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紫式部たち、遊びの教養 その1

 色々あって、このテーマはその1とその2の二部構成で2回に分けて紹介し、その後に関連物を2回、都合、4回ほど載せます。テーマに示すように某NHKの大河ドラマに便乗したような、嫌らしい精神からのものです。
 今回は私個人特有の憶測を下に万葉集に載る柿本人麻呂と隠れ妻との間で交わされた相聞歌を中心に遊びます。ただ、遊びでは上古の中医学の四部類(医経、経方、房中、神仙)の内の房中術とその図解である偃息図(おそくず)への、平安貴族たちの知識をベースとしています。そのために内容は実に与太で、眉唾で、バレ話です。まず、紳士淑女や18歳以下の御方には向きません。
 ちなみに房中術の文献の多くは『医心方 房内篇』に納められており、その『房内篇』は上古の中医学の中核を成すものですが、明治政府により『医心方』の内の『房内篇』だけは内容淫卑との理由で一般向けには発禁扱いとなり、改めて外部で中医学文献と扱われるようになるのは昭和中期です。このような背景がありますから、解禁となった昭和中期以降でも上古の古典文学と房中術や偃息図との関係を調べて、遊ぶ人はあまりいません。ただし反面、房内や偃息図等は大宝律令が指定する医学教育の教本ですから、少なくとも、飛鳥藤原京から前期平城京時代までには貴族の中では流布していますし、平安時代では貴族の中では知るべき教養です。なお、私が調べた限りでは「医疾令」に従い医学授業で使用したはずの偃息図そのものは現在に伝わっていません。
 さて前置きはそこそこにして、最初に万葉集に紹介される柿本人麻呂歌集に載る集歌2391の歌に遊びます。

集歌2391 
原文 玉響 昨夕 見物 今朝 可戀物
訓読 玉(たま)響(とよ)む昨日の夕見しものを今日の朝に恋ふべきものを
私訳 美しい玉のような響きの声。昨日の夜に見たあなたの姿は、今日の朝には私が恋い慕うべき姿です。

 私が運営するブログでは、上記に紹介したような鑑賞となっていますが、当然、標準的な解釈は違います。ネット上での多数決は次のようなものです。大きな相違は初句の「玉響」の解釈にあり、標準は「響」を光の状態として解釈し「かぎる」と訓じます。音として解釈しませんから漢字原義の「聲也」や「声音」からすると特殊な解釈となります。ただ、『康煕字典』には「響之附聲、如影之著形。」と云う解説がありますから、そこから玉が淡い光にほのかに輝く様の意を取る可能性はあります。ただその場合、厳密に歌を解釈すると全体が意味不明になりますので、標準には意味不詳の口調を調える枕詞として扱います。漢字原義解説では、実態の姿と影の関係を例にした聲と響の付属関係ですが、この「かぎる」の解釈は昭和時代までの相当な力技の成果です。なお、万葉学者の仲間内では非公式に「響」は女性の声の状態として解釈するようです。

標準的な鑑賞
原文 玉響 昨夕 見物 今朝 可戀物
訓読 玉かぎる、昨日の夕へ、見しものを、今日の朝に、恋ふべきものか
解釈 きのうの夕方にお会いしたのに、もう今朝になって恋しくなっていいものでしょうか。
 
