見出し画像

釜ヶ崎でアミオケが見つけた、オーケストラのもうひとつの形【再掲】

【付記】
本稿は、2021年3月に発行された『「音楽とことばの庭」をことばにする オーケストラコンサート2017-2018-2019』(NPO法人こえとことばとこころの部屋・アミーキティア管弦楽団)に収録された「釜ヶ崎でアミオケが見つけた、オーケストラのもうひとつの形」について、発行者の確認をもらい再掲したものです。また本稿は、2019年7月14日に公開したnote記事「ガラッと変わる、音楽とは何か / コンサートとは何か。——釜ヶ崎芸術大学×アミーキティア管弦楽団」を改稿したものでもあります。

 
アミーキティア管弦楽団、通称アミオケは、ずいぶんと「変な」オーケストラだと思う。はじめのうちはまだ一般的なコンサートも開催してはいたが、近ごろではこの釜ヶ崎を始め様々な場所に出向き、演奏だけでなく、創作やワークショップを行い、時に詩や演劇が加わる。行政の行事や学校の授業として開催することもあった。「企画モノ」という異端扱いぎりぎりのラインでコンサートを制作してきたアミオケは、2021年2月で設立から丸6年になる。

このアミオケが出自としているアマチュアオーケストラのほとんどは、年1~2回コンサートホールで主に古典派からロマン派、時折モダニズムまでのいわゆるクラシック音楽作品を演奏することを目的に存在している。それは戦後プロオケの背中を見ながら積み重ねられてきたアマオケ文化だ。中にはプログラム内容や作品解釈で特徴的なオーケストラもあるが、取り上げるべき作品、会場として選ばれるべき場所、クラシック音楽やオーケストラに特有の作法や慣習は、アマチュアもプロも大枠で同じものを共有している。もっとも“クラシック”と呼ぶのだから、そうした文化を伝統として保守すること、また革新は文化的インテグリティ(首尾一貫性)の中で起こるべきとすることは、コミュニティの命題あるいは前提とも言える。僕もまた、今となっては意外かもしれないが、そもそもそうした文化に憧れてホルンをはじめ、今もなお、できることならどこかのオーケストラに参加してそうした文化を楽しみたいと、ひそかに思っている。

けれども、コンサートを制作する側となるとそれは別の話だ。2008年に僕が大学でオーケストラを始め、2015年にアミオケが立ち上がるまでの間とは、わが国のオーケストラにとってある意味で危機的な時期だった。2008年に橋下徹大阪府知事(当時)が大阪センチュリー交響楽団(現日本センチュリー交響楽団)に補助金を投入することに疑問を呈し始め、その後段階的に補助金は減額され、2011年には完全に打ち切られた。これについて少なくない市民がやむを得ないことだと考えていたことは——この政治的処遇の是非とは全く別に——クラシック音楽やオーケストラの側に立つ人間にとって目を背けることのできない事実だった。他方で、大学に入るまで特に音楽経験のなかった僕は、ようやく慣れ始めた文化が直面する危機を目の当たりにして、「それでも音楽は素晴らしいものだから」という素朴な信念だけで乗り切れるほど、まだオーケストラの価値無謬性を内面化できていなかった。つまり僕は、「オーケストラが社会にとって何の意味があるのか」という言わば「存在をめぐる問い」を原体験として出発した音楽家(あえてこう書く)だった。

2015年にアミオケを始めてからは、「何がしたいのかを明確に言えるコンサート」を作ろうと試行錯誤を続けてきた。なぜ僕たちは、その場所でその曲をそのように演奏したのか。それぞれのコンサートでこれについて語る言語を持つこと、またこう語れるコンサートを作ることが、自分たちの存在を意味づける重要なきっかけになるはずだからである。しかし何をしてもなかなかすでにあるもののマイナーチェンジにしかならない日々が続く中、設立から2年半の時期に出会ったのが、ココルームと釜ヶ崎だった。

