平安時代中期の藤原摂関時代を意味する扱いです。そのため、平成時代中期以前には、日本史最初であり大陸の王都に匹敵する規模を持つ飛鳥藤原京を建設した、その飛鳥藤原京の時代が日本古代史には存在しません。
 推古天皇から持統天皇の時代を飛鳥時代と呼ぶのなら、歴史区分では非常に乱暴と考えます。推古天皇時代と持統天皇の時代では法治体制、政治体制、文化水準など相当に違いますから、現代風なら明治・大正・昭和・平成を取りまとめて、東京と云う首都の位置が同じだから、首都を時代の代表名称として歴史区分で「東京時代」の名称で束ねるようなものです。
 一方、平成時代中期以降では考古学では明確に平城京や平安京よりも京域の規模では大きい飛鳥藤原京の存在を認めますから、必然的にその飛鳥藤原京の存在を前提として日本史及び日本文学研究者はその時代の政治実務の執行者たちを評価せざるを得ません。それにより、政府首班を執った高市皇子や法務体系整備の指揮を執った忍壁皇子たちを歴史的な事績が無いと、昭和時代のように切って捨てることが出来なくなりました。
 実務社会人からすれば、大規模な王都を建設するには政治や行政を運用する法体系や経済体制が必要なのは自明な事です。すると昭和時代までには無視をしていた飛鳥浄御原令には実態があり、飛鳥藤原京やその周辺の大寺院を建設するだけの運用実態があったことになります。従来、日本最初の律令体制の整備は藤原不比等によるものとしていましたが、飛鳥浄御原令に実態があった場合、藤原不比等の生年と藤原京時代の年齢、また、朝廷内の地位などを考慮すると不比等は法制度整備の中心メーンバーでは無くなります。結果、日本書紀や続日本紀に示す通りに政府首班は高市皇子が、法務体系整備は忍壁皇子が指導したと考えざるを得なくなります。これは、従来の飛鳥・奈良時代の政治史を研究する方々にとって、非常に居心地の悪い話で、ある種の先輩や先師の研究の全否定となります。最悪なのはスーパーマン的な政治家と考えられた藤原不比等が天皇家の内々の姻戚関係や事務関係を担当する内相だけの立場になってしまうことです。逆に女性中心の持統天皇から元明天皇時代では天皇家の私的秘書・執事の職務を行う内相の立場は強力ですが、でも、これでは政治・経済の表舞台を仕切ったとするスーパーマン的な政治家のイメージにはなりません。
 平城京や平安京よりも規模の大きな飛鳥藤原京と云う王都の建設には資金、技術、動員力などの社会的基盤が必要です。さらに前例がありませんから、真の計画力と事業運用能力が必要です。そのため、文学嗜好の歴史学者の思いとは違い、飛鳥藤原京が存在したなら、それに見合う社会的基盤が存在し、強烈なリーダーとスタッフが必要なのです。さらに、前期平城京に先行して飛鳥藤原京が存在すると、その飛鳥藤原京の建設時代に対して、前期平城京時代に大陸に習った律令時代を築いたと称される藤原不比等の年齢や事績との相性が非常に悪くなります。飛鳥藤原京建設を裏付ける強固な社会基盤の存在を説明する為に、昭和時代までに確定している藤原不比等の年齢を20年以上も遡り変更することは出来ないのです。そのため、昭和時代に唱えられた「日本で最初の王都平城京で代表される時代を作り上げた藤原不比等」のイメージに重大な影響を与えますし、藤原一族の立場が大きく変わります。律令の建設者ではなく、出来上がった律令社会の簒奪者へと評価が変質します。