 解釈態度で、私の解釈では非常に性的な歌となり、一方では口調の良い凡なる恋歌となります。また、私の解釈では後朝の別れでの男から女への贈歌としますが、標準解釈では逆に後朝の男からの贈歌に対する女の返歌と扱います。鑑賞態度では全く逆の鑑賞となります。ただ、万葉集の約束では女は好きな男を「物」とは表現はしません。人麻呂歌集の歌では「君」や「公」の表記を使います。また、男女交際の場面で特別に「男性の物」を意味する場合は「太刀」のような身分を持つ男性が腰に帯びるシンボルにより婉曲に表現します。歌は男が見た「物」がテーマです。そこの感性の差が与太の私の解釈と標準解釈との差として現れます。
 今回はテーマに「紫式部たち、遊びの教養」と大きく名付けました。ここで、平安時代中期に漢文による文章作成時の参考にするべき先行する名文を集めた『本朝文粹』が藤原明衡により編まれています。その巻第一に大江朝綱の『男女婚姻賦』と云う作品があります。この大江朝綱は有名な紫式部や清少納言より一つ前の世代の人で、平安時代前期後半を代表する文化人です。紹介する『男女婚姻賦』は、漢文を自在に出来る人たちがその教養を競う宴会で披露されたと思われる性を扱った砕けた漢文章です。
 ただ、この賦を鑑賞するには房中術を説明する素女経などやそこで示す男女の体位を図示する偃息図を知っている必要があります。概略的に『男女婚姻賦』を鑑賞しますと、「露白雪之膚」の姿の女性が男性の愛撫により「入門有濕、淫水出以汚襌。窺戸無人、吟聲高而不禁。」の痴態を見せます。大江朝綱はさらに「是知、媚感難免」と続けます。つまり、平安貴族の中では愛撫で感情が高ぶると『房内篇・和志』で「洞玄子」が「千嬌既申」と述べるように、女性は「千嬌」や「吟聲高」の姿を相手の男性に見せることが約束です。抱く女性をその約束通りの姿にする平安貴族が、昨夜の女性が「玉響」だったと詠う和歌を鑑賞すれば古典の約束通りに理解すると思います。およそ、万葉集で柿本人麻呂は昨夜のそのような女性の姿を「玉響」の二文字で明確に示し、『男女婚姻賦』で大江朝綱は同じような女性の姿を紹介した二十文字の漢文対句で説明します。まず、房中術を理解している飛鳥藤原京の男も、平安京の男も、男として女性が「玉響」や「吟聲高」となるほどに愛撫を施し、「女必求死求生」となった女性に「太刀」や「鐵槌」で愛の行為でのとどめを挿すのが夜の床での礼儀です。
 話が前後しますがここで房中術と偃息図を簡単に説明しますと、房中術は中国医療方法の一つです。性行為を楽しむ人は男女を問わず、高齢になっても若々しい姿を保っていることを中国の方々は長い歴史と経験で知り、荒淫にならない範囲で性行為を養生・保健の医療行為として発達させたものです。養生・保健の医療行為ですから、性行為を楽しむ、また、荒淫とならないように具体的な方法や推薦すべき回数や頻度を年齢毎に示しています。その解説書となる日本で編まれた『医心方 房内篇』では、施術法となる房中術の詳細を中国で編まれた素女経、玄女経、洞玄子、玉房秘訣など引用して説明します。また、偃息図は玄女経や洞玄子などに示す性交体位を中心に具体的な解説図・図解として示したものと考えられています。ただ、この房中術と偃息図は扱い様によっては性行為を詳細する完全なポルノです。日本では飛鳥時代から今日まで中国医療として伝わっていますが、大陸や半島では日本の明治政府と同様な態度で、唐末以降では朱子学の指導によりポルノの扱いを受け、秘匿書籍・卑猥春画としてアンダーグランドなものとなり清朝までには素女経、玄女経、洞玄子、玉房秘訣などの書籍は失われています。
 日本の状況は奈良時代には『養老律令』の「醫疾令」に規定するように最先端な中国医療として朝廷が養成する医者や針医者の習得科目として房内と偃息図等が指定されています。医者や針医者の卒業試験では、あの大伴家持も務めた宮内卿輔の地位にある文官が担当官庁の責任者の立場で立ち会い、卒業試験受験者の知識・技量を確認することになっていますから、建前としてその職務に任官する可能性のある奈良時代の高級文官は房中術と偃息図等の知識を予定職務として十分に持っていたことになります。推定で房中術と偃息図等の知識は、遅くとも額田王や柿本人麻呂より前の飛鳥時代前期、留学僧の僧旻や医恵日たちが唐から持ち帰り、貴族階級には知られていたと思います。「醫疾令」の規定はその反映と考えます。
 また、平安時代初期、『恒貞親王伝』に「親王初在東宮、無好図画、或進偃息図一巻。親王命而焚之曰、此致辱於所生也。」の文章を見ることが出来ますから、逆説的に平安時代でも医者や針医者だけでなく、知識階層にも偃息図などは広く知られています。さらに、共に藤原明衡の手による作文手本書である『本朝文粹』に収録する「鐵槌傳」では「偃側房内之術」の一節、また、『新猿樂記』の「十六 女者遊女」段では「偃仰養風之態、琴絃麥之齒德、」と房中術の「至琴弦、麥歯之間」を引用する一節がありますから、平安中期、紫式部の時代にあっても房中術と偃息図の知識は宮中の知識階級にはあります。ほぼ、奈良時代の朝廷・貴族の知識はそのままに平安時代の朝廷・貴族に引き継がれたと考えられます。そのような歴史的伝統があるため、藤原明衡たち平安貴族は房中術の知識を下に大江朝綱の『男女婚姻賦』に遊ぶことが出来たと思います。また、『本朝文粹』は文章を書く時の標準文章形式の手引き集ですから、皇后や妃たちの書記官を務める上級女房たちが知らない可能性はありません。つまり、紫式部も清少納言も皇后や妃たちの書記官を務める上級女房ですから、十分に知っています。
 ここまでの紹介を下に平安貴族たちが平安中期までは確実に房中術と偃息図の知識があったことを前提に次の歌を楽しみたいと思います。これも柿本人麻呂歌集の歌ですし、先の集歌2391の歌と関係付けて楽しむと、その時の男女の姿が明確に浮かび上がると思います。

