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万葉集 北宮を考える

 中国の隋時代以前に作成された「三輔黄図」という書籍があり、この「三輔黄図」は漢の王都であった旧長安城を中心にその近郊に位置する三輔、京兆尹(けいちよういん),左馮翊(さひようよく),右扶風(ゆうふふう))の地域の漢代の古跡を記述した地理書であり、宮殿、苑池、陵墓などの解説も含むと紹介されるものです。なお、この旧長安城は漢以降も前漢から北周まで王都と使用していますので、「三輔黄図」が作成されたと思われる時代が中国南北朝時代、北魏から隋直前までですので、「三輔黄図」は中国の王都とはどのようなものかを示すテキストでもありますし、中華文化圏の諸国が自国で王都建設を計画する時、そこで必要となる都市計画立案での必須の参考書でもあります。
 ここで、長安には前漢時代から唐時代まで王都が置かれていますが、前漢時代から北周時代までの旧長安城と、その後の隋・唐時代の新長安城とは場所と王宮構成が違っています。それで旧長安城と新長安城(隋の大興城)と区分します。この旧長安城と新長安城との大きな違いとして、旧長安城は皇帝の宮殿 大宮の北側に皇太子の宮殿となる北宮を持つことです。つまり、旧長安城では皇帝の宮殿 大宮を中心に東宮・西宮・北宮・南宮が配置されていたことです。この形式は高句麗の王宮である安鶴宮でも採用されていて、隋の大興城までは特異的な王都の形式ではありません。一方。新長安城では北宮を廃止して皇帝の宮殿 大宮を王城の北端に配置する形式に変更となっています。
 日本では飛鳥藤原京が旧長安城に従った王都の形式で、平城京が新長安城に従った王都の形式です。三輔黄図、中国の旧長安城、高句麗の安鶴宮などを参考にすると、飛鳥藤原京が中国の伝統の王城建設の様式に従っていたことが十分に理解できます。ただ、日本の古代史の研究者たちにとって、この事実は非常に都合が悪い事態です。従来、日本の古代史の研究者の方々は北政所などの言葉から北宮とは王宮にあって正妻の居住区と考えていましたから、皇太子が住む宮殿とは全くに想像していませんし、王城が皇帝の宮殿 大宮を中心に東宮・西宮・北宮・南宮が配置されていたとの形式を全くに想像していませんでした。さらに、日本最初の大陸の王城に匹敵する規模の飛鳥藤原京の建設計画で旧長安城を説明する三輔黄図などの図書を参考にしていた可能性を考慮していませんでした。単純に遣隋使や遣唐使の現地視察報告を下に隋の大興城を模倣したと考えていました。そのため、旧長安城と同じ様式を持つ飛鳥藤原京の配置計画が理解できず今日まで至っています。このような背景があるために、高市皇子や刑部皇子たち、飛鳥時代の人々が三輔黄図、中国の旧長安城、高句麗の安鶴宮などを参考・研究して飛鳥藤原京を建設したとなると、非常に都合が悪いのです。
 気を取り直して、昭和五十年(1975)に奈良市尼ヶ辻町の郵便局予定地から平城京時代の宮跡庭園(現在の名称、北宮宮跡庭園)が完全な姿で発掘されています。そして、この遺跡のA期からは宮跡庭園だけでなく平城宮出土軒瓦編年によるI期及びⅡ期と同じ軒瓦や北宮、中務省等と書かれた木簡などが出土しています。その後、昭和六十三年(1988)に長屋王宮跡から長屋王家木簡が発見され、その中に北宮と記す木簡群が見つかり、一躍、平城京における北宮の重要性が注目されました。なお、この北宮宮跡庭園については、長屋王家遺跡が発見される四年前の昭和五十九年に当時としてはより重要な聖武天皇・孝謙天皇に因む天平後期となるB期を重視して宮跡庭園が整備されたようで、現在の庭園説明と昭和五十一年の奈良国立文化財研究所の概報とは差があるようです。観光の目玉としては長屋王よりも聖武天皇の方がビックネームです。その観点からの遺跡整備です。
 長屋王家木簡の発見から、その存在が再注目された北宮は、歴史におけるその存在の重要性に反して、奈良時代後期の東院や平安以降の東宮とは違い、あまり馴染みがない言葉です。そのために、一部の研究者が、平安時代以降に北の対屋から派生した言葉である北政所の言葉が持つイメージから北宮の意味合いを正妻の住む北の対屋と説明し、長屋王家木簡群等で見つかる北宮とは長屋王の正妻である吉備内親王の居住空間を示すとの解釈を提起したために混乱が生じた時代もあったようです。つまり、一部の研究者は、無意識と思いますが、日本語である和製漢語としてこの北宮の言葉を解釈したと思われます。奈良県の研究者の方々は、先に説明した旧長安城での北宮の重要性への知識や思いが及ばなかったようです。
 当然、北宮の表記を中国語としての漢語の言葉として捉えると、意味は大きく違います。例えば、北宮は大陸や朝鮮半島では王城の構成には欠かせない宮域です。高句麗の王宮は安鶴宮と称しますが、その安鶴宮は中宮、東宮、西宮、南宮、北宮の5つの建築群で構成されています。また、新羅の王都金城は月城が古くからの王宮でしたが、七世紀末の統一新羅国の成立期頃に月城の北側に条坊制を敷き、さらに別宮として北宮を築いています。高句麗や新羅ではこの北宮の機能は不明と報告しますが、大陸ではほぼその機能が特定されています。それは秦・漢時代から魏・晋時代までは、北宮は太子宮とも称され、皇太子の住居でした。この状況を示すものとして、後漢書皇后紀では皇太子に妃が選定される状況を、明德馬皇后では「由是選后入太子宮」と、また、賈貴人では「建武末選入太子宮」と記しています。そして、この太子宮について、初唐の学者で皇太子の承乾の命で漢書の注釈書を著わした顔師古は、漢書成帝紀に載る「初居桂宮」の一節を説明するに「三輔黄圖桂宮在城中、近北宮、非太子宮」として、その顔師古は前漢長安に関する社会地理情報書である三輔黄図を基に、桂宮は宮城内にあり北宮に近いが、太子宮ではないと解説しています。さらに、魏書の十一年二月の条に「是月、大治宮室、皇太子居于北宮」とあり、北齊書の本紀第五 廢帝殷の天保元年の条に「立爲皇太子、時年六歲。・・略・・、常宴北宮。」とあります。顔師古の認識を含めて漢から唐初の時代では、皇太子は王城の北宮に居住し、その北宮を皇太子が居住する場所として太子宮と称していたと推定しています。この状況があるためか、国立清華大学中国文学系兼任助理教授の郭永吉氏は中国の東宮を研究した論文「先秦兩漢東宮稱謂考(文與哲第八期2006.6)」で「至於西漢時皇太子、所居曰太子宮、史書並未明確記載其所處的位置、学者推測可能在北宮、因此也就未見以東宮稱之」と説明します。
 この郭永吉氏の論文の背景には、中国や日本の東宮研究者は、王城に東宮と云う宮域が出来るのは隋の大興城が最初ではないかと推定し、その大興城の都市計画と宮域の名称を唐がそのまま長安城として引き継いだとします。つまり、隋・唐以前に皇太子の居住区としての東宮なる宮域は存在しなかったと推定していることにあります。このため、王城に皇太子の居住区として東宮と云う宮域が出来る隋・唐以前の王朝では、どこに皇太子が居住し、それをどのように称していたかが問題になりました。その疑問について、近年の資料調査と遺跡研究から、郭永吉氏もその論文で引用するように、現在では王城の北側の宮域に北宮があり、その北宮域に太子宮があったと唱えられています。そして、今日では、その太子宮に皇太子が居住していたと結論付けられています。
 大宝元年(701)の大宝律令の推定復元では東宮家令官員令、天平宝字元年(757)の養老律令では東宮職員令から東宮家または東宮と呼ばれる皇太子について、日本では、つい最近まで、東宮なる言葉が、大陸でも古代から太子宮を示すものと思い込んでいた節があります。本来、東宮とは隋の大興城からすると隋・唐朝以降の官署を示すもので、直ちに皇太子の住む住居区を示すものではありません。東宮が名実共にその実態を示すのは、隋朝に大興城の太极宮の東に宮域が拡大して置かれ、それを唐朝が引き継いだために隋時代以前には太子宮のあった北宮域が廃止され、東宮域が新設され結果です。従って、奈良時代での、皇太子の住む住居区としての意味合いや皇太子の尊称として使われる東宮とは比較的新しい言葉となります。
 さて、日本もそうですが中国でも高貴な人物については、その氏名を直接には表現せず、解釈に誤解が生じない別のもの(建物、地位・役職、領有地等)で、その人物を表現したと思います。つまり、皇太子が居住するので、その宮を太子宮と称し、その宮が宮城の北に位置し北宮と呼ばれる、または、含まれるのならば、隋・唐以前の人々の間に北宮の言葉に皇太子の意味を持たせた可能性は否定できないと思います。
 万葉集の主要な時代は、大宮人が藤原京や平城京を計画し、建設した時代です。その藤原京や平城京の「京」の建設は、従来の「宮」の建設とはその規模が桁違いに違い、大規模な国家プロジェクトです。そのため、朝廷の主だった人物は、その計画立案に直接関与するか、その計画案を見聞きしていたはずです。そして、その都市計画において、現在の王京研究者が藤原京や平城京を唐長安と比較研究するように、同時の大宮人も高句麗安鶴宮・新羅金城や三輔黄図等の資料を通じて、秦咸陽故城、漢長安故城や唐長安城を研究・検討したと思います。当然、朝廷機能の根幹である宮殿、署、庫、倉や道路・運河の配置においても秦咸陽京、漢長安古京や隋・唐長安京を参考にしたでしょうから、藤原京や平城京での宮殿計画に採用する、しないは別として、隋・唐以前の太子宮である北宮の存在とその目的も知っていたのではないでしょうか。この状況を裏付けるものとして、近年の平城京遺跡調査で平城宮の南東に位置する長屋王屋敷跡で発見された長屋王家木簡群や北宮宮跡庭園の中に北宮と記述された木簡群が発見されています。また、和銅五年歳次壬子十一月十五日庚辰の日付を持つ大般若波羅密多経巻にも北宮の署名が認められています。
 昭和五十一年の平城京左京三條二坊六坪発掘調査概報を下にした平城京時代の庭園に対する研究では、長屋王家庭園は和銅三年(710)頃に築造され、その長屋王家(平城京左京三条二坊一・二・七・八坪)に隣接する北宮宮跡庭園(平城京左京三条二坊六坪)は、和銅七年(714)頃に漢代に作られた竜文瓦の文様によく似せた池泉の輪郭を持って築造されたと推定されています。また、長屋王家木簡群の発掘調査に携わった森公章氏は、その著書「奈良貴族の時代史」で「北の八坪の地から続く蛇行溝SD1525から検出された遺物で、木簡の時期・内容は長屋王家木簡とほぼ一体のものと見ることができる」(北宮王家のなりたち;76P)と述べられています。現在の一般の北宮宮跡庭園の評価とは違いますが、昭和五十一年の発掘調査概報と森公章氏の著書から、少なくとも和銅から神亀年間には北宮宮跡庭園と最初の建物遺構とは存在していたと理解します。こうしますと、この和銅三年は平城京遷都の年ですし、和銅七年の翌年霊亀元年(715)正月は皇太子が初めて朝賀に参列した年です。長屋王が日本霊異記や木簡群が示すように親王の称号を有すなら、非常に興味深い年代の一致です。
 また、大般若波羅密多経巻とは、文武天皇の死去を悼んで長屋殿下が発願し大般若波羅密多経六百巻の写経を行ったとの内容の願文を有する和銅五年経と称されるものです。その経本に長屋王は和銅五年の時点では北宮の名で署名を行っています。それが、同じ大般若波羅密多経巻ですが、神亀五年歳次戊辰五月十五日の日付を有するものでは仏弟子長王と自分のことを表しています。奈良時代は少なくとも仏教の経や願文は漢文・漢語で記すのがルールです。平安時代以降は別として、少なくとも和銅五年から神亀六年ごろの奈良の京で漢語として北宮の言葉が存在し、その北宮が自他共に長屋殿下を示すと認識しているのなら、唐を中心とする国際社会の一員で、新羅や渤海使節団等が訪れる奈良の京では大般若波羅密多経巻で記す長屋殿下は皇太子であったとみなさざるを得なくなります。これを前提に願文の仏弟子長王の表記を考えてみますと、和銅五年の段階では長屋王は北宮の敬称を使用する皇太子ですが、神亀五年では漢語での王の言葉を自称に使用しています。つまり、この表記の推移から推測して、和銅五年から神亀五年までの間に長屋王は日嗣皇子たる皇太子から大王になっていた可能性があります。

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