 昭和時代の学者は、日本最初の王都となる平城京を建設するためには強固な律令制が必要で、その律令体制を作り上げたのは藤原不比等だったと説明します。それが、平城京とその周囲の主要な大寺院は飛鳥藤原京からの解体・移築の再利用だった、単なる飛鳥藤原京のコピー的な建設では、歴史における藤原不比等の役割は何だったのかと云う重大な疑問が生まれることになります。大学などにあって強固な師弟関係が存在したとしても近代科学的な研究方法論からすると先人の歴史研究や文学研究を根本的に訂正する必要が生まれたのです。
 万葉集にあっても日本史上最初の大陸の王都に匹敵する飛鳥藤原京を建設した時の政府首班であった高市皇子や、その時代の法務体系整備の実施責任者であった忍壁皇子たちと緊密な関係性を持つ柿本人麻呂の立場も大きく変化させる必要が生じます。郷の小さな私邸別宅に出入りするのか、平城宮よりも大きな藤原宮の宮殿や朝廷に出入りするのかでは、同じ出入りの行為ですが捉え方は大きく変わります。そこから、柿本人麻呂は官人の身分を持たないような市井の遊行詩人では無く、その時代の政府首班だった高市皇子との関係性を考えると遊行詩人では相応しくないことになります。そこで続日本紀に同時代の柿本姓を持つ大物を求めると従四位下柿本佐留と云う人物が現れて来ます。柿本人麻呂は人物不明の扱いとなっていますが、朝廷中枢に関与していたと推定した上で飛鳥藤原京の存在から和同元年4月に死亡届が出された従四位下柿本佐留の存在に注目が集まります。歴史を通じて柿本一族自体が弱小氏族であること、また、律令体制により役人の定員が定まっていて厳格に運用されていただろう制度制定の初期段階で各省庁の長官や局長級となる五位以上の殿上人(大夫)を出す人数が限定されていたと考えると、柿本人麻呂を柿本佐留に比定することで、続日本紀に載る佐留の子の建石、孫の市守などの関係が見えて来ます。昭和では人物不明な人が飛鳥藤原京の存在を認めた平成時代後期以降では、おおよその人物像が定まって来るのです。このように、平成時代中期を境に万葉集の人物や社会に対する評価は大きく違うことを確認して万葉集を鑑賞する必要があります。飛鳥藤原京の遺跡の再確認により、このように歴史の扱いが大きく変化しているのです。

 ここで、話題を変えて、その王都について、遊びたいと思います。
 言葉で「大津宮」の「宮」、「藤原京」の「京」と、天皇が政治を執った地域を示すものでも、その呼び方に「宮」と「京」の区分があります。なお、皇族などの私邸も「宮」の呼称を付けて呼ぶこともありますが、ここでは政治が行われた場所や区域を示す「宮」と「京」との言葉の違いなどに遊びます。
 国土交通省のHPから歴史での政治の中心となる場所や区域の呼称の解説を参考にしますと、大王や天皇が寝起きするような私的空間である「内廷」と行政実務を行う公的空間である「外廷」が明確に分離した行政府としての機能を持つ場所を「宮」とし、その「内廷」と「外廷」とをひっくるめた場所である「宮」の周囲の、いわゆる京域の中に貴族を含めた人々が集まり住んだ区画整理された区域を「京」と解説し、定義としています。加えて、あくまでも都市計画された空間であることが最低要件です。ここから本論で考える「宮」と「京」の言葉の理解からしますと、「宮」は前期難波宮から始まり、「京」は藤原京から始まったとなります。ここでの論説では、皇族を「〇〇宮」と敬称することから、その「〇〇宮」の居住する場所を「〇〇宮邸」とし、さらに略称してその邸宅を「〇〇宮」と呼ぶものとは違います。