集歌2389
原文 烏玉 是夜莫明 朱引 朝行公 待苦
訓読 ぬばたまのこの夜な明けそ朱らひく朝行く君を待たば苦しも
私訳 漆黒の闇のこの夜よ明けるな、貴方によって私の体を朱に染めている、その朱に染まる朝焼けの早朝に帰って行く貴方を、また次に逢うときまで待つのが辛い。

標準的な鑑賞
原文 烏玉 是夜莫明 朱引 朝行公 待苦
訓読 ぬばたまのこの夜な明けそあからひく朝行く君を待たば苦しも
解釈 夜よ明けないでください。朝になったら帰ってゆくあなたを、また次に逢うまで待つのは苦しいですもの

 標準解釈では「朱引(あからひく)」は「朝」に掛かる枕詞として、特別、重要な意味を取りません。それが標準的な鑑賞に示す態度です。頑張って、「朝焼けの光の中、その朝になったら」程度です。他方、集歌2391の歌で枕詞として処理した「玉響」に当時、最先端の中国医療である房中術が関係しているとしますと、「朱引」に房中術の姿を見ることが可能です。『房内篇 五征』では「玉房秘訣」を引用して、大江朝綱が記す、褥で「解単袴之紐」され「露白雪之膚」の姿となった女性は、五態の内、愛撫により最初に「一曰、恩赤」の状態になるとします。この「恩」は「澤」の意味合いがあり、白い女性の膚が高揚により潤い赤に染まる姿を意味します。房中術では、性行為を楽しむためには最初に男性は丁寧な愛撫を施して「一曰、恩赤」となったことを確認しなさいとします。
 参考として、房中術で女性の状態を示す「五征」では、男性が丁寧に愛撫を行えば、女性の肌は赤く染まり、乳首は硬く立ち、鼻先は汗ばみ、さらに、最初、乾いていた喉に唾が溢れ、陰部は愛液で滑らかとなり、最後にはその愛液がお尻の裏までに溢れ出るようになると説明します。房中術ではこのような愛撫は男性の義務のような扱いをします。
 加えて、房中術は非常に親切な医療書で、このように女性側の準備が整っているのに、どうしても男性が「玉茎不起」の場合は、男性は自ら「采其溢精、取液丁口、精気還化」を試しなさいと諭します。なお、「丁口」は「口を丁(あて)る」と訓じます。またなぜか、急に男性が「女欲接、而男不欲」となったら、パートナーの女性は、淫女で悪名高く『列女伝』に「其狀美好無匹、内挾伎術、蓋老而復壯者。」と人物紹介される陳国の夏姬が体得した内挾の伎術を用い、玉茎に「吸精引気」の術を施して、やる気を出すようにしなさいと諭します。当然、「内挾」の伎は「玉茎不起」に対して行いますから、実技可能性からすれば「内」とは乳房の間ではなく口腔の事です。おっぱいでフニャを挟むのは実務上、どうでしょうか。また養生保養には、中高年男性と年若い女性、中高年女性と青年男性の組み合わせを推薦しますから、数え歳で14歳から15歳、実年齢で13歳程度の年若い女性の標準的な施術法としておっぱいにフニャの陰茎を挟むだけの大きさを求めるのは無理があります。
 気を取り直して、万葉集の研究者は、奈良時代中期にあって越中国への単身赴任の大伴家持と都に残った妻 大伴坂上大嬢とで交わした相聞歌から夫婦共に『遊仙窟』を原書から楽しんでいたと指摘します。『遊仙窟』の原文と『房内篇』の原文とを比べますと、『遊仙窟』の方が漢文としてのレベルは高いものがあります。時代として、奈良時代には宮内卿輔などの高級官僚は医学生の卒業試験立ち合いなどの職務として房中術と偃息図の知識がありますから、大伴坂上大嬢(または補佐の女房たち)もまた若くして宮内少輔を務めた大伴家持を通じて同様な知識はあったと推測します。そこからの類推で飛鳥藤原京から初期平城京で皇族と緊密な関係を持つ柿本人麻呂や隠れ妻もまた房中術と偃息図の知識はあったと思います。
