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日記/法悦四八〇

神性だの、無に充たされるだの、考え、書いていても、わたしは六万円の電気代におびえる、電気子羊にすぎない。または、わたしは六万円におびえる電気子羊にすぎないが、神性だの、無に充たされるだの考え、また書いている。どのみち、まさか、墓石に「六万円」と彫られることもあるまい。かつて、池田晶子おねいさんは、哲学に救いなどあるもんか、すがるなんて、お門違いだわよ、と喝破なさった。御意。とはいえやはり、繭のように思い、お百姓さんのように考え、研いだことばで、猟師のように真理を狙いうつ作業は、やはりひとつの法悦であったはずだ。書くことを愛する人の文章は、二百字も読めば、びんびん伝わるもの。筋目正しく編まれたことばは、例えようもなくおもしろい。日々の生活が、あることばを呼び、そのことばが、またある生活を呼ぶ。わたしは、長らく、湯船に入りたかった。オール電化六万円也の呪い。それは贅沢だ、とそしられれば、入浴権とひきかえに、わたしは喜んで、日に二食とノースカラーズの芋けんぴをなげうとうではないか。一枚あたり、四八〇円の入浴券。回数券ならば、十一枚綴りで、金四千八百円也。娘は無料。一時間半、われわれ一家は、湯船の数々を堪能したのである。ぽそ、ぽそ、と雪舞う当地、摂氏四十三度の露天風呂(寝湯)、半醒半睡、これが法悦。晩のオートミール(無論、わたしのみ)を食べ、早くに寝(せ)る準備をととのえる。もう、眠りについても構わないにもかかわらず、わたしは、だれからの、何の縛りもない、この日記を執拗に書く。どこへ向かおうとしているのか、という問いは無効だ。乗ってしまったコーヒーカップのうえで、目的の地は問うまい。わたしは、わたしの文章が、なによりも好きなのだ。言いすぎた、風呂の方が好きであり、ノースカラーズの芋けんぴと同じくらいだ。できあがったものには、さして執着はない。書いている・・・そのときその刻、次に書くであろう一手の、ほのかな予感、みずから選んだ語に遺る、きょうを生きた痕跡。それもまた、わたしの法悦である。グレゴリオ聖歌を聴いている、心配はいらない、芋けんぴは買っていないのだ。餅はやめた、最近は、二食をオートミールに置きかえている。サラダと味のないオートミールを食っていると、もうそろそろ、よい馬になるのではないか、と本気で思う。

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