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瞑想歴15年の一般大学生が見つけた「本当の瞑想の意味」

先日、瞑想中に瞑想についての思考が止まらなくなって書き殴ったものを卒論そっちのけでまとめました。

言語化下手ですがなかなか読み応えがあるものなのかなと自負しているので、少し長いですが特に「瞑想」「マインドフルネス」「禅」などに興味がある方は読んでいただけると嬉しいです。

*なお、この僕の考えはインドの生命科学であるアーユルヴェーダのTranscendental Meditation(超越瞑想)を実践して独自に得られたモノですが、それがすなわちアーユルヴェーダの教えを100%体現しているものではないことをくれぐれもご了承ください。むしろもしかしたら180度間違っているかもです。全てあくまで一意見として聞いてください。

僕も小学生の時はアーユルヴェーダって怖いし新興宗教じゃんとか思ってましたが、全くそんなものではないのでそこはご安心を(笑)
科学的にも証明されていて、アメリカとかではポピュラーなインド古来の教えです。

結論

結論から。僕が考える瞑想の本当の意味は

「自分の心の正しい把握」
「自分の根っこにある感情の動きの把捉」

すなわち

「心のリマインダー」
「心のTODO管理」

です。

下で詳しく説明しますが、ここでも軽く触れておきます。

僕が瞑想中に心に浮かんでくる雑念や考えは、自分にとって

本当に自分が
・やりたいこと
・興味があること
・気になること
・やらないといけないこと
・忘れていたこと
・悩んでいること
・考えたいこと

であることが多いです。本当にどうでも良い雑念とか考えもありますが...(笑)

その意味で、瞑想とは心を静めたりリラックスしたりするのが第一義的な目的ではなく、現代語で表現するところの「心のリマインダー」「心のTODO管理」カッコ良くいうなら「自分の心の正しい把握」「自分の根っこにある感情の動きの把捉」も目的としてもいいんじゃないの?

そんなことを頑張って言語化して書いていきます。

自分の考える瞑想の2種類

巷で最近流行ってきた、マインドフルネスとか瞑想って「なんとなく心落ち着いてリラックスできる」「デジタルデトックス」みたいな話はあくまで導入文句と終着点であって本質ではないと思うのでここではスキップします。

自分なりに2分類してみた瞑想の種類は以下の二つです。

(1)「発露」&「潜水」としての瞑想
上の「結論」でチラッと言及した「心のリマインダー」としての瞑想です。

(2)「吸収」&「咀嚼」としての瞑想
禅の教えから学んだ「外部から得た気づきと落とし込み」の瞑想です。

第一の瞑想:「発露」&「潜水」としての瞑想

上でチラッと言及した、自分なりに解釈をした瞑想です。

まず軽くTM瞑想の説明から。

そもそもTM瞑想では、マントラというそれぞれの個人に合った言葉をもらい、その言葉を唱えながら20分ほど瞑想をします。

ここで面白いのが、瞑想の中で生まれてくる「雑念」をTM瞑想では許容していて、雑念が出てきたら必死にそれを考えないように努力して心を無にするのではなく、雑念が自然に心から出て行くまで待って、そのあとまたマントラを唱えてねという教えです。
(間違っていたら誰か教えてください...)

ここで雑念について考えている時間を「発露」の時間、マントラを唱えている時間を「潜水」の時間と表現します。

「発露」の時間には、自分の心から生まれてきた雑念から思考を巡らせます。

自分が真っ白なところにポツンと置かれたような瞑想時に、自分の奥底から何が出てくるのか、そしてそこから出てきたものについて思考を巡らせる。

「マントラ以外何も考えなくていいよ」と言われているも同然の瞑想の時間に、そこで出てくる雑念って本当に自分にとって大事なことではないのかな、と感じます。

というか、もはやそれは雑念や煩悩であると同時に「真念(真の願い)」「真脳(真の悩み)」な気がします。

(もちろん、後述する瞑想時の周囲の環境という他の変数もあるかもしれませんが、基本マントラしか唱えないでいいよと言われている状況では限りなく日常では類をみない何も考えていない無心の時間になるのかなと。)

