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志賀原発で何が起きていたか? ②規制委と規制庁の初動

2024年1月1日16:10に令和6年能登半島地震が発生した時、私は関西地方を車で移動中だった。原子力規制庁が18:30に臨時会見したが(既報)、規制者としての初動全般についても記録しておきたい。


「原発銀座」24基の確認

志賀原発2基(石川県)、柏崎刈羽原発7基(新潟県)、敦賀原発2基/高速増殖炉もんじゅ1基/ふげん1基/美浜原発3基/高浜原発4基/大飯原発4基(福井県)の計24基(多い)! 廃炉が決まっても使用済み燃料プールは冷却の必要があるために、それらの状態確認が2時間程度で行われたことになる。

「警戒本部」を東京と現地で設置

その後、気象庁発表で【最大震度7】を記録した志賀町に位置する志賀原発については、北陸電力が、ほぼ毎日、情報を訂正・追加していった。

そのバタバタぶりを見ていて、志賀原発で働く原子力規制庁職員は何をしていたのだろうかと気になった。そこで、2024年1月10日原子力規制委員会の直後の記者ブリーフィングで尋ねてみた。

なお、2024年1月10日原子力規制委員会での報告資料p1では、以下の通り、1日1日(志賀町:震度7)6日(志賀町:震度6弱)の2回、「警戒本部」が東京と現地の両方で設置・廃止されていたことになっていた。

2024年1月10日原子力規制庁「令和6年能登半島地震における原子力施設等への影響及び対応」p.1


規制庁の現地検査官の初動は?

Q:志賀原発内に地震発災時に規制庁の検査官は何人、何をしていたのかをわかる範囲で教えてください。
A:地震発災時は検査官と防災専門官2名がオフサイトの立ち上げをしていた。住民の方がオフサイトに来られた。夜間ですので、翌日の朝、2名の規制庁職員が発電所の緊急時対策所に向かったというのは聞いております。

Q:するとオフサイトのみでオンサイトにはいらっしゃらなかった?
A:はい。1日の日はその通りでございます。

Q:ということは6日の日はオンサイトにいらっしゃった?
A:ご認識の通り。

筆者による音声を書き起こし

志賀原子力規制事務所は、「石川県志賀オフサイトセンター」の1階にある。
石川県資料によればオフサイトセンターは「災害が発生しても機能を損なうことなく、一定期間適切な対応ができる施設」で、「増設緊急時対策所」は耐震機能や遮蔽機能を有している。

2023年2月10日「志賀原子力発電所の安全対策について」 p14

石川県志賀オフサイトセンターは、志賀原発から12km、車で17分の距離にあるが、地震発生の1日に、規制庁からは誰も一度も行かなかったということだ。

Googleマップより

この点については、Ourplanet TV(サイト)の白石草さんが以下の追加質問をした。

白石氏:現地職員は、地震発災時は原発にいた。それでオフサイトセンターにいったということか?どちらにいたのか?
A:(慌てながら)1月1日は祝日でございましたので、オフサイトとの近く、30分以内で駆けつけられるところに居住してございますので、発電所にはいってございません。

Q:オフサイトの30分以内のところにいらしてそこからオフサイトセンターにかけつけて、それが、16:26ということか?
A:時間的にどのタイミングかは・・・。

Q:オフサイトセンターをあけたのはいつ?
A:(沈黙)・・・確認はしますが・・・

Q:オフサイトセンターを立ち上げた時間は結構重要だと思う。16:26ではないということなんですか?「現地警戒本部」イコール、オフサイトセンターの立ち上げではないのか?
A:(沈黙)・・・あの今日の資料の時系列のところに16:26に現地警戒本部設置とありますが、この時刻に本部はオフサイトセンターに設置しますので、ここで職員が対応を始めているということだと思う

Q:その時、職員は最初は1人? 同時? だいたいどんな?
A:当日は防災官と所長が駆けつけたと聞いています。

Q:21:50に廃止した?
A:要員が参集して体制を整え、業務を始めたのが(ザワザワ)
Q:16:26に立ち上げて、21:50に閉じた?
A:勘違いしました。そうです。現地の廃止については、本庁が21:50なので、同時かこの頃だと思う

Q:他にも色々なことが起きているようだということで(以下略すが、福島の教訓で東京と現地で共有されているはずのTV会議記録の公開を白石さんは求めた)

音声を概略書き起こし

規制庁の初動をまとめると

ここまでをまとめると、1月1日、規制庁現地職員は、地震発災時には原発にも事務所にもおらず、所長と防災専門官2名がオフサイトセンター(=原子力規制委員会・内閣府事故合同現地警戒本部)を東京の7分遅れである16:26に立ち上げ、この日は解散(廃止)。志賀原発には行かなかった。