 ここで、晩期奈良時代の都に一般に「長岡京」と称される区域があります。この長岡の「宮」を取り囲む京域に貴族や官人が生活の中心基盤を置く区画が生活実態を伴って存在しないとから「長岡京」ではなく「長岡宮」です。貴族や官人が平城京に邸宅・役宅を持ち、単身赴任ベースのような勤務状態では「宮」であり、「京」ではありません。この長岡宮は従来の慣習を避け、長岡宮の建設に当たっては後期平城京の建物群の解体・移築ではなく、水運の良い後期難波宮の建物群を解体・移築し建設しています。このため、長岡宮の時代にあっても、平城京域に貴族階級は生活拠点を持っていたと考えられています。このような背景があるために、平城天皇が、京域の建設が未了だった平安京から後期平城京への再遷都のような動きを見せることが可能だったのです。
 そのため、ここでは「長岡宮」と呼称・区分します。なお、言葉の規定からすると、藤原京にも藤原宮はあり、平城京にも平城宮はあります。ここで重要なのですが、当時の貴族や官僚たちは、下々の生活空間をイメージする「京」と云う言葉の認識よりも、天皇・天子が御座する「宮」と云う言葉を重く認識していたと思われます。
 さて、平城京や平安京を恒久の王都と表現することがありますが、当時の天皇や貴族たちは、どうも、そのようには考えていなかったようです。平安京が桓武天皇以来、明治の養老律令が廃止され大日本帝国憲法の発布とそれを根拠とする議員内閣制に従った国会議堂の設置がされるまでは、公式には日本国の恒久の王都となっていますが、平安期の平城天皇が出した大同元年(806)七月十三日の詔からすると、先帝である桓武天皇が平安京建設や奥州征伐などにお金を使いすぎて、大和の大王としての慣例である「國家恒例、就吉之後、遷御新宮」や「於是百官奉表拜賀曰、亮陰之後、更建新宮。古往今來、以爲故實。臣等准據舊例、預請處裁」が国家としての資金不足により新宮建設と遷都が出来なくなった結果論です。平安時代初期、国家は貴族生活を支える民からの財の簒奪装置へと変質した為、日本国全体の国力としては新宮を建設し遷都を実行するだけの経済規模を維持していますが、その国富は貴族や僧侶の華美な生活維持に回され、朝廷自体にはお金がありませんでした。その状況を受け、多額なお金を必要とする華美な仏教は国家から援助を受ける付属機関の形からそれぞれに特定の有力貴族をパトロンとする方向に変質します。
 歴史としては、桓武天皇は延暦三年(784)五月に長岡の地に新たな「長岡宮」の建設を開始し、翌延暦四年(785)九月に後期難波宮を解体・移築した長岡宮への遷都の宣言をします。ただ、延暦七年(788)九月に「建都長岡、而宮室未就、興作稍多、徴発之苦、頗在百姓。」の詔が出ていて、遷都宣言の延暦四年に長岡宮が完成した訳ではありません。さらに、延暦十年(791)九月になっても、桓武天皇から「仰越前・丹波・但馬・播磨・美作・備前・阿波・伊予等国、壊運平城宮諸門、以移作長岡宮矣」の命令が出ています。延暦十年になってもまだ、長岡宮を囲む塀や門の整備も進んでいないのです。
 このような長岡宮の建設が未了の状態で、延暦十二年(793)正月に桓武天皇は遷都を前提とした「始造山背新宮」と、場所を変更して山背新宮の建設を開始します。この山背新宮が現在の平安京のことを指します。山背新宮は延暦十二年に建設を開始しますが、延暦二四年(805)に桓武天皇が体調不良により執務が不能となるまで未完成のままで宮域の建設は続いています。朝廷は桓武天皇の死亡が確認された大同元年(806)二月になってやっと、山背新宮の建設の担当部署である「造宮職」の職務を停止します。前後しますが、延暦二四年(805)十二月に、太政官府は「公卿奏議曰、伏奉綸旨、營造未已、黎民或弊。」とし、山背新宮の建設停止を宣言しています。