一方、「潜水」としての瞑想では、マントラを唱えることによって自分の心/感情のより深いところに潜っていきます。

マントラという一つの言葉に集中して、それを心の中で唱えることによって瞑想に集中し、呼吸も整いどんどん本質的に純粋な自分に近づいていきます。

言語化できないですが、マントラを唱えているときは自分の奥深くに潜って行ったり純化されて行ったりするような感覚があります。

図にすると以下のような感じになるかとは思います。

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20分という時間軸の中で、「発露」と「潜水」を何度も繰り返していきます。

ここでめちゃくちゃ大事なのは、潜水が発露を純化し、発露が潜水を深化させるということです。

すなわち、マントラを唱える時間で深く潜水できればできるほど心の奥深くにいけるので、自分の心の奥底から本当に純粋な自分の本心が発露します。

さらに、自分の感情や思いが純粋に発露をすればするほど、深く潜水できるような感覚です。

比喩として適切かは分かりませんが、前者は「地下水は地下に行けば行くほど純度が高い」後者は「自分の思いを素直に吐き出せたあとほど心がスッキリする」みたいな喩えでしょうかw

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図解するとこんな感じ。

以下、簡潔なまとめです。

「発露」&「潜水」としての瞑想

雑念から思考を進める「発露の時間」とマントラを唱えて集中する「潜水の時間」を繰り返しつつ、自分の心の中でもさらに深いところへ潜って行くと同時にそこから自分の純粋な感情や思いを引き出す
ということです。
この意味において、「発露」&「潜水」としての瞑想は
・「自分の心の正しい把握」
・「自分の根っこにある感情の動きの把捉」

であり、
・(心が日常に忙殺され忘れていた大事なことを思い出させてくれるという意味で)「心のリマインダー」
・(本当に自分がやらないといけないことを整理してくれるという意味で)「心のTODO管理」
であるのかなと思います。

第二の瞑想:「吸収」&「咀嚼」としての瞑想

アーユルヴェーダとは違う「禅」の瞑想から学んだ瞑想の方法です。

こちらは『第一の瞑想:「発露」&「潜水」としての瞑想』より全く実践経験がないため思考が深まっていないので、あくまで比較論になることをご容赦ください。(今座禅について学んでいるので、学びが深まったら再考・追記したいです。)

まずは軽く禅との出会いと今回の思考に至るきっかけから。

現在インターンさせて頂いているThinqloという会社でやっている事業の一つにInTripという京都の和尚さんと作った本格的な禅・瞑想アプリがあります。

そのInTripを試しに使ってみたところ、一日一禅という「日々の生活の中で、何かを考えるきっかけを与えてくれる」話題をもらえるサービスがありました。

また、京都の両足院というお寺で座禅体験をさせて頂いた時のプログラムが「五感(瞑想時には視覚、味覚を除くので厳密には三感)を使って普段意識しないような音や感触、匂いを味わってみてください」というものでした。

この禅との出会いや経験から考えたのは、どちらかというと禅の瞑想は禅の教えや自分の周りにある環境から学びを得て、それを元に自分に落とし込んで思考していくものなのではないかという仮説です。

古くから伝わる禅の教えや、座禅を組む中で感じる自分の外側の情報。

そういったものを、自分の外部から自分の内部へ吸収していって落とし込んでいく。

そういったことなのではないかと思いました。

東洋哲学的な考えの根本には、誤解を恐れずに簡潔にいうと「全てを二元論ではなく一元論」とみなすというものがあります。

例えば、座禅を組んでいる時は自分と自分以外は別個のものではなく同一のものとみなして感じるということです。

物理的には自分と自分以外は違う存在ではあるかもしれません。でも矛盾を乗り越えて自分と自分以外を同じものにするんです。

(少し話は逸れますが、生物学者の福岡伸一さん的に言えば物理的にも身体と非身体は「動的平衡」なので同一とも論理を飛躍させることもできるかもです。)

この一元論的な考え方が禅に当てはまるかわかりませんが、僕が禅に感じた自分の外部から思考のきっかけを得て、それを自分ごと化して考えて思索を深めていくことは一元論的世界観に繋がる考えなのではないかと思います。

例えば、一日一禅では「最近最も共感した出来事はなんですか?なぜ共感したのですか?」「最近最も怒った出来事はなんですか?どの部分に怒ったのですか?」などというように和尚からの問いかけというフックからどんどん思考を巡らせていきます。