そして翌朝、2名の規制庁職員が「志賀原発の緊急時対策所」に向かったというが、これもオフサイトセンターのことではないのか(要確認✴︎下記を参照)。

6日、再度大きな地震に見舞われた時には、原発所内にいた規制庁職員がいた。オフサイトセンター(=原子力規制委員会・内閣府事故合同現地警戒本部)を立ち上げたのは東京の9分遅れの23:50だった。(資料p1による)

*1月16日(火)規制庁現地事務所に確認にしたことを加筆

志賀原発の緊急時対策所」にオフサイトセンターのことなのかを志賀原子力規制事務所に電話取材。北陸電力の施設でオンサイト(発電所の中)にあることを確認した。
 緊急時対策所(通称「緊対所」)は、トラブル、事故、自然災害が起きると(一定の基準を満たすと)、事業者が活動する場所である。規制庁側は、地震による警戒事態の該当事象となると、運転検査官等を向かわせ、事業者がどのような活動をしているか(を見て)、国からの指示がある場合は伝えさせるのだという。
Q:一定の基準とは警戒事態?
A:情報収集は震度5でも動くが、今回のような震度6は警戒事態該当事象。事務所長が所在していた者から指名し、緊対所に出張(でば)っていった。
Q:何に書いてある?
A:緊急時の対応マニュアルや原子力災害対策マニュアルなどいろいろある。
「本庁で聞くと、出張っていったのは翌朝と聞いているが」(それでいいのか)と、確認しようとしたが、回答可能な方が戻る時間にこちらからまた電話することとなった。

(続く)

山中原子力規制委員長の初動は?

ブリーフィング後の原子力規制委員長会見では、もちろん、山中委員長の初動も尋ねた。

○記者 委員長自身は地震発生直後、どのような初動を?
○山中委員長  東京にちょうど戻ってきたところでございまして、すぐさま本庁に駆けつけました。到着したのが17時30分だと思います。

○記者 17時30分ということは原子力規制委員会・内閣府事故合同警戒本部設置が16時19分ですので、その後に御到着はされたと。
○山中委員長 東京に到着した時点が大体17時ぐらいでしたので、電話連絡で到着したということは連絡した上で本庁に駆けつけました。
〜〜〜2ラウンド目の追加質問〜〜
○記者 17時に東京にお戻りになって、本庁に17時半に着かれたということ。もし委員長が戻れなかった場合、どういう段取りになっているんでしょうか。
○山中委員長 私がどこかにいた場合には、当然私がいる場所の事務所のネットワークを使って、対応するということになろうかと思いますけれども。
○吉野総務課長 一言、補足をさせていただきます。委員長が当日東京に戻って来られたという話がありましたけれども、原子力規制委員会の体制としては、3人の委員が必ず東京に、すぐ駆けつけられるところに常駐するという体制をとっておりまして、3名いらっしゃれば必ず緊急を要する事態でも意思決定ができるということで、そのような体制をとっております。また委員長は、発災した場合には近くの拠点に行っていただいて、すぐに連絡を取れる状態に、どんなところであってもしていただくということで運用しておりますので、委員長不在ですぐに意思決定ができないとか、そういう状態は生まれないように体制をとっております。

2024年1月10日原子力規制委員会記者会見録

原子力規制委員たちは、通常の視察でも、3人は東京に残る体制で日程を組んでいると聞いていたが、緊急時もその延長線上にあることはわかった。

これに対して、緊急時の今回の現地検査官たちの体制は、北陸電力が発する情報の不確かさを補うものにはなっていない。そもそも補うべきものでもなく、北陸電力の原発を運転する技術的能力を疑うべきものなのだろう。

北陸電力の公表資料によれば、地震から2週間が経とうとする今も、約11,600戸が停電し、原発以外の対応だけでも追いついていない。電柱の傾斜、折損、断線・混線の箇所は夥しい。火力発電も故障・停止中だ。

停電・第20報】停電状況および電力設備の被害状況 (1月13日12時00分現在)
2024年1月13日 北陸電力株式会社 北陸電力送配電株式会社

地域の命と健康を預かるインフラが電力であるとすれば、原発は足手まといだとしか言いようがない。発電手段の選択肢から除外することが賢明ではないだろうか。

【タイトル画像】

志賀原発、志賀町役場、オフサイトセンター、「邑知潟地溝帯」の位置関係 (Googleマップより)

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