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2010年2月12日公開の映画『バレンタインデー』のパンフレット(劇場用プログラム)に寄せた「愛とは、ワタシってこと。」をnoteに公開している。

語るほどの恋バナのないわたしの何を見込んで、お声がかかったのかと記憶を掘り起こすと、その前に一本、恋愛映画のパンフへの寄稿を依頼されていた。

その映画は2008年9月 27日公開の『最後の初恋』。海辺のホテルで、妻であり母である女が、恋に落ちるという話で、このときは妻であり母であることを見込まれたのかもしれない。

原稿を依頼されたら、まず自分との接点を探す。

『バレンタインデー』のときは、キラキラ恋愛は経験が乏しく接点にし辛いので、留学経験のあるアメリカの恋愛事情を接点にした。「あいうえお」の中に愛に飢えた男と女がいて、ワタシ(ワタシ)もいる、ということも書いた。

恐らくそのときの縁で話が舞い込んだと思われる『最後の初恋』では、海という感じの中には母があり、母という漢字の中には女があるという字解きを膨らませた。

言葉と遊んだり絡んだりの恋愛経験は豊富なほうだ。

「海の中には母があり、母の中には女がある」今井雅子

海辺のホテルで、妻であり母である女が、恋に落ちる。映画『最後の初恋』を観て、海─母─女というつながりを面白く思った。

海という字の中には、母がある。
母という字の中には、女がある。
そして、妻という字の中にも。

原作も脚本も英語で書かれているだろうから、漢字での連想は働かなかっただろうけれど。

妻の中の、母の中の「女」は、日々の生活に埋没し、沈殿していく。恋人の頃は食事を作っただけで感激され、喜んで皿を洗ってくれたのに、結婚すると、空の皿をテーブルに残し、ごちそうさまも言わずに夫はテレビの前に移動する。

わたしって家政婦みたいとため息をつくうちに子どもが産まれ、家政婦は乳母も兼ねるようになり、夫や子どもに「〜しなさい!」と繰り返すうちに、女の自分はどんどん遠のいていく。好き好んで疲れた顔をしているわけじゃない。顔色をメイクで隠すどころか、鏡を見る暇さえないのだ。

深いところに沈んだ「女」が浮かび上がってくるには、妻であることからも母であることからも解放される海辺のホテルのような非日常空間が必要になる。その海を荒れ狂わせる嵐は、感情に揺さぶりをかける脚本のテクニックとして有効だ。激しく窓を叩く風雨は、同時にヒロインの心を波立たせ、雷鳴とともに彼女にも雷に打たれる瞬間が訪れる。

もしも嵐に見舞われなかったら、凪いだ海そのままに、二人の間には何も起こらなかっただろう。さざ波を立てることはあっても、妻であり母であることを忘れて男の胸に飛び込むことはなかっただろう。地上の人間にはどうすることもできない空模様は、恋愛の神様の気まぐれなのかもしれない。

嵐に衝き動かされた恋は、嵐とともに消え去る儚さを持ち合わせている。けれど、この映画では、それぞれの現実へ旅立ったときが、二人の恋のはじまりとなる。手紙のやりとりを重ねながら、互いの頑張りを励みに、自分を高めていく二人。恋をするのに遅すぎることはなく、いくつになっても人は恋からチカラをもらえるのだ。

だが、皮肉なことに、嵐によって結びつけられた二人は、嵐によって引き裂かれる。新しい土地で人生をつかみかけた男は豪雨にのまれ、二人は永遠に再会の機会を逃してしまう。ヒロインは悲しみにくれるが、それを乗り越える強ささえ、「最後の初恋」は授けてくれた。

もう一度恋をしたいとあがいている女性も、もう恋をすることはないだろうとあきらめている女性も、映画を観て、あんな恋をしてみたいと胸が騒ぐことだろう。

海辺のホテル。
たった一人の客。
二人で迎える嵐の夜。

そんなお膳立てが自分に用意されることは叶わないからこそ、映画の中の恋はきらめいて見える。

ささやかな企てとして、新しい恋を見つける代わりに、ひとつ屋根の下に暮らす代わり映えのしない同居人にこの映画を見せ、恋を再発見する手はあるかもしれない。妻の中の、母の中の女を認めてくれるたった一人がいるだけで、色あせた世界が違って見えてくる気がする。

(映画『最後の初恋』パンフ寄稿)

「漂うわたし」がいた

掘り起こしたファイルの日付は2008年8月28日となっている。16年も前だ。読み返しても、こんなことを書いていたのかと自分の原稿なのに自分ではない誰かが書いたような距離感を覚えるのだが、このくだりを読んで、「埋蔵主婦だ」と思った。

妻の中の、母の中の「女」は、日々の生活に埋没し、沈殿していく。恋人の頃は食事を作っただけで感激され、喜んで皿を洗ってくれたのに、結婚すると、空の皿をテーブルに残し、ごちそうさまも言わずに夫はテレビの前に移動する。

日々の生活に埋没し、沈殿していく「女」。

埋蔵主婦は、saitaで連載中のオリジナル小説「漂うわたし」のテーマだ。3人の女性のエピソードを2話ずつリレーでつなぎ、150話を超えている。

連載よりずっと前に書いた原稿の中に「漂うわたし」がいた。

ささやかな企てとして、新しい恋を見つける代わりに、ひとつ屋根の下に暮らす代わり映えのしない同居人にこの映画を見せ、恋を再発見する手はあるかもしれない。妻の中の、母の中の女を認めてくれるたった一人がいるだけで、色あせた世界が違って見えてくる気がする。

「ひとつ屋根の下に暮らす代わり映えのしない同居人」は既婚未婚の読者全般に向けた表現だと思うが、当時のわたしは自分の夫を想定して書いていたのだろうか。

妻の中の、母の中の女を認めてくれるたった一人。

屋根の下でも外でも、男でも女でも、大人でも子どもでも。いっそ自分自身でも。

目に留めていただき、ありがとうございます。わたしが物書きでいられるのは、面白がってくださる方々のおかげです。