 つまり、桓武天皇による延暦三年(784)から延暦24年(805)の20年間に渡る長岡宮と山背新宮との王宮建設に国力は尽きたのです。その状況下、世の中の怨嗟を抑えるために嵯峨天皇は「欲使後世子孫无所加益」として、「國家恒例、就吉之後、遷御新宮」はしないと宣言せざるをえなかったと考えます。
 逆に平城天皇が出したその大同元年(806)7月13日の詔からすると、新帝は新宮を建てるのが大和の新任大王の故実であり、旧例なのです。新帝は資金があれば新宮を建て、遷都を行うべき話なのです。ただ、平安時代は飛鳥・奈良時代とは違い、朝廷にお金がありません。未完成の平安京ですが、それを使うしかなかったのです。

大同元年(806)七月甲辰(13):平城天皇の詔
甲辰。詔曰、比公卿奏、日月云除、聖忌將周、國家恒例、就吉之後、遷御新宮。請預營搆者、此上都先帝所建、水陸所湊、道里惟均、故不憚煩勞。期以永逸、棟宇相望、規摸合度、欲使後世子孫无所加益。朕忝承聖基、嗣守神器、更事興作、恐乖成規。夫漢代露臺、尚愛十家之産、大廈層搆、亦非一木之枝。朕爲民父母、不欲煩勞。思據舊宮、禮亦宜之、卿等合知朕此意焉。於是百官奉表拜賀曰、亮陰之後、更建新宮、古往今來、以爲故實、臣等准據舊例、預請處裁。伏奉今月十三日勅稱、朕爲民父母、不欲煩勞、思據舊宮、禮亦宜之、臣等忝聞綸旨。載喜載悲、誠以孝子充成父志、遂昌堂搆者也。

 それでそれ以降の天皇、嵯峨天皇たちはこの詔を根拠に朝廷の財政事情から新帝の新宮建設をあきらめます。律令体制の執務の利便性や水運輸送、また、鴨川などからの水害被害などを考慮すると桓武天皇や嵯峨天皇が離宮を建て、頻繁に通った交野・枚方付近に嵯峨天皇は遷都しても良かったのです。ただ、朝廷と言う国家自体と公地公民により土地から切り離されてしまった中級階層以下の官人達には遷都を行うだけのお金が無かったのです。
 ちょっと別な話題として、「天皇」と云う言葉に関わる重大な資料として「法隆寺金堂薬師如来像光背銘」と云うものがあり、光背銘に次のような文章が残されています。

池邊大宮治天下天皇、大御身勞賜時、歳次丙午年、召於大王天皇與太子而誓願賜我大御病太平欲坐故、将造寺薬師像作仕奉詔。然當時、崩賜造不堪。小治田大宮治天下大王天皇及東宮聖王、大命受賜而歳次丁卯年仕奉

 この文章で示す大王は用明天皇、天皇は推古天皇、太子・東宮聖王は聖徳太子を意味します。旧来は薬師如来像光背銘の作成年代を推古天皇の時代と考えていましたが、現代では天武天皇の飛鳥浄御原宮時代と考えられています。つまり、飛鳥浄御原宮時代にあっても隋煬帝皇帝が指摘した「早暁の神事を執る兄と日中の政務を執る弟」との組み合わせのような宗教を執る天皇と政治を執る大王との区分があったと思われるのです。次の律令時代では宗教を執る天皇と太政官府を率いる太政大臣とを区分するのと同じと思われるのです。先に紹介した文書に示す平城天皇の詔の「就吉」について、私は大王の就吉を意味すると考えます。
 すると、平城天皇が出した大同元年の詔で示す、新任の大和の大王は新宮を建て遷都するのが旧例とすると、その旧例とは何かの視点から歴史を眺めてみたいと思います。なお、聖武皇帝と桓武皇帝の「皇帝」の敬称は続日本紀の表記に従っています。

前期難波宮: 孝徳大王
(後飛鳥岡本宮): (葛城皇子/斉明天皇)
近江大津宮: 天智大王
飛鳥浄御原宮: 天武大王
飛鳥藤原京: 高市大王
前期平城京: (軽皇子)元正天皇(石田大王?)
