見出し画像

無院

「誰にとっても意味の無いもの」に神が宿る。

そう漠然と大まかに、
勝手に思い始めたのは多分、小学生?くらいの頃からだろうが
心の中で文字として意識し始めたのは高校を出て岡山から京都へ、そして東京に上京し出した18〜21歳頃の間からだ。

転勤族の小学生から日々目立つ事のなく、
ただ日影過ぎないが、
気づけばパシリをさせられていることにも気づかずネイティブパシリをさせられていたような、
今思えば心から友達と言えた関係性がなかった中学時代まで。

で、高校に上がった時に入学式で出会った、
かつてほぼ全く話した事の無い、
同じ中学にいたスター的存在(足が速く、頭が良く、ヤンキーと仲が良く、絵が上手い男)と入学式の帰り道で意気投合し、
立ち話で数時間話したその日から、
そう意識し始めたかもしれない。
その男次朗の話はいつかまた出来ればだが、
彼のおかげもあり、自分は自分でいいと思うようになり、今でも続くが
優柔不断でも、ニキビ増えまくっても、
周りから見た自分、
を気にしなくなったかもしれない。

で、その気持ちのおかげか、
例えば看板の文字を自分は昔から、
見ると口に出して読んでしまう、というのを自然にやってしまう事とか、
人がいらないというような民芸品や兄姉からもらったもので使わなくなった物や
昔から何かの建物の中にあるが、
誰もその存在は知っているのに、誰も使っているのを見た事が無いような意味が無いものに小さい頃から強い興味があり、
1人でよく見に行っていたりとか、

を漠然と肯定出来るようになった、と今思えば思う。

で、なぜか高一の時、
未経験なのに入部したハンドボール部。
入部1ヶ月?か、数ヶ月後、ハンドボール部のコーチに1m程ある「しゃもじ」で尻を叩かれて、
その日のうちに退部したのだが、
その後帰宅部となり、半年程毎日ウダウダロクに勉強もしないで日々を消化する自分を見た母がある日

「な? 聞いてな?
毎日毎日遊ぶばーして、
何の為に学校いきょん?
なんか他に部活とか習いたい事とかないん?
なんでもええが、運動部はイヤなん?

(やりてぇ部活やこうねぇわ)

ほうか、
あ、じゃあ爺ちゃんも絵描きようたし、
真由美も美術部じゃったし、
あんたも絵だけはうめぇし好きじゃったが。
絵でも習ろうてみたら?
毎日毎日遅うまで遊んで、
お母さん見とれんわ。」

と、一切その道の事を考えてもいない自分にかけてくれた心配の言葉を
なんかそれはすんなり受け入れ、

その翌週か、1ヶ月後くらいからか覚えていないが、
老人達が1階で絵を描いている絵画教室へ案内され、
その時のアトリエの先生との初めての会話で、


「君は デザイン? 油絵?」

と謎の質問で選択を迫られ、
即答したのがなんか意味がわかるようでかっこいい気がした「デザイン」と答え、
じゃあ君は2階だね。
と階段を上がったところから、
今後の人生の「考え方」は
結構大きく左右されたのは
まじ今思えば、あの選択だったなと。

まさか「美大受験の為のどういう方向性の学校に行きたいか」
という質問の意味だと気づいたのは、
まじ18歳の短大入学して1年くらいした時だ。

あの時のあの選択質問、
そういう美術の大学があって
こういう方向に進みたいならこっち
こういうなら今はあっちかな〜、
君は今のところ、こんなことやこんなこと、
どんなことが好き?
とかで聞かれていたら
迷わず油絵を選んでいただろうが
横文字のカッコよさに「デザイン」を選んで、
そのまま短大のデザイン科に進んで、
自分のやりたい事のようで何かずれていると、
日々授業に行きながら思い、
結果毎日毎日その頃の用務員のお爺さんと仲良くなり、先生達に隠れて夜中まで、泊まり込みで木工室で木を切ってブルーハーツを永遠に流し、屋台の作品を作って土を売ったり、
学校やギャラリーとか美術とは関係ない、
とある別の場所で非常に興味ある場所で個展をしながら半月そこで家のない人達と生活したり、

とある関西の有名な学生寮での初個展風景
2000年
その時のDM
建物の中に建物をつくり、半月程暮らしていたのを展示。

結果短大1年間で単位0で、
2年生で全て取得して卒業、したのだが、

「デザイナー」になる為の地盤作りを知らずに勝手に無視していた頃から、
あ、俺デザイナーちゃうんやと。

かと言って、
有名なところや人が集まる所は大好きだが、先ほどの、一般的に誰も強い興味を惹かない、面白くも、つまらなくもない場所、
アナーキーでもない、日常に溶けた物、
に興味を惹かれながら住む場所も何も決めずとりあえず上京し、バイトを日々やっていたが。

結果、綺麗な絵画や、素敵なデザイン。
古い寺院やカオスな場所。

その、全ての中に存在する、 

「普通」

なんというか、一般的に

繰り返すと、
面白くもない、
だが、つまらなくもない、
そしてカッコ良くもダサくも無い。
誰も気にも留めない部分に
強い強い興味を持つようになり
とりあえず作品を作るようになった。

敷地を借りて小屋を作ったもの。19歳

そしてそういった日常の中、
集まってきた大量の「普通の物」によって
生まれたのが26歳の頃の

「無院」

それは大事な人からもらったプレゼントや、好きな人からもらったお土産、
親がなぜかくれた、捨て難いものとか。
無限に、
その時少し嬉しかったもの、

いらなかったもの、その他の気持ちで集まってきたもの達。
自分が選んで集めたものではない、
四季のように自然に集まって来た物達。

それらは皆ほとんど、
時が経てば、大体の確率で存在自体は無用の長物になる。
時を経て、趣味趣向は変わり
その時嬉しかった物はただの「物」となり、そこに存在する。

それらこそ、誰にも見初められていないのに立派に存在している、
崇高な存在だと思うようになり、
それらを祀る事が、自分の表現したい事だとなり、
それを祀った寺院の作品「無院」の精神が
生まれてからずっと思っていた疑問を、
わだかまり、を払拭してくれたと強く思っている。
自分の作品に救われたと思う。

無院は訴える。
全てひっくるめて、
ただ、存在する事の肯定を。

答が無いことに美術の面白さがあると思っている。
だからそのイコールで、答えの無いものに、
究極の美を感じる。と
40を超えて思うようになった。

だから、言える。
いやいや意味ないやろ。
意味ないのが1番や、と。
意味が無いから、無限に存在する、事を考える。
目の前の意味の無い事が
崇高に感じたから言える。

「いやそれ意味ないわ。」

と。

脳の後遺症、
思えばなんか変、辛いな〜と。
だが自分が生み出した過去の無院がまた
救ってくれた。

※考えるだけ無駄って事じゃない。
考えるよりも、言葉にするよりも崇高な事が存在している事。

日常のサラリー生活にも常に存在するそれは、
それのおかげで、際立ち、結果売上伸ばしてやると、なっている。

少しでもわかって、もらえたら嬉しい。
意味がないことを崇高に思っている事を。

           無院                            2006年
          無院       2008
ディティール

そして、僕は少しこの話を遡る21歳の時に、
大阪在住の小灘と出会い、
こういう事のルーツにもなる活動、
今の自分のルーツ。
路上でのゲリラ展示ユニット、
Torary を結成し、
今に至る。

2023年11月28日

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?