 大江朝綱、紫式部、藤原明衡たち、平安貴族は『房内篇』の「五征」などの文章を十分に知っていますから、柿本人麻呂と隠れ妻との後朝の朝を詠う和歌に「朱引」の言葉が有れば、掛詞として昨夜の二人の行為の内容を十分に想像できますし、「待苦」の言葉からたっぷりと愛して貰ったけど、物足りないと云う女性の感覚も理解できたと思います。
 最初に戻りますが、私の解釈では「玉響」が男から女への歌で、この「朱引」が女から男への返歌と考えます。ある種、男女二人が夜通しで房中術の実技を研究した成果を示す和歌と思わせるものがあります。およそ、そのような感覚で平安貴族たちは柿本人麻呂の歌を鑑賞していたのではないでしょうか。男女濃厚な『源氏物語』で浮舟の巻で「添ひ臥したる画を描き」と扱う紫式部は、その『源氏物語』に多数の柿本人麻呂の恋歌を引用しますから、このような背景を十分に理解した上での人麻呂のファンだったと思われます。まず、「朱引」の言葉を枕詞で処理をするのはもったいないと考えます。
 柿本人麻呂歌集を離れて、少し、目線を変えます。ここまでに紹介しましたように、平安時代中期ごろまでは、平安貴族は『本朝文粹』の「男女婚姻賦」や「鐵槌傳」、また、『新猿樂記』の「十六 女者遊女」の段などのように漢文で淫卑な世界を描くための例文集を集めて編み、それを貴族たちは筆写し、回覧・学習しています。これらの例文には「學龍飛虎步之術」とか、「偃仰養風之態、琴絃麥之齒德、苗飛虎步之用無不具」などの文章があり、源氏物語での引き歌技法と同様な方法で示すその性交体位名から『房内篇』で示す具体的な性交描写を想像することで淫卑な笑いとしますが、反面、房中術と偃息図の知識が無ければ、文章の、その性なる笑いの理由が判りません。『本朝文粹』は文章の基本例題集でするからそこでのものを承知している紫式部たち宮中女房はその淫卑な笑いの背景も承知しています。それが源氏物語ごろまでの平安貴族の教養水準です。ちなみに龍飛が正常位で、虎步がお尻を少し抱えた後背位ですし、男女が共同して行う腰のリズムはそれぞれの体位で違います。
 文芸作品を楽しむ貴族階級の読解能力を想像しながら、次に紹介する歌を房中術と偃息図の知識を持って原文から鑑賞するか、白紙の状態で鑑賞するかを考えて見たいと思います。使われている漢字群に作歌者の特別な意図が示されているとして和歌を楽しむか、単なる詩体歌の和歌として楽しむかで、解釈の内容は全くに変わります。

詠和琴
標訓 和琴を詠める
集歌1129
原文 琴取者 嘆先立 盖毛 琴之下樋尓 嬬哉匿有
訓読 琴取れば嘆き先立つけだしくも琴し下樋(したひ)に妻や匿(こも)れる
私訳 琴(=陰核)を奏でるとその響す音色に賞讃の想いがまず現れ、覆う和毛、さらにその先の、素晴らしい音色を響す琴(=陰核)から樋(=陰唇)を下へと辿って行くと、そこには妻(=膣)が隠れています