恭仁宮(未完): 聖武皇帝
近江紫香楽宮(未完): 聖武皇帝
後期難波宮(未完): 聖武皇帝
後期平城京: 聖武皇帝
保良宮(未完): 淳仁天皇
(後期平城京): (称徳天皇)
楊梅宮(未完): 光仁天皇
長岡宮(未完): (光仁天皇)桓武皇帝
平安京: 桓武皇帝

 このように歴史を並べますと、前期平城京を建て遷都した元正天皇だけが政治を執る大王のような立場となり、「國家恒例、就吉之後、遷御新宮」の旧例から外れることになります。斉明天皇の後飛鳥岡本宮は元の場所に戻った形ですし、称徳天皇の後期平城京も元々の宮に戻っただけで、専門の組織を設けて新宮を建てた訳ではありません。前期平城京建設の発議は慶雲四年(707)二月で軽皇子(文武天皇)の時代ですが、その六月に軽皇子は崩御されています。通例なら、そこで保留となるのですが、続日本紀では元正天皇が新宮建設を引き継いだとなっています。なお、万葉集に載る歌での敬称問題からすると軽皇子=文武天皇即位説よりも石田王の大王就任の可能性が高くなりますが、この問題は以前に「肩書で読む万葉歌」で紹介しました。
 さて、ここでのものは万葉集を中心に与太話をするものですから、万葉集に遊びますと、元明天皇により遷都の詔が出された和銅元年(708)の時代、万葉集の集歌420で「大王」として挽歌が贈られた人物がいます。それが石田王です。ちょうど、飛鳥藤原京の建設で「大王」と詠われた高市皇子と同様です。
 この石田王は歴史においては有名人ではありませんが万葉集の歌から推定すると弓削皇子と紀皇女との御子と思われる人物です。つまり、親王と内親王との御子となり、この場合、その高貴な石田王の血統に匹敵するのは、歴史上、草壁皇子と阿閉皇女との御子の軽皇子、高市皇子と御名部皇女との御子の長屋王、その長屋王と吉備内親王との御子の膳部王、光仁天皇と尾張女王と御子の薭田親王ぐらいです。ただし、歴史では日本書紀や続日本紀に石田王の記事を載せないため、歴史では闇の中の人物です。
 万葉集にあって、集歌423の長歌による挽歌で石田王に弔意をささげたとされる山前王は忍壁皇子の御子で慶雲二年(705)に無位から従四位下へ叙任されていますから、規定からすると高貴な皇族成人として慶雲二年に21歳になられたのでしょう。この頃、山前王の父親の忍壁皇子は知太政大臣に就任しており、ある種、大王の地位にありました。集歌423の歌からすると石田王と山前王とは年の似通った遊び仲間の雰囲気がありますから、同年代と考えられます。山前王の母親の記録は不明ですが、血筋関係を考えると山前王は石田王に付けられた御学友的な存在だったと思われます。律令規定を前提に、山前王はその身分から21歳で従四位下に叙位されますから、慶雲二年から逆算して生まれは天武14年(685)です。すると御学友的な立場を仮定しますと、石田王は持統元年(687)前後の生まれとなります。この場合、和銅元年(708)は石田王の皇族成人の年に当たります。
 私の思い込みですが、大和の大王にはおおむね30歳後半以降に就任するイメージがあり、当時の人もそのイメージの感覚で大王候補者の成長を待って大王の就任と新宮の建設を考えていたと思います。ただ、その思惑とは違い、最有力候補者であった草壁皇子(岡宮天皇)と軽皇子(文武天皇)とは新宮の建設の前に亡くなられています。その苦い前例を踏まえて、当時の人々は大和の大王の就任と新宮の建設とをセットにしたと妄想します。ただし、二度あることは三度あるではありませんが、草壁皇子と軽皇子に習い、石田皇子も和銅年間に亡くなられたと思われます。続日本紀の記事からすると、和銅7年(714)六月に「大赦天下」の記事がありますから、可能性として石田皇子はこの頃に亡くなれたと思います。
