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嶋津暉之という生き方

「生き方がカッコいい」と思う人は数多くいる。紛れもなくその一人は嶋津暉之(しまづ・てるゆき)さんだ。先月、逝去されたが、「嶋津さんが亡くなった」と知らない人に伝えることができなかった。言葉に出したくなかった。しかし、東京新聞に記事が載ったことで、私も、その生き方を、嶋津さんを知らなかった人にも知ってもらう機会にしたいという気持ちに転じた。

嶋津さんは2005年に「田尻賞」(「公害Gメン」と呼ばれた田尻宗昭さんの名前を冠し、公害、環境、社会問題に取り組む人に贈られた賞)を受賞した。その時に推薦文を書いた記憶があり、それを活用しようと考えてPCを検索をしたら、2004年10月13日の日付で別のコラム原稿が出てきた。活字になったものと比較すると、本の趣旨との関係で多くを削り再構成したため、別物になっている。そこで、その元原稿を、タイトルだけ変えて、ここに共有させていただきたいと思った。

八ッ場ダム/川原湯温泉との出会いから始まった「嶋津暉之の生き方」

 嶋津暉之さんと八ッ場ダムとの出会いは1960年代、彼がまだ学生時代です。川原湯温泉を訪れた嶋津さんは、日本の高度成長を支えるダム計画が、受益を受ける都会人たちからは見えない山奥で人々の心を翻弄し、コミュニティを壊していたことに気づき、衝撃を受けました。

 嶋津さんは、1972年に東京都に就職しましたが、最初に取り組んだ仕事が工業用水(地下水)使用の合理化でした。当時、地下水のくみ上げによる地盤沈下が問題になっていました。その解決を、嶋津さんは節水や水の再利用で可能にし、「節水技術を確立すれば、ダムをこれ以上必要としない社会が来る」と確信したと言います。「これで遠く離れた山村に住む人々が、都市住民のために苦しむ必要がなくなる」と。

 ところが節水で成果を上げたにもかかわらず、一度立てられたダム計画は止まらない。

 嶋津さんは失望しました。しかし、諦めません。行政マンとしてではなく、一人の人間としての活動を始めたのです。建設省(現在は国土交通省)や水資源開発公団(現在は水資源機構)の計画、データ、人口統計、水需要実績データを入手し、詳細な分析をしました。現実の水需要と計画のズレを証明したのです。「ダムは要らない」と運動する住民グループに、嶋津さんはこの情報(何よりの武器)を与え、支援する行動に出たのです。

 この新しい支援に最初に飛びついたのは1976年に始まった琵琶湖総合開発工事の差止訴訟の原告団です。これをきっかけに、嶋津さんは全国のダム反対運動から支援を求められるようになりました。

 睡眠時間を削り、休日を使い果たして現場を歩き、ダム計画と水需要の実績データの乖離の証明しました。細川内ダム、渡瀬遊水池第二貯水池、清津川ダム、足羽川ダム、新月ダム、倉淵ダムなど、これまでに中止・休止となった多くのダム計画の反対運動の影には、常に、嶋津さんによるデータ分析がありました。中止・休止にはならずとも、長良川河口堰、徳山ダム、苫田ダム、川辺川ダム、宮が瀬ダム、相模大堰、宇奈月ダムなどに対し、住民運動側が、「無駄なダムだ」と自信を持って言えるようになったのも、その土台に、嶋津さんのデータ分析がありました。

 住民運動に根拠と説得力を与え続けた嶋津さんの情報は、ボディ・ブローとして、行政のみならず、世論を突き動かしていきました。ただ、情報とは常にそうであるように、「水余り」を今多くの人が知っていても、その情報分析に汗を流した人のことを知っている人はそうはいません。

 しかし、同時に、情報とは常にそうであるように、知る人ぞ知るで、嶋津さんの手法に引き寄せられた人々がじょじょに手を結び合い、つながっていきました。1993年には「水源開発問題全国連絡会」(通称:水源連)という、その名の通り、ダム開発計画に翻弄され、地域ごとにバラバラだったダム反対運動が連携・連絡をしあう市民ネットワークができました。