標準的な解釈
原文 琴取者 嘆先立 盖毛 琴之下樋尓 嬬哉匿有
訓読 琴取れば嘆き先立つけだしくも琴の下樋に妻や匿れる
私訳 琴を手に取ると嘆きが先に出る。もしかして、その音色からすると琴の胴の中に妻が隠れているのだろうか。

 今回、最初から話題としています『房内篇』に載せる「玉房秘訣」に「至琴弦、麥歯之間」と云う一節があり、これが何を意味しているかで諸説があります。ただ、大陸では房中術関係の書籍が唐末までにほとんどが失われており、大陸側からの資料で調べることが出来ません。そこで「琴弦」の言葉を中心に日本に残った『房内篇』に探しますと、「浅刺琴弦、入三寸半當閉口」、「以両手抱女腰、進玉茎於琴弦中」、「凡欲泄精之時、必須候女快、與精一時同泄。男須浅拔、游於琴弦、麥歯之間。」、「九浅一深、至琴弦、麥歯之間」などの文章を見ることが出来ます。
 房中術関連書籍が医学書であること、又、使う漢字は秦・漢時代の上古の意味合いを反映しているだろうと仮定しますと、まず、「琴弦」の「弦」の漢字には半円状のもの、湾曲したものの意味があります。他方、『房内篇』が引用する各経が揃ってきた秦・漢時代の「寸」は約2.3cmですから「三寸半」は約8cmで、これは唐以降の一寸が約3cmよりも短いことになります。そうした時、一般に日本人女性の膣の深さ/奥行は約8cmと報告しますから、先の文章「浅刺琴弦、入三寸半當閉口」を「琴弦を浅く刺し、入ること三寸半にして閉口に當たる」と訓じると、「閉口」とは子宮口と推定されます。すると、男性器挿入からすると琴弦は小陰唇で、膣入口部を指すと考えられます。男性器の挿入深さは子宮口までが限度ですから「九浅一深」の「一深」は子宮口までとなり、論として「麥歯」は子宮口を指すと考えられます。なお、漢字「麥」は「麦・芒穀」以外に「大菊(瞿麥)」や「金」の意味合いを持ち、「歯」は「始」の意味合いを持ちます。膣の子宮口から小陰唇入口までの形を菊花系の蕾の内側の譬えとすると子宮口はその蕾の始まり部分となりますから、「麥歯」は漢字原義と形状から子宮口を指す上古の医学用語との推測も成り立ちます。
 戻って、「琴弦」が小陰唇を指すとしますと、その「弦」の出発点は陰核ですから「琴」は陰核を示す上古の医学用語と考えられます。すると、集歌1129の句「琴之下樋」の「下樋」は「洞玄子」が示す「金溝」と共通する同じ形状の可能性があります。つまり、「露白雪之膚」となった女性の陰部を眺めた時に最初に見えて来る左右の外陰唇で作る溝状のものです。房中術では体形・体質での美人の条件の一つに陰部の無毛や淡いことを挙げますから、腰布を外せば溝状のものは手で体毛に触れ分けることなく目視できることになります。ただし、集歌1129では「盖毛」と記しますから、「下樋(隠れた樋)」は陰毛で覆われていますから、大和女性の「下樋」を眺めるには男性は自らの体を入れて女性の腿を割る必要があります。加えて、歌で使う漢字「嬬」について、『說文解字注』では「嬬之言濡也。濡、柔也。」と解説し、肉体的には「嬬」には湿ったところ、柔らかいところを意味し、転じて女性器的な意味があります。このように集歌1129の歌で使う漢字一字一字に隠れた漢字原義を探る必要があります。
 後漢時代、張衡の『同聲歌』では、歌中の女性が主人を褥に誘う場面で、部屋には「高下華燈光」が灯り、その黄色い明りの下に「衣解金粉御」と、燈光で黄金色に染まった裸体があり、次いで「列圖陳枕張」と示すように枕元に偃息図を並べ、そこから貴方が選んだ好みの体位で夜を楽しみましょうと誘います。つまり、大陸では白い女性の裸体を淡く黄金色に照らし出す程度の燈光はありました。一方、大和の律令で定める全国各地からの調物/進物に各種の植物油や蜂房の名前が載りますから、灯明や蜜蝋製のロウソクなどはあります。宮中行事では豊明節会のように人工の照明を準備した大規模な宴会が開かれており、貴族階級では夜間でも十分な明るさを得ることは可能です。そのため、夜間に催される節会などでの歌会で木簡に墨で和歌や漢詩を書くことが出来るのと同等に、灯明などにより閨の内で女性の裸体のすみずみまでを眺めることは可能です。まず、江戸期の遊郭と同等以上の明りを想像する必要があります。夜の明りの歴史を下に平安貴族たちの日常生活感覚からすれば、集歌1129の歌に腰布を取ったときの風情を示した笑歌と理解したと思います。
 色々と房中術や漢字原義から解説しましたが、平安貴族は私の解釈と同等の感覚で万葉集の集歌1129の歌を眺めた可能性があります。なお、題材が「和琴」ですから、歌に詠われる女性は畿内大和地域の女性で、地方からの采女ではないと思います。
 明治政府は中医書の古典である『医心方』の復刻出版に際し「房内篇」だけは市販を禁止しました。その政府の態度は昭和時代も続き、「房内篇」の市販が進むのは昭和中期以降です。理由は、今回、ここで紹介した内容で満たされているからです。中国古典と「房内篇」を合せて読むと、現代風のフェラチオ・クンニリングスの技法や三十通りの性交体位も読み取れます。また、女性への愛撫方法も、体の寄せ方から始まり、キスの仕方、手や口を使った乳房への愛撫の方法なども紹介します。当然、性器への愛撫の仕方も紹介しますし、女性の状態を判断しての挿入のタイミング、絶頂と射精のタイミングも説きます。およそ、『医心方・房内篇』とはこのような書籍です。それで発禁処分の歴史があります。
 一方、歴史では少なくとも奈良貴族から平安時代中期までの貴族はこのような知識を持ち、くだけた宴会などでは笑い話のタネに使います。また、『源氏物語』の「浮舟」の巻では、薫君が自ら描いた偃息図を浮舟と共に眺める場面を載せますから、そこからすると男女を問わず、平安貴族の教養です。私の解釈からの立場は平安貴族がそうであったのなら、同じ資料を持つ万葉時代の貴族も同じだったと考えます。
 ただ、医心方・房内篇が昭和中期まで実質上の発禁処分でしたので、本朝文粹の男女婚姻賦や鐵槌傳に房内篇の関係を研究する人は、ほぼ、いませんし、さらに源氏物語などへの影響を確認する人もいません。卒論などで取り上げると面白いと思うのですが、さて、どうでしょうか。