 なお、一般には同じ月の6月25日に「皇太子加元服」の記事が有るために「大赦天下」はこれを祝うためと解釈しますが、歴史は元正天皇から氷高内親王(元正天皇)へと繋ぎます。創作歴史とは別に「皇太子(首王、聖武天皇)」が歴史に登場するのは「長屋王の変」による、藤原氏のクーデター以降です。
 可能性として、石田王は大王として第一次平城京域内東側に平城宮を建て、次の長屋王は同じく大王として第一次平城京域内南東側に長屋宮を建てたと妄想しています。

石田王卒之時、丹生王作謌一首并短謌
標訓 石田王の卒(みまか)りし時に、丹生(にふの)王(おほきみ)の作れる歌一首并せて短歌
集歌420 
原文 名湯竹乃 十縁皇子 狭丹頬相 吾大王者 隠久乃 始瀬乃山尓 神左備尓 伊都伎坐等 玉梓乃 人曽言鶴 於余頭礼可 吾聞都流 枉言加 我間都流母 天地尓 悔事乃 世開乃 悔言者 天雲乃 曽久敝能極 天地乃 至流左右二 杖策毛 不衝毛去而 夕衢占問 石卜以而 吾屋戸尓 御諸乎立而 枕邊尓 齊戸乎居 竹玉乎 無間貫垂 木綿手次 可比奈尓懸而 天有 左佐羅能小野之 七相菅 手取持而 久堅乃 天川原尓 出立而 潔身而麻之身 高山乃 石穂乃上尓 伊座都流香物
訓読 なゆ竹の とをよる皇子 さ似(に)つらふ 吾(わ)が大王(おほきみ)は 隠国(こもくり)の 泊瀬の山に 神さびに 斎(いつ)きいますと 玉梓の 人ぞ言ひつる 逆言(およづれ)か 吾が聞きつる 枉言(まがこと)か 吾が祀(ま)つるも 天地に 悔(くや)しきことの 世間(よのなか)の 悔しきことは 天雲の そくへの極(きは)み 天地の 至(いた)れるさへに 杖(つゑ)策(つ)きも 衝(つ)かずも行きて 夕衢(ゆうまち)占(うら)問ひ 石卜(いしうら)もちし 吾が屋戸(やと)に 御諸(みもろ)を立てて 枕辺(まくらへ)に 斎(いはひ)瓮(へ)を据ゑ 竹玉(たかたま)を 間(ま)なく貫(ぬ)き垂れ 木綿(ゆふ)襷(たすき) かひなに懸(か)けて 天にある 左佐羅(ささら)の小野し 七節菅(ななふすげ) 手に取り持ちて ひさかたの 天つ川原に 出で立ちて 潔身(みそぎ)しましみ 高山の 巌(いはほ)の上(うへ)に 坐(いま)せつるかも
私訳 なよ竹のとをよる采女の歌に詠われた皇子に似た我が大王は、人が隠れるという隠口の泊瀬の山に神のように祀られていますと、美しい梓の杖を持つ使いの人が言うのは逆言でしょうか、私が聞いたのはでたらめでしょうか。私が大王の末永い命をお祈りしても、天上と地上での悔しいことの、人の世の悔しいことは、天の雲が退いていく極み、天と地が接する所に至るまでに、杖をついても、また杖をつかなくても行って、夕方の辻占いで人の言葉を問い、石卜(いしうらな)いもしました。私の家に神祀りの御諸を立て、貴方の枕元には斎瓮を据えて、竹玉を沢山に紐に通して垂らしました。貴方は木綿の襷を腕に掛けて、天上にある左佐羅の小野の七節の菅を手に取って持って、そして、遥か彼方の天上の天の川原に出で立って神の禊をしまった。貴方は高山の巌の上にいらっしゃるのでしょうか。

 歴史の中で平城天皇の詔の意味を最大限に妄想するとこのような与太話へと展開が出来ますが、恣意的にデータを分析すると、まったくの与太話なのか、多少は可能性があるものなのか、そこの判断が難しくなります。

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