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レポートの書き方(まとめ):補足

ここでは過去3回、レポートの書き方について短い文章を書きました。それをまとめたのが以下のものです。

さきほどレポートの採点を終え、一人一人にメールにて返却するにあたり、全体に向けたコメントを送ろうと、ワードにカチャカチャとメッセージを書いていました。先の「書き方」について書いてからしばらく経ったのもあってか、これはこれでnoteに載せておこうという気になったので、早速手直しし、アップしました。おそらく上記の「まとめ」と重複する部分はあるので、まとめへの「補足」とします。

「だ・である」調で書く方がいい理由

レポートを読んでいると、多くの方が「です・ます調」で執筆されていることに気づきます。しかも、その比率は年々増えている、というのが私の肌感覚ですが、教員をされている方々の印象はどうでしょう?

もちろん、レポートを「です・ます調」で書いてはいけないという規則はありませんし、きちんとしたレポートが書ければ、(字数が少しかさましされることが問題なければ)OKです。

ですが、それでも私は学生には「だ・である調」で書くことを薦めています。というのも、「です・ます調」で書くと文章が口語的になり、その結果、論理が「ゆるく」なりがちだからです。現に、「~だなと思います」や「というか」といった、口語的な表現も「です・ます調」のレポートではよく飛び出します。

きちんと論理的に思考し、それを的確に表現できる力があれば、「です・ます調」であっても「だ・である調」であっても大差はありませんが、レポート執筆を通して思考力を深める訓練をするという過程においては、「だ・である調」での執筆を練習する方がよいでしょう。

「思う・考える・感じる」の多用

ほぼ無意識だと思われますが、レポートを書くとき、つい文末に「思う・考える・感じる」を多用しがちになります(学生の皆さんは、実際ご自身のレポートを再読したとき、どのくらいの頻度でこういった表現を使っているか確認してみてください)。

それがなぜいけないかというと、先と同様、「思う・考える・感じる」と書くことで、論理が「ゆるく」なりがちだからです。

そもそもレポートは書き手が「思った」ことや「考えた」ことを書くものですから、あえてそう書く必要はないはずです。それでもなぜ私たちは「思う・考える・感じる」で文を終えてしまうのでしょうか。それは、「~である」と(しかも「だ・である調」で)断言すると書いている主張が自分の実感以上に強く感じられ、それをついやわらげようとする意識が無意識に働いているからではないでしょうか。ある意味、そうすることで自分を読み手の反論から自己を守り、「あくまでも私の『主観的』な考えですし、実際そうかはわかりません」というような、論理的な逃げ道を無意識に残そうとしているからではないでしょうか。

レポートを書くことは、感想文を書くのとは異なります

感想文はまさに心に浮かんだ「感想」を書くのであり、自分の感情がどう揺さぶられたか、どんな思いが想起されたか、といったことを書くことが許容されます。「知らなかった」と告白したり、驚いてみたり、「いたたまれたくなった」といった自分の感情を吐露することができるのです。しかし、こうした「思い」はいわゆる読んだり聞いたりしたことの、皆さんの1st reactionのことです。極論すれば、「感想」とは、その場で自分の中で瞬発的に起こった感情や考えを中心に書いていくことです。

レポートはそうではありません。レポートを書くこととは、上記のような自身のなかに生じた1st reactionの先に進み入り、その感情や考えの意味をより深く分析し、なぜそう言えるのかを根拠づけて考えていく、知的探求のことです。そう、レポートは自身による「探求」の軌跡を記したものなのです。私はよく指示文で、あえて「根拠とともに分析しましょう」と書くようにいていますが、本来はそういう文言が入っていなくともそうするのがレポートです。つまり、想起した感情や思い、気づきの先に進み入り、それらについて深く思考し、行きついた自身の主張を根拠立ててながら他者に理解してもらえる仕方で構築していくのがレポートであり、「思う・考える・感じる」という表現を多用することは、ための「勇気」を削いでしまうのであり、逆に、勇気が持てないからそういう表現で自己を防御しているのです。

授業後に書くコメントペーパーなら、まだそういう1st reactionでもよいのかもしれませんが(コメントペーパーでも深く潜って考えてくれると、こちらとしては読みごたえがありますけど)、「レポートを書く」時の構えとしては、以上のことを念頭において思考し、論を紡ぐ癖をつけていってください。この授業だけでなく、今後のレポート執筆に役立ててみて。

