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意見対立の考察

どうも、偏差値40をやらせて頂いております、底辺陰キャです。チャオチャオチャオチャオ!毎度の如く、タイトルからして眠気を誘うようなnoteなのですが、今回もそんなに難しい話じゃないということを釘さしておきたいですね。そもそも、この文を書いている俺自身が頭良くないんで、賢い文章なんて書ける訳が無いんですよね。なんで肩の力を抜いて、子供の雑談を聞くような姿勢で読んでくだせぇ兄貴。んじゃあ御託はゴックンして、早速考察に入りましょ〜う!

そもそも意見の対立って存在するのか?

古代ギリシアではソクラテスやプラトンなど、多くの有名な哲学者が議論バトルを繰り広げてきた。そこから、如何にして議論に勝つか、という研究がなされ、修辞学、つまりレトリックが発展した。そのレトリックという概念も、自身の思いを正確に伝える為の便利なツールになり、今の社会では重要な役割を果たしている。

そんな感じで人間社会に影響を及ぼした議論、そこには、一般的に思われている「意見対立」が存在するだろう(当然、意見対立がない議論も存在はするが)。けれど、一般的に認識されているであろう対立とは、本当に存在するのだろうか。

この下の文章は少し難しいかもしれないけど、すぐに喩えて説明するから、わからない人は我慢してサラッと読んで!絶対に後で分かるようになるから!↓↓↓

無限的なパラドクス、つまり本当のパラドクスが起こる事例など、形而上でしかない。現実に存在するありとあらゆる意見は、各々のパラダイム(前提)に基づかれ、それがターミノロジー(言語)として現れる。意見の論理性が欠けていることは多々あるが、間違っていると思われている論理にも、そうなるべくしてなる前提が存在する。つまり、脳の中にある意見には無謬性が存在する。一見、意見にパラドクスが起こっているとしても、敷き詰めていけばそこには無謬性が包含されているのが分かるのだ。つまり、我々が認識しているパラドクス、つまり意見対立とは、すれ違いであり、言語の性質を用いた皮相的な事象なのである。よって、Aに対してBへの否定を返している状態が、どのような意見対立にも存在するのだ。そこにはAとBが存在するだけであり、互いに互いを否定することはできない(論破出来なくなるという訳では無い)。

はーいお疲れ様でした!

読むの疲れたかなー?お兄ちゃんも書くの疲れてきちゃった!それじゃあ、簡単に説明しよう!あ、因みに上の文だけで理解出来た賢い人は飛ばしていいからね。ここまで飛ばしていいよ〜!っていうの書いてあるから、下にスクロールしちゃって!

じゃあまず結論から述べるね。

意見対立なんて存在しない!

なんのこっちゃ、と思うでしょ?でもね、これめっちゃ簡単なことなんよ。

例えば「りんごは美味しい!」という意見Aと「りんごは不味い」という意見Bがあった時、このふたつの意見は対立していると思うでしょ?つまりみんなは、このふたつの意見が「衝突している」と思っているねん。けどな、俺は「衝突しているように見えて、実はその意見たち、ギリッギリのところで衝突を避けているんどすえ。寧ろ、妄想でもない限り、ぶつかろうにもぶつかれないんどす」って言っとるんよ。りんごの例に戻るけど、「りんごは美味しい!」という意見Aってさ、当然、その結論に至るまでの前提が存在するよね?例えば、この意見Aって「腐ったりんご」にまで言及しているとは思えないでしょ?つまり、意見Aには「ただし健全な状態のりんご」という条件がつく。ここで勘違いしないで欲しいことは、この前提って別になんでもいいんだ。「ただし椎名林檎の脇汗をりんごと指している」みたいな前提を置いたっていい。要は、言語で表されている意見というのは、言語で表されていない様々な前提が内包されているってことだけを覚えておいて欲しい。次に「りんごは不味い」という意見Bについて話すんだけど、これも意見Aと仕組みは同じ。つまり、色んな前提が存在しながら、「りんごは不味い」っていう結論に至っているんだね。じゃあここで聞くけど、意見Aを結論づける為の前提が、意見Bを結論づける為の前提と全て入れ替わったらどうなる?

そう、意見Aが意見Bになり、意見Bが意見Aになるんだね。

何が言いたいかって言うと、意見というのは、それ単独で存在するんじゃなくて、その意見に内包されている色んな前提に依存しているっていうことなんだ。前提を入れ替えただけで意見Aが意見Bに変わったことからも分かるようにね。​───────ここで「いや、意見Bと意見Aが入れ替わっても、意見Aの前提である"椎名林檎の脇汗"を美味しいと思う確証はねーじゃん!」という反論があるかもしれないため、予め説明しておく。意見Aを結論づける為の前提には「椎名林檎の脇汗を美味しいと思う」という内容が存在するべきであり、そうでなくては意見Aを結論づけることは出来ない(厳密には、美味しいと思わないという前提で、美味しいと思うという結論を導き出すことも出来るが、ここでは一般的な話をしている)。よって、「美味しいと思う」から「美味しいと思う」のだ。美味しいと思う、という前提を覆すのであれば、それは意見「C」の誕生と言っても差し支えない。

ということはね?俺達が思っている対立っていうものは、全部、ある前提からはじき出された、矛盾しない論理であって、その論理と論理が二つあるだけなの。さっきの例えを使うと、意見Aと意見Bは対立するように見えて、意見Aを掘り下げていくと、「椎名林檎の脇汗が美味しい!」という意見だとわかったり、意見Bを掘り下げていくと、「うんこがついたりんごめっちゃ不味い」という意見だとわかったりする。そうなれば、このふたつの意見は対立しないでしょ?そんで、こんな感じのすれ違いが、全ての意見対立には存在するっていうイメージ!つまり、お互いがお互いにぶつからずに、ただ意見Aと意見Bが存在するだけなんだよね。よって、意見対立というものは、精緻に見ていけば、無矛盾性を兼ね備えた、あってないようなものなんだ。

賢い人はここから見てね!↓↓↓

そこ(今回の一連の文章)から学べることとは、俺達は「相手の意見は間違っている」と決めつけるのではなく、相手の意見に存在する、ありとあらゆる言語化されていない前提を汲み取る努力をするべきだということ。相手の主張というのは無矛盾性を付与して存在するのだから、議論においては「相手の意見が、言語の性質上、つまり形式的に間違っている」という指摘をするだけではナンセンスであり、そこから「じゃあ相手の意見に、無矛盾性を兼ね備えるためには、どのような前提が存在すると考えるべきなのだろう」と考え、建設的になるべきなのだ。その上で、意見の価値判断をするのが、理想の議論と言えよう。

あ、補足として言っておくけど、意見の対立って、別の観点から見たら全然出来るからね!

意見Aと意見Bがあり、そのふたつが矛盾しないとしても、どちらの方がより価値があるのかを競う、というシチュエーションだった場合、「意見が対立している」ということも出来る。ただ、だからといって俺が今回述べた「意見対立などない」という主張とは矛盾しないし、ただ、二つの意見が存在するだけ。

なんでそうなるのか、明日までに考えといてください!ほな、いただきます!

ひとつの宿題みたいなものです。今回の話を理解できていれば簡単に理解できます…よね?がははははは!そんじゃ、最後まで読んでいただき、

誠にありがたき〜!




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