見出し画像

35歳になって振り返る自分の変化:自分の「性器」に対する認識

2020年の夏、35歳になった。

昔から、というのは小学生のころから、「今じゃない自分」を想像するのが苦手だった。だから、今の自分が想像していた自分と同じか違うか、と考えてみても、よくわからない。

「この先の自分」は、私に制御できないこの先の出来事でどうにでも変わるもののような気持ちもしていたから、想像しても仕方ないとも思っていた。それか、もしかすると、もしかしたら来ないものかもしれないとなんとなく考えていたからかもしれない。
あるいは、理想と違う自分にがっかりしないための保険だったのかも。…少なくとも、40歳の自分を想像できない理由は、これではないけれど。

大人になって、予想外の変化があったとするならば、それは、自分の女性器を、変だなと感じなくなったこと。

体の下についているそれは、自分には見づらい。鏡を使わなければ見られない。

私にとって、性器は性交渉(とその先の出産)の関連物として、教えられてきたように思う。学校でなのか家庭でなのか、あるいはマスメディアから読み取ったなにかなのか、その由来はよく思い出せないけれど。

成人する前と大学にあがってからと妊娠する前と。それぞれ1度ずつ、鏡を使ってみてみた記憶がある。グロテスクで恥ずかしくて、とても目を向けられないなと思ったのを覚えている。
イヤラシイコンテンツの中には、それを他人の前にさらけ出す描写があるわけだけれども、ずっと、はたして平常心でそんなことができるものなのだろうか?と感じていた。その先に自分の望む交流が待っていたとしても。憧れと抱えきれない羞恥心が胸に湧き上がる。

実際に性交渉の相手が目にする機会がありそうな場合には、私はそれを拒み、たいていの場合、相手も執着しないようだった。脚の付け根に隠されることなく、表に出ている男性器は、シンプルでよいなあと、なんとなく思っていた。

他人の女性器と比べることができたのなら。もう少し、違和感や抵抗感は減ったのかもしれない。複数の男性と経験をもらってからは、そう考えるようになった。
そうはいっても、他人の女性器について、私は多くを知らない。その事実もまた、「自分についている気持ち悪い何か」という認識を強める方向に作用していたと思う。

一度、外性器に関心を示してくれる男性とお付き合いをしたことがある。
外性器が何を指すのかはググってみてほしい。私はひらがなやカタカナで性にまつわる単語を用いるのが苦手だ。いたずらにいやらしい気持ちをかきたてられる、あるいは他人のそうした感情をかきたてる気がするから。

お付き合いし、私の身体の独占的使用権を彼に明け渡していた期間、こんな感覚が存在するのかと驚いたのを覚えている。生まれてからずっと支配しているつもりの自分の肉体に、掌握していない部分があったということは本当に意外だった。

性器にかかわらず、自分の形状に関するコンプレックスは男女関係なくつきものなのだろう。恋人から、こんな自分のカタチでごめんねという言葉を聞かせてもらうことがある。

けれども、私が他人を認知する基準には「他者と比べて優れている≒あるコミュニティで評価される価値、を持っているかどうか」が含まれない。
なので、当然否定する。あなたがあなたであるだけで私は良いことだと考えているし、あなたの体を見る権利を与えられるだけでうれしいのだと。

矛盾するようだけれども、私自身が他人の愛を受け取るに値するのかどうかということについては、自分の形態や社会的地位の優劣と、すごく関係しているように思っている。だけど反対の立場に立てば、やはり否定したいと思うので、自分についての考えはあまり口にしないようにしている。

それでもやっぱり、自分の形態が世の中で良しとされるものだったら、私を愛する人もよりうれしいかな、などという考えに折々にとらわれるらしい。教条を自分にしみこませるのは難しい。

ある時恋人に、自分の女性器は人に見せるべきもではないと思っている、とテキストメッセージで伝えたことがある。相手からは、対面で会話しているかのようなペースですぐに返信が来て、そこには「なんで?きれいだよ」と書かれていた。

「きれい」! 普通だよ、気持ち悪くないよ、という返答が来ると考えていた私は面食らった。私の心が今後一生彼に忠誠を誓うよう、思考回路を見抜いて打鍵したんだろうか(いやそんなことはないよね?)。

出産を経て、動物としての自分、を強く感じるようになった。私にとっての女性器は、妊娠・出産のための器官というイメージを強めていった。

何よりも、私には夫がいる。夫と同居しているかぎり、夫以外との性交渉は社会的にないものとしてふるまわなければならない。いまや私の人生から、性交渉は失われているのである。おそらく、珍しくはないけれど。

それでも、私は今、過去のような自分の器官に対する違和感がない。口腔内やふとももや爪に対峙するのと同じテンションで向き合えると思っているし、もしも恋人ができればちゃんと共有できるだろう(もしも、相手が望むのなら)。

歳を重ねれば重ねるほど生きやすくなるという言説は、年上の女性の発言で知ってはいた。私にとってそれは、自分の性器への認識という形で実感されることになったということらしい。
5年後の私には、どんな世界が待っているのだろうか。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?