段落分けをしよう

上記のように、論理的に物事を考え、論を展開するには、一歩一歩と歩を進めていく必要があります。その「一歩」が段落に値します。その段落なかで、主張点1についてしっかりと根拠づけて論じる。そして、次の段落に一歩進み、次の主張点を論じていく。こういう考えをパラグラフ・ライティングと言います(ページ最初の「まとめ」ページにあります)。

段落を作っていない方のなかには、あらかじめ思考を整理せず、行先が決まっていないうちに、徒然なるままに文章を書いているのかもしれません。どこに着地するかは書いてみるまでわからない。私たちが会話するとき、パラグラフ・ライティングのような論理だてを考えて発言しているわけではありません。その場の流れに合わせて思いつくことを話すのが大半です。それをそのままレポートに適用した帰結が、先に述べた「口語」的な特徴です。つまり、「段落がなく、ですます調となり、口語体が混じり、思いました・考えました・感じましたという1st reactionを並べ、そうすることで口調をやわらげて自己を守り、明確な主張とその根拠づけを無意識に怠ってしまう」のです。

段落最初は1マス空ける or 段落間を広くとる

私が子どものころは、文章を書く際、段落最初は1マス空けるように指導されました。そうすることで、段落の区切りを明確に示すことができます。

今はどうなのでしょうか。これも年々、段落最初を1マス空けず、段落最後そのままで改行し、また1マス空けずに書く(あるいは「段落分け」しない)というレポートが増えています。1マス空けないとどうなるかというと、段落最後の行が右ぎりぎりのところになったときに、次の行が果たして新しい段落の最初なのか、それともまだ段落が続いているかが判別できなくなります

小学校の時から習うのにも、そのようなコミュニカティブな理由があるのでしょうが、大学になったとたん、あるいは高校のときからか、その習慣が落ちてしまいます。これは推測の域をでませんが、それはもしかしたらSNSの使用と相関しているのではないかと、思っています。つまり、彼ら彼女らは、SNSに投稿するときのような感覚に近い構えで、(らしくない)レポートを書いているのではないでしょうか。

実際、SNSでは特に1マス空けて文章を書きません。おそらくは、自動で次の段落との間に広めのスペースをあけてくれるからであり、また、SNSでは思考を綴るというより「つぶやき」程度なのでそもそも段落分けする意味があまりないわけですから。つまり、SNSやそこへの投稿の仕方・構えは往々にして、先の段落に書いた「ゆるい」レポートの特徴をそのまま反映しているのです。

おわりに―少し抽象的な「言語と人間」の話―

私たちは言語を「道具」のように考えがちです。正確には、コミュニケーションのための道具として。ですが、道具であれば、道具自体が人を変えるということはあまり起こりません。人ははさみを使いこなすようになりますが、はさみが人の価値観を変えたり、人を成長させたり、アイデンティティを形成したりということは直接は起こりません。はさみは人間ではなく、モノだから。

しかし、「言語」とはモノではありません。モノ的な特徴としては、言語は空気の振動あるいはインクの染み(や炭素のカス、画面の点滅)のようなものでしかありません。言語と人との関係は、はさみとその使い手のような客体-主体という関係ではありません。そんな距離はない。言語は極めて人間的な現象なのです

言語とは何かと考えるとき、私たちは言語を「対象」として考えます。まるで科学者が岩石を分析するときのように。しかし、言語を考えるときどうやって考えますか。言語で考えませんか。ならば、言語とは思考の対象であるとともに、思考の手段でもあるわけです。

私たちが「レポートを書く」ことのように言語にこだわって物事を考えることとは(人→言語)、その結果として思考が深まり、思考力が高まる(言語→人)という反作用が起こります。腕力をつけたければ腕立て伏せをし、腹筋をつけたければ腹筋運動をするように、脳を鍛えたければ私たちは言語による思考を鍛えるしかないのです。言語を媒介に、思考を鍛えるのです。

レポートを書くというのはそういうことです。1st reactionとして出て来たものをベタに言語で書き記す(人→考え→書く)のではなく、言語化に格闘し、考えを鍛え、思考力を高めていく(書く→考え→人)ことで、私たちは成長をします。だから教育機関ではレポートを書くのです

みなさんが悪戦苦闘しながらレポートを書くごとに、思考の高みに近づいていくことを願っています!

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