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思考

知識、少なくとも俺にとっての知識は、何百、何千個もある引き出しの中身のような物なんだよね。それらの引き出しには一つ一つラベルが貼られていて、需要がある場合に応じて引き出しを開ける。当然、中身が空っぽの場合もあるし、ギッチギチに中身が詰まっていたりする。どれだけその中身があるのか、それが知識量の程度なんだよね。

その中身は、渉猟なりなんなりして増やしていくんだけど、折角貯めたその中身を引き出すには、トリガーが大切なんだよね。例えば、一般的に考えて、フェミニズムのラベルが貼られている引き出しを探す動機(議論をするため、等)が無いと、フェミニズムの事を考えたりはしないでしょ。そういう風に、何かを語るには、その為のトリガーが大切なんだ。普通に生活していてもトリガーはあるはずなんだけど、どれだけそのトリガーに気づけるかには個人差がある。それを「感性の差」と俺は呼んでいる。また、普通に生活していてもトリガーは多く存在するけど、より多くのトリガーを身の回りに置きたいのなら、Twitterで多岐にわたる分野のスペシャリストをフォローすることをオススメする。

だけど、例えトリガーがあっても、引き出しの中身が空っぽなら語れない。裏を返せば、知識を蓄える事によって語れるようになる。だから、全ての賢者が多弁という訳では無いけど、多弁である人に賢者は多い(あくまで経験則だけど)。

じゃあ何故、あくまで「多い」という表現に俺はしたのか。それは例外も多く存在するからなんだよね。例えば、フェミニズムのラベルが貼られている引き出しの中に虫とかグミとか入れちゃったり、折角取り出したフェミニズムの知識を上手く扱えなかったり…まぁ現実で言うところの論理的思考力の欠如、とかがいい例なのかな。そういったことをしちゃうと、間違ったことを多く語る、おしゃべりバカが出来上がるんだよね。そうなりたくなけりゃ、引き出しに入れるのに相応しい中身かどうかの精査をしたり、正しい引き出しの中身の扱い方を学んだりしなきゃいけない。まぁただそれだけ覚えても、実際に使う中身がなきゃ宝の持ち腐れだけどね。だからこそ、議論方法と知識っていうのは、どちらも欠けてはならない。

まぁ、中身を蓄えていくうちに、気がついたら「中身の使い方の中身」も蓄えていました〜、なんてこともあるし、その逆も然り。だから一概に議論方法と知識、どちらを優先すべきかなんて俺は言えない。だけどもし、議論方法から知りたいとかいう人がいるなら、野矢茂樹の論理トレーニングでも読んで、さっさと議論のメッカ、Twitterで議論をしよう。人の殺し方は人を殺して覚えるのが一番効率いいからね。レッツディベートライフ。

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