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芸術を渇望していたころのはなし

インタビュアーの鯨井啓子です。

先日Facebookに、友達から依頼を受けて作っていたニュージーランドアフロさんの写真が出てきました。

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▲センターの鹿を囲むおふたりです。

あれは去年のことだったんだ!もっともっと前のことだった気がしていた!と、一瞬時空がゆがんだような気持ちになりました。

このふたりを作り上げてから、私は絵も描いていないし、ぬいぐるみづくりもしていません。自分で作っているのは、快適な素材を求めて作っている服だけになりました。

今振り返ってみると、自分の精神と創作意欲には密接な関係あるような気がしてなりません。これを機に気付いたことを書いてみようと思います。

芸術を欲する

私はこどもの頃からずっと絵を描くことが好きでした。でも、それと同じくらい、本を読むこと、文章を書くことも好きでした。大会に作品が行くというようなこともあったけど、絵はどうしても文章に比べて評価が劣りました。文章では県大会に行くけど、絵は市の大会までみたいな。他人の評価はどうでもいいのですけれど、それでも個人の実感として、文章の方が特に努力をしなくても、勝手に他人によるよい評価が返ってくる。というのがありました。

それなのに高校時代、私が選んだ芸術系の選択科目は美術で、大学の学部は芸術学部でした。特に大学では、朝から晩まで絵を描いたり粘土をいじったりという楽しさを満喫しました。今振り返ると心の奥底には、私は文章を書く人だ。しかも、アメリカにいたけど日本語で。という意識がちゃんとあったように思います。それでも、芸術を楽しんでいないと自分の精神を保てないような感覚があって、むさぼるように作品を作ったり消費したりしていたように思います。

動物としての本能的欲求

30代になって自分自身としっかり向き合って分かったことですが、私のこの芸術を求めてしまう衝動に理由を見つけるとすれば、動物だからということなんだと思うのです。こどもの頃、我が家の家庭環境は安定していなかったので、私の情緒もなかなかに不安定でした。そんなころ、絵を描いたり、芸術作品を見たりすることは、私の心に大きな栄養を与えてくれました。あの頃の私が芸術を欲したのはとても根本的な、生き物としての本能的な欲求だったのだと思うのです。

そしてそれが去年の今頃満たされて、やっと本来やるべきことに集中できるようになった。今はそんな感覚でいます。もちろん芸術は今でも大好きだし、癒され、支えられていると切に思います。でも、依存したり、渇望したりするということはなくなった。芸術ともいい関係を築けるようになった。そんな気分です。

作品作りに没頭したり、ひたすら絵を描いたりした時間は、私が私として生きるために、つまり自分自身を取り戻すためにとても必要なものでした。あれがなかったら今もゾンビのように、心ここにあらずで過ごしていると思います。

そういう意味でも、芸術は人には活力を与える、素晴らしい活動だと思います。やりたいと感じたら、うまいへたに関わらずどんどんやった方がいい。それは行動そのものが、私たちに安心と豊かさを与えてくれるとからです。


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