また、座禅体験で和尚が言っていたのは「目を瞑って座禅をすることで普段はあまり気にしたこともない鳥の鳴き声や車の音が聞こえたり、日が差し込んでくる暖かさを感じたりする」ということです。

「何かから得た気づきを、自分の中へ吸収して消化して純化していって、それが自分自身の一部になる」そんな表現なのかなと思います。

以下、簡潔なまとめです。

自分が体験してきた瞑想である「発露」&「潜水」としての瞑想に比べると、禅から発想を得た「吸収」&「咀嚼」としての瞑想は外部からの力を借りて自分の本質に迫っていくアプローチのように思えました。

強引にまとめると、「内から外へ発散する」前者と「外から中へ吸収する」後者のような形です。

「発露と潜水を繰り返すことで最初からピンポイントで自分の中心/本質へと深まっていく」前者と「気づきを吸収して咀嚼したらそれが自分の中心/本質へといざなってくれる」後者とも言えるかもです。

やっぱりうまく言語化できない...なんとなく伝われば幸いです。

どちらが正解というものではないと思いますが、どちらも並行してやっていけば、さらに自分自身に気づくことができる上、思考というものを深くできるのではないのかなと思います。
また、一元論に影響受けたみたいになってしまいますが、二つの瞑想は大きな意味では同義のものなのかとも感じます。

「発露」&「潜水」の瞑想も、瞑想する場所や時間、環境、そして瞑想時の自分の心情などといった外的要因などの他の変数にその時の発露と潜水が左右されるという点では、「吸収」&「咀嚼」の瞑想に近い部分を持ちます。

一方、「吸収」&「咀嚼」の瞑想も外部からの気づきの吸収と咀嚼を「潜水」、吸収・咀嚼したものを自分ごと化する過程を「発露」と捉えることもできなくはないです。

「結局同じなんかいw」というのはありますが、一応2分類とかしてみちゃったので、2形態に分類できるという結論にしておきます。
さらに追記すると、「発露」&「潜水」の瞑想において「発露の時間」=「潜水の時間」となったときそれすなわち「悟りの境地」「達観」なのではと思います。

本当の瞑想の達人は、多分マントラを唱えながら無意識的に思考も同時に行っていて、雑念があるけどない状態なのだと思います。

だから「瞑想の達人は境地に達したから雑念なんてない。本当の無心なのだ。真の心の平静。」なんて言われるのではないでしょうか?

また一元論出てきましたね。面白い。

最後に

今まであまり公に「俺瞑想してるんだよね」とか言ってこなかったのですが、ようやく日本社会がマインドフルネスとかなんとか言って許容し始めている風潮があるのでnoteにも書いてみました。

15年以上前からアーユルヴェーダを見つけて実践していた母は、改めて時代先取りしててすごいなと思います(笑)

僕のお知り合いの方、アーユルヴェーダは別に変な新興宗教とかではなく、れっきとしたインドの生命科学であり、アメリカなどでは普通にハリウッド俳優とかもやってるメジャーなものなので、僕のことを変なやつだと思わないでくれると嬉しいです(笑)

ちなみに科学的にもアメリカの小学校などで授業前に超越瞑想を取り入れたら成績が上がったという論文などもあるので、気になる方は是非調べてみてください。

*トプ画は広島の福山と尾道の中間くらいにある「神勝寺 禅と庭のミュージアム」の洸庭です。禅寺そもそも綺麗だし、洸庭での新しい瞑想体験楽しいし、音声ガイドでお寺回りながらの禅体験とかも超オススメなのでぜひ訪れてみてください。

以下、付け足しですが自分なりに「ちょっと示唆に飛んでるやんこれ。良い気づき!」と少し思って満足したことを書きます。

自分の瞑想経験回想

僕は小学校の時に瞑想を母から始めさせられ、15年間一応続けてきました。

その中での自分にとっての瞑想を軽ーく記します。

小学校:
母に連れられアーユルヴェーダの超越瞑想を習いに変な施設へ。
変なオブジェとか創始者っぽい人の壁紙とかあって「子供ながらに母はヤバい新興宗教にハマってしまったのだ」と思い一応習いつつも、心の中では拒絶。
母とかはすごい気持ち良くなるし、落ち着くからやってみなと言われ本当に時々は一応やるも習慣化はしないし、効果もいまいち分からない。
中学校&高校:
たまに母が瞑想している姿を見て、時々やってみるも効果は未だになんとなくしか分からない。
大事なサッカーの試合とか受験の前に初詣の願掛け感覚でやるようになる。
大学:
週一とか月一くらいのペースでやっていたある日、ふと瞑想って「なんか現実世界からちょっと距離を置いて自分の心とか把握できそう?」みたいな感じで思い始める。
ある尊敬する先輩と話をしている時に瞑想やっているというので、打ち明けてみたらその先輩もほぼ同じ感覚を持っていたのでなんか良かったなと思うようになる。

自分の瞑想経験を抽象的に回想→マーケティングに転用

僕が瞑想にハマっていった体験は、人が宗教や陰謀論にハマる理由やマーケティング的にある商品やあるサービスにハマる体験と似ている部分があると気づきました。

自分の瞑想体験をうまく抽象化して転用できたらと思って、頭の中にはなんとなくのイメージあるのですが、一旦もう執筆疲れたので気が向いたら詳しく追記します。

軽く説明すると、流れは

身近な人からの紹介→
全く異なる世界観への拒絶→
距離を置く→
(自分の人生の出来事などでの)何かしらのリマインド→
自分ごと化(教えがなんとなく正しく思える)→
教えの恣意的な理解(教えを正しくありつつも独自に曲解する)→
同じ考えを持つ仲間との共有→
のめり込む→
他の類似したもの(僕の場合座禅)との比較→
のめり込む

みたいな感じです。

尊敬する先輩に勧められて読んだ本「完全教祖マニュアル」という「本気で自分で宗教を作って布教しようとするならどのようなマーケティングでやれば良いのか」について笑えるけど超本質的に書かれた本とか、めちゃ面白いし、自分の瞑想にハマった体験と類似点多いです。

さらに言えば、聖書やコーランなどの宗教の聖典とかも、定義はあえて意図的に厳密にせず余白があるのかなと思います。その方がみんなの体験や経験をその余白に当てはめて自分ごと化して理解できるので。

「聖書の一説/占い/名言の〇〇っていう言葉、この前私が経験した△△の経験とそっくりで、本当に良いこと/正しいこと書いてあると思った!!!」

なんて言ってる人がいるのよく聞きます。僕もそんなこと言います。人間って正しい物事(正しいと思われる物事)を自分の経験則に当てはめて理解・納得する、どこまで行っても究極に自己中心的そんな存在なのだなと改めて感じます。

最近議論されている陰謀論、格差、分断なども根本には人間の究極の自己中心性の問題があるのだと思います。

そのためにも、自分は旅をしたり、色々な人にあったり、体験したことのないものを経験してみて、自分と違う「他者」という存在を究極の自己中心性のなかで0.01%でも理解したい。

話は逸れましたが、ちょいまとめると僕の瞑想経験で最初に母から言われた「なんか良いんだよね」「瞑想してると忘れてた大事なことを思い出す」「なんか頭がスッキリする」という言葉は今思えば頭の片隅に残っており、その教えを自分なりに咀嚼して考えた結果腹落ちして勝手に納得してこんな変なnote書いてるんです。

元P&Gの西口一希さんの本の「たった一人の分析から事業は成長する 顧客起点マーケティング」とかってこの僕一人の体験をめちゃくちゃ深掘ったあと抽象化して、転用していく作業なんだなと改めて思うし、それを自分の体験ではなく他人の体験で深めていくの、本当にすごいな、楽しそうだなと思いました。

マーケティングやりたい!笑

生物学者、福岡 伸一の「生物と無生物の間」と「動的平衡」めちゃ面白い本です!人間の体も体外と繋がっているし、極端に言えば同じなんだ、「人間と非人間の一元論」と分かります(説明飛躍しすぎてますすみません。正しい理解は本を読んでください...)

書き出したら色々止まらなくなったのですが、もう本当にこれで終わります。

稚拙な文章を最後までお読みいただきありがとうございました!

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