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日記/追儺の変

どうにも、虫の居所が悪い日であった。はらのなかに虫が居る、とは頓狂ないだが、大脳辺縁系の機能亢進より、体感として、よほど的は射ている。腹には虫など居りませんよ、と断言するのは、腹に虫が居なかった者の特権だ。小五のとき、わたしと信ちゃんだけ、別室に呼ばれた。虫がおったとよ、と保健の先生に言われ、赤いのみ薬をもらった。蟯虫ぎょうちゅうだ。おしりぺったんフィルムを、朝いちばん、肛門に押しつける検査に引っかかった。当人も心当たりだらけであって、とにかく、尻の奥がかゆいのだ。耐えがたいほど、かゆいのですよ。薬をもらった翌日の朝、が便を見ると、居た。詳述は控える。だが、いかなる脳機能科学の術語に依る小賢しい説得をもってしても、肚には虫がいるのですよ、というわたしの持論は、びた一文、揺るがない。だから、虫が好かない奴、とは、わたしの判断ではない。虫が好かないのだ。虫のよい考えは、わたしの考えではない。虫がよい考えなのだ。同様に、きょうはわたしの虫の居所が悪いのだし、ゆえに、肚の虫が収まらないのだ。最近、逆流性食道炎と診断されるあの悪寒は、虫がだす虫酸むしずのしわざである。虫の居所のはなしに戻るが、ここだけの話、実は、この文章は、その肚の虫が書いているのだ。わたしはあらかた、虫の指令どおりに、ことばを出力する係だが、なにしろ、この虫はやり放題であるから、検閲、校正、オブラート包装、尻拭い、なども兼務する。ちょうど、作家と編集者の位置づけだ。虫の仕業でとばっちりを食らうとは、わたしは割にあわない仕事か、といえば、虫の手柄を我がもの顔で受けとるので、まあ、おおむねとんとんだ。この虫は、人間の分際のわたしが出しゃばると、居所がはなはだ悪くなる。てんで信頼がない。ところで、鬼とは人間であろうが、人間が鬼とるのか、人間とは元来、鬼であるのか。後者だ、と虫は言う。虫を信じないとは、いては、自己の内部に棲みつく異物を感知する、センサーの異常だ。私の判断動作の主体を、私であると信じて疑わない者は、他者の判断動作の主体もまた、他者であると信じて疑わない。そのような傲慢な者は、他者のなか――むろん肚のなかだ――にある揺らぎ、に思いを致すことができない。肚の読み合いができない、そのような増上慢のこんこんちき野郎が、手前勝手な怒りを、腹に収めることができぬ。まったく度し難い、それを古より鬼、と呼ばう。なにしろ体調の都合、わたしはまともな編集に堪えず、この文章は俺が乗っとった。いいか、天狗ども、撒かれた豆はすべて、お前たちを目掛けているのだ、締まりなくヘラヘラするな。鬼は外、虫は内。

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