参考資料;
『本朝文粹』 卷第一
男女婚姻賦 後江相公 (大江朝綱)
至剛者男、㝡柔者女。彼情感之交通、雖父母難禁禦。始使媒介、巧盡舌端之妙。繼以倭歌、彌亂心機之緒。原夫尋形難見、聞聲未相。思切切而含笑、語密密而斷腸。琪樹在庭、對貞松以契茂。嘉草植室、指金蘭以期香。徒觀夫其體微和、其意漸感。婀娜以居、類野小町之操。閑雅而語、抽在中將之瞻。思兮急發、興也方生。貌堂堂而盡美、勢巍巍而傾城。染紅袖於百和、猶耽芬馥。攜素手於一拳、已迷心情。矧夫女貴其貞潔、嫁成其婚姻、結千年之契態、快一夜之交親。曉露濕時、潤楚楚之服。夜月幽處、顯輝輝之身。占魏柳於黛、點燕脂於唇。昔纏羅帷、雖慙骨肉之族。今背紗燈、俄眤胡越之人。
於是、忍其初、親其後、解單袴之紐、更不知結。露白雪之膚、還忘厭醜。豈同穴之相好、是終身之匹偶。則知、形美者其愛深、感通者其身妊。不啻夫妻之配合、査凝子孫之庇蔭。入門有濕、淫水出以汚襌。窺戶無人、吟聲高而不禁。是知、媚感難免、誰有聖賢。苟陰陽之相感、知造化之自然。心屈閑臥、若忘歸於桃源之浦。精漏流眄、似覺夢於華胥之天。意惆悵而無止、思耿介而不眠。俾夫孀婦與角子、莫不聞之相憐。

『本朝文粹』 卷十二
鐵槌傳 羅泰(推定で藤原明衡)
予鴈門散吏、蝸舍閑居。寓目縑緗、遊心文籍。鐵處士、有名無傳。處士採藥嵩高、潛身袴下、老病痿躄、不好出仕。是以前史闕而不錄。夫以生育我者父母、導引我者鐵槌。陰陽之要路、血脈之通門也。吁嗟、吾生之所因出也。予綴集見聞、粗敘行事、非備自記、以資盧胡云。
鐵槌、字藺笠、袴下毛中人也。一名磨裸。其先出自鐵脛、身長七寸、大口尖頭、頸下有附贅。少時隱處袴下、公主頻召不起。漸及長大、出仕朱門、甚被寵幸、頃之擢為開國公。性甚敏給、能案賦樞。夙夜吟翫、切磨無倦。琴絃麥齒之奧、無不究通。為人勇捍、能破權勢之朱門。天下號曰破勢。
少時名卑微、同郡人兩公、友善之。朝夕相隨、不敢離貳。召為門下掾、身居脂膏之地、潤澤居多。雖有外交、而不俱內利。故號曰不俱利。一名下重、常嬰沈痾、能預知風雨之氣候。時人謂之為巢處公。
鐵槌子汲水、汲水子哀沒、哀沒子走破勢、走破勢嗣衰、鹿豬代立、淫溺益盛、然猶偶人也。
論曰、鐵處士者、袴下毛中之英豪也。動無常度、行必矩步。觀夫一剛一柔、體陰陽之氣候。或出或處、類君子之云為。況復治淫水而有功、掬熱湯而無傷、屬大階之升平、吐元氣之精液。當此之時、偃側房內之術、無不窮施。人倫大道之方、於斯備矣。蓋六籍闕而不談、先聖得而靡言。若余宣十分、未得一端、故略舉其梗槩云。
論曰、鐵子、木強能剛、老而不死、屈而更長。已施陰德、誠號摩良。精兵曉發、突騎夜忙。襲長公主、破少年娘。紫殿長閉、朱門自康。腐鼠搖動、鴻鴈翺翔。非骨非肉、親彼閨房。鐵槌妻者、同郡朱氏女也。好為啼粧、向閨門之內、軌儀不脩。遊行天下、常事產業。初就彭祖、學龍飛虎步之術。切磨未畢、殆過所教。容色漸衰、是居袴下。終與鐵鎚結同穴之義。吁夫婦之愛、天然之至性也。每見鐵槌之老容、未流涕而不悲思。後朱門落魄、著一端之犢鼻。年及五十、杜門不處人事云。
論曰、朱門不扃、白日闌入。日火陰也、陰地雖非一夫之程。月水陽也、陽泉能陷萬人之敵。於戲、昆石高峙、望夫之情難禁。琴絃急張、防淫之操不脩。況亦、一淺一深、取法於龍飛、或仰或臥、施術於蟬附。至于彼犢鼻夜濕、鴈頭氣衝、此是淫弈、誰稱矩步。

『新猿樂記』 藤原明衡
抜粋(部分のみ)
十六 女者遊女。夜發之長者、江口河尻之好色、所慣者河上遊蕩之業、所傳坂下無面之風也。晝荷簦任身上下之倫、夜叩舷懸心往還之客。樣淫奔徵嬖之行、偃仰養風之態、琴絃麥之齒德、苗飛虎步之用無不具。加之、戶如頻伽、貌如天女、雖宮木小烏之歌、藥師鳴戶之聲、准之不軌、喩之不屑。故孰人不迷眼、誰類不融心。於戲年弱之間、自雖過賣身、色衰之後、以何送餘命哉。

『列女伝』 劉向
陳女夏姬者、陳大夫夏徵舒之母、御叔之妻也。其狀美好無匹、内挾伎術、蓋老而復壯者。

『同聲歌』 張衡
邂逅承際會、得充君後房。情好新交接、恐懍若探湯。
不才勉自竭、賤妾職所當。綢繆主中饋、奉禮助蒸嘗。
思為莞蒻席、在下比匡牀。願為羅衾幬、在上衛風霜。
灑掃清枕席、鞮芬以狄香。重戶結金扃、高下華燈光。
衣解金粉御、列圖陳枕張。素女為我師、儀態盈萬方。
衆夫所希見、天老教軒皇。樂莫斯夜樂、沒齒焉可忘。

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