 これをきっかけに、嶋津さんは、住民運動への支援にとどまらず、国交省(建設省)との対決、対話へも乗り出します。国会議員に対し、公共事業の中止・休止・継続を判断する中立的な「チェック機構」を創設して欲しいと提言する活動でも、その中心となりました。長良川河口堰が本格運用された1995年初夏、建設省は、ダム事業等審議委員会を始めましたが、その「発想」は嶋津さんたちが提言し続けた「チェック機構」とピッタリ符合します。

 世論の高まりを背景に、環境保全と住民参加を新しい概念に加えて、河川法が改正されたのは1997年。この時の政府案に対抗する野党対案の骨子を練った中心人物は、今でこそ言えますが、嶋津さんです。

 嶋津さんの役割はこの頃からますます増えていきました。「水余り」という世論が定着した一方で、「治水計画」の現実との乖離をあばいてくれる専門家がいなかったからです。嶋津さんは、治水計画の根拠となる基本高水(ダムがない場合の最大流量)の設定が、部外者による実証が不可能なままで、国交省の密室で行われていることに気づきました。 

 1997年の河川法対案作成のなかで、嶋津さんが最も強調した新しい仕組みは、この基本高水を設定する段階で、情報をすべて公開し、住民が参加できる仕組みでした。しかし、当時、このことは社会にはうまく伝わっていきませんでした。

 この対案はあえなく廃案になりましたが、ムダに終わったわけではありません。この時に学んだ議員立法のノウハウを使って、水源連として、ダム計画の中止に必要な法律の市民立案による提言を続けたのです。嶋津さんがその中でも最も力を入れたのは、「ダム計画中止に伴う生活再建支援法案」です。その提案書に嶋津さんはこう書きました。

 「現段階でのダム計画の中止は、その生活設計を白紙に戻し、地元の人々を絶望の淵に追い込むことになりかねません。この状況を打開し、地元の人々とともにダム計画の中止を求めていくためには、ダム計画中止後も、ダム予定地の生活再建の推進を可能にする法制度、すなわり「ダム計画中止後の生活再建支援法」の制定が必要です。」

 今のところ、この提案が国会に提出される見込みはありません。しかし、いつの日か必ずや必要となる仕組みであることに違いありません。

 そして、現在、嶋津さんが最も力を入れて取り組むのが八ッ場ダムです。数年をかけて、嶋津さんは、「首都圏のダム問題を考える市民と議員の会」結成に動きました。一都五県の住民運動の間を、目まぐるしく飛び回り始めたのです。

 東京都環境科学研究所を退任したのは、2004年3月31日。ほんとうは、「やり残した仕事」のために研究所への再任用を希望していました。普通なら、このような希望が退けられることはないそうです。ところが嶋津さんの希望は退けられました。

 再任用の時期にあることが重なったてしまったのです。あることとは、八ッ場ダム計画の事業費が2110億円から4600億円へと増額され、一都五県が増額を承認するかしないかのタイミングです。八ッ場ダムを止めることができるなら、今しかない。嶋津さんは、TV番組「ニュースステーション」や朝日新聞の「私の視点」などで、八ツ場ダム批判を展開しました。

 東京都は八ッ場ダムの受益者です。都から嶋津さんの再任用が退けられた時、同僚たちの間で、(八ッ場ダム批判を)「やりすぎたからではないか」とささやかれたのはもっともなことでした。一都五県は増額を承認し、嶋津さんの公務員生活は終わったのです。

 でも、このときの嶋津さんの叫びは、ムダに消えたわけではありません。全国市民オンブズマン連絡会議の弁護士たちが、それを見事に受けとめたのです。 

 「一都五県に、一斉に住民監査請求をしよう!」

 この呼びかけに多くの人が賛同し、2004年9月10日、一都五県に対する5293人による一斉住民監査請求が実現しました。その論理的主柱として、嶋津さんは、また、新しい一歩を踏み出しました。5000人余のエネルギーが結集し、「ダム計画中止に伴う生活再建支援法案」の成立とともに、八ッ場ダム計画は、止まるべくして止まるのではないか。私はそう思わずにいられません。

今となっては、これを書いた時の希望のすべては叶わなかったことは歴然だが、
多くの人に知恵と勇気を与えた嶋津さんと、そして共に努力した全ての人々への感謝を込めて

【タイトル写真】
嶋津暉之著『水問題原論』(1991年、北斗出版) 

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