興味深い出会いだと思い引き受けてはみたもの、はっきり言って初回は無茶の連続だった。まずアミオケはコンサートごとに演奏者を集めるプロジェクト型オーケストラだ。正直、釜ヶ崎で開催すると言ってどこまで演奏者が集まるのか不安だった。また会場が狭いために、編成を極限まで減らした。ゆえに何を演奏するにしても編曲しなくてはならなかった。しかも、企画から本番までは3か月もなく、十分な練習や演奏者への説明はほぼできなかった。演奏者によっては、1回しか練習に出ることができないまま、そして釜芸とは何かを十分に知ることもないまま本番を迎えていた。そのうえでの暴風雨である。ビニルカーテンでテラスを囲んでストーブを焚いて演奏した。雨の降る秋の夜はたいへん寒い。当然音程は合わない。手足が震えて演奏に集中できない。文字通り「やり切った」、「乗り切った」コンサートだった。

けれども、こんなに大変だったはずなのに、僕たちはこのコンサートをその後も続けてきた。それは、実務的な苦労とは別のところにあるいくつかの発見が、これまでにない新しいコンサート制作の可能性を感じさせてくれたからである。

このコンサートでは、クラシック音楽の中でも有名な作品を数曲演奏するほか、これまでの釜芸ワークショップで音楽家の野村誠さんがワークショップ参加者たちと一緒に作った合唱歌を、改めて僕たちがオーケストラ版に編曲し、当日釜芸の皆さんと一緒に演奏して歌ってきた。参加者たちが好きに思いつき歌った詩やメロディから構成されるこの曲は実に「変」で、一度聴いたら忘れられない中毒性がある「名曲」だ。もちろんその完成度は野村さんの高度なファシリテーション技術に裏打ちされたものだが、関わった人びとの個性がぞんぶんに発揮されたからこその「名曲」だと、僕は思っている。

そして本番では、これをココルームの中庭(テラス)で演奏した。演奏環境はとても辛かったが、他方でそれを忘れさせるくらいの熱気が会場を包んでいた。3回もやると少しは慣れてくるが、初回に味わったあの雰囲気はやはり異様だった。釜芸の皆さんにとってはすでによく知る歌だし、中には作曲に関わった人もいるので、本番当日は大得意で歌ってくれる。ただ、本当に誰も僕の指揮を見ない。とにかくテンポやリズム、アーティキュレーションが人の数だけ生まれてくる。だがもちろん、歌い手はオーケストラを聴いていないわけではない。オーケストラの演奏があったうえで、歌いたいように歌っているのだ。僕はその中で、オーケストラと歌い手との間を取り持つように指揮を振ることになる。ここでは、主役と伴奏という概念はない。おそらくライバル関係と言った方がよい。いずれにしてもこのスリリングな「コンチェルト」の中で、ココルームは当日、普通では考えられないエネルギーに満ち溢れていた。

ところでプロの音楽家とは、あくまで一般論だが、音楽的にも技術的にも優れ、結果として自由度の高い演奏ができる音楽家だ。他方で、例えば子どもは、周囲の目を気にすることなく、技術や知識とは一切関係のないところで歌うことがある。それもまた違う意味で、自由度の高いことだと言える。つまり、プロは最高度に訓練されているがゆえにクリエイティブであるのに対して、子どもは全く訓練されていないがゆえにクリエイティブだ。その中で、僕たちプロではない音楽家は、この両端の間のどこかに位置している。それは、いわゆる子どものように振り切れるには学習してきたことが邪魔になるし、他方でいわゆるプロのように自在に音楽的身体を操るまでにはなれない。僕たちはそういう音楽家なのである。

ゆえに僕たちは音楽をするうえで、平たく言えば、ちゃんと演奏できているかどうかがどうしても気になってしまいがちだ。もちろん、それは間違ってなどいない。ともすれば生まれ来る「聴くに堪えない音楽」など誰のためにもならない。それでも僕たちは、音楽をする中でそういったことに気を取られすぎて、「表現」にまで至らないことがよくある。そこまで考えてみるきっかけは意外と少ない。だから僕たちアマチュアには、ちゃんと演奏できているだろうか、と考えてしまうことから一旦自由になるための仕掛けが必要なのである。

翻って、このコンサートの会場は屋外である。つまり、反響がほとんど期待できず音が散ってしまう。さらには気温も不安定で、時間がたてば簡単に音程が上がり下がりする。加えて歌付きでは、インテンポにならない、妙なルバートがかかる、入るべき場所で入り損ねる。つまりこの環境の中で、音程やリズムを強く意識することは、極論すれば無意味だということになる。もちろんだからド下手でも構わないなどとは微塵も思わないが、とは言え、ちゃんと演奏できているかとばかり気にしていてもどうしようもない、という風になっているのがこのコンサートなのだ。

では僕たちはどうすればよいのか。さきほど「コンチェルト」と表現したように、その時に目の前にいる人びとの歌声とどのように音楽的に合わせていき、またその場の熱気や雰囲気にどのように乗っていくことができるかということに、僕たちは意識を集中すればよい。つまり、いま僕たちができる最高の音楽とは何だろうか、ということに向けて身体が動かさざるを得ない環境こそが、このコンサートの仕掛けなのだ。結果として、録音を聴けば頭を抱えたくなるところが少なからずあるにもかかわらず、居合わせたほぼ全員が間違いなく「あれは楽しかった」というコンサートになった。僕は初回を終えてしばらくの間、お世辞にもよい演奏だったとはとても言えなかったのに、あんなに楽しかったのはなぜだろう、と考えていた。このギャップにこそ、僕たちが忘れかけていた、もしくはまだ出会えていなかった音楽の形があるのではないか。ここに興味を持ったことが、僕がこのコンサートを続けていく意味を感じている理由のひとつである。そしてそれは、日ごろから自由に好きなように歌う釜芸の皆さんとともに作るコンサートだから気づけたことだ。つまりは、僕たちの方こそが釜ヶ崎から学ぶコンサートだったということである。だからこれは決して「訪問演奏」ではない。また、すでにある何かをどこかに持っていくというニュアンスならば、「アウトリーチ」とも呼ばれたくない。

加えて僕が大切にしていることは、演奏する作品の選び方である。1回目および3回目で取り上げた、ヨハン・シュトラウス二世「美しく青きドナウ」は、次のような歌詞のついたとある合唱歌をルーツに持っている。

(前略)……時代なんて気にするな/こんな、時代なんざ!/悲しんだって、どうしようもない/そうだな、そのとおりよ!/苦しんだって、悩んだって、何の役にも立ちゃしないだろう?/だから、楽しく愉快にいこうぜ!

小宮正安(2000)『ヨハン・シュトラウス――ワルツ王と落日のウィーン』中公新書, p.125.

歌詞を付けたのはヨーゼフ・ヴァイルという人物で、この曲はもともとウィーン男声合唱協会にシュトラウス二世が贈ったワルツだった。それが後にシュトラウス二世自身の手によってオーケストラ編曲され、改めて荘厳な歌詞が付け直されて、今ではオーストリア第二の国家とまで言われるようになった。

そしてこの歌詞には、当時プロイセンとの戦争に敗北し、気持ちのやり場のなくなったウィーンの市民たちを慰める意味が込められていた。加えて、当時は労働者階級の社会進出によってこれまでの社会構造にも変化が表れてきており、その意味でもそれまで社会の主役だった「市民」が追い詰められていた時代でもあった。

僕たちは今も昔も、ただ生きているだけなのに、政治や経済というどうしようもなく強いうねりにしばしば巻き込まれる。そして19世紀のウィーンにも、今日の釜ヶ崎にも、そんな中でも一歩ずつ自分なりの毎日を暮らす人びとが存在していた/している。釜ヶ崎とはかわいそうな町でも危ない町でもない。それぞれに重みある人生を持つ人びとの集まる町なのだ。ここ釜ヶ崎で僕たちが「ドナウ」を演奏することは、僕たちが釜ヶ崎をそのように理解しているというメッセージである。このように作品と場所とがそれぞれ持つコンテクスト(背景)を重ね合わせて演奏する作品を選んでいくことの重要さと面白さを、僕はこの企画から学んだ。だから少なくとも僕にとっては、盛り上がれば曲は何でもよい、というわけにはいかない。

また、3回目で紙芝居劇団むすびとの共演に向けて、紙芝居劇『文ちゃんの冥土めぐり』にオーケストラ伴奏曲を制作するプロセスでは、ある発見をした。この物語の中間部には白鳥が出てくることから、劇団員はこれまでチャイコフスキー『白鳥の湖』の「情景」に合わせて踊っていたという。しかし改めて過去の資料を確認したところ、原作者である浅田浩さんは、シベリウス『レンミンカイネン組曲』の中の「トゥオネラの白鳥」から着想を得ていたことが分かった。トゥオネラとは、フィンランドの民族叙事詩『カレワラ』の中で、この世とあの世の境を流れる川だとされている。僕はここで初めて「冥土めぐり」の意味が理解できた。なので、曲を制作する際にも、チャイコフスキーではなくシベリウスをオマージュするパートやメロディを企画した。やはりここにおいても、選ばれる曲には意味がある。そこにこだわることで生じる面白さ、そしてそうしてできた曲を通して改めて原作者への思いにたどり着くことに僕はクリエイティビティを感じている。

このような釜芸での経験は、僕が長らく問い続けてきた、何がしたいのかが明確に言えるコンサートを制作するためのヒントをくれた。それは、演奏する場所や関係する人びとの持つコンテクストと、作品やパフォーマンスの持つコンテクストとが交差するところにコンサートを企画するということである。これは、いわゆる橋下ショックを原体験とする僕の現時点での到達点だ。だがその「ショック」が、自立的経営を促すという意味であり自力でホール客席を埋めるようなコンサートを作れという号令だったのだとしたら、そんな広くたくさんの人が聴きに来るような普遍的なコンサートどころか、ローカル中のローカルを志向するようになったことは、自分で言うのも変だが少し面白い。僕はアミオケを始めた当初、実施する意味が普遍的に理解されうるコンサートにこそ価値があると思っていた。けれども釜芸を経験してみて、(コンサートに限らず)存在の意味を深く共有できる相手は、そもそも極めて限られているという、当たり前なことに気づいた。

今この場所で、この人たちが聞くからこそ、この人たちが演奏するからこそ、この作品を取り上げるからこそ意味のあるコンサートとは、極めて具体的なコンサートである。具体的であるとはローカルであるということであり、その意味でこのコンサートは、限られた特定の人びとを念頭において制作されている。だが、だからこそ起こったある種の熱気に、ふいに呼ばれて訪れた人も興奮せざるを得なかった。このコンサートは実に、開いたり閉じたりしている。

結局このやり方では「自立的経営」などからは程遠いのかもしれない。他方ここでは、まちづくりや市民エンパワメントといった観点から、「オーケストラが社会にとって何の意味があるのか」という問いに応答してみたい。例えば、ここで紹介したような曲の選び方を伝えることで、人びとは地域のことをより深く理解できる。また制作側も、作品やパフォーマンスをきっかけに地域を知り、人に出会うことができる。それは音楽を通したツーリズムだ。こうしたことは、オーケストラが(改めて)社会の公器と認められ得る、ひとつの可能性である。

少なくとも20世紀後半以降、わが国のオーケストラは市民を「消費者」として扱い、演奏を「商品」として提供してきた。それは、ひとりひとりの音楽家がどのように演奏と向き合ってきたかとは別のところにある、興行業というオーケストラの「産業」的側面の話である。そのような商品提供者としての立場が社会で前面化するならば、オーケストラは、需要を満たす商品を提供するならどの楽団でも構わないという「交換可能」な経済主体とされるしかない。そしてあの「ショック」も、この交換可能性と無関係ではないだろう。他方このコンサートでは、「興行」をはるかