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太鼓の無い応援について。

少し前の話だけれど、ベルマーレ湘南に敗れて天皇杯のチャンスを失った。試合自体は見れていないもののおおよその検討がつく。一九九三年(セレッソ大阪的には一九九四年が妥当だろうか)の発足以来、何ら変わっていない癖というかなんというか。なぜだろうか。

三〇年間セレッソ大阪を見てきてよくわかる。要するに「サポーターの最高の応援」ではないかという試合において、たいてい勝てないのだ。だからといってニヒルに斜に構えていてもしようがない。常に一〇〇パーセントの応援をおこなうべきだろうとは思っている。

#コールリーダーウダウダ でも話題になったのが「太鼓の無い応援」だったけど、さて、それをどう捉えるかはサポーターひとりひとりの感じかただ。二一時半を過ぎると、ヨドコウ桜スタジアムでは鳴り物の使用が禁止されるらしい。太鼓打ちにとっては正直正念場だ。

太鼓が必要か不必要かの是非についてここで語る理由はそれほどない。それ以上に太鼓打ちが太鼓の重要性に対してどれだけの思いがあるかによって、この議論はテーブルに乗るのだと思う。もっとも意義があるのは、太鼓打ちが太鼓を手放した際の応援ということになる。

このような場面に遭遇したとき、太鼓打ち自らが太鼓とバチを下ろすのか、それとも、誰かからの指示やアナウンスで太鼓を止めるのか。太鼓には自然発生した応援を徐々にひとつにまとめていく力がある。それを手放したとき、太鼓打ちにできることはいったいなんなのか。

いつの時代も、太鼓打ちはそう思い描きながら生きている存在であってほしいと思うし、少なくともセレッソ大阪の太鼓打ちはそうであると信じていたい。だから、その後、多くの人から「”太鼓”後の応援が実に最高だった」という話を聴いて、太鼓打ちの葛藤が目に浮かんだ。

NEVER STOP,NEVER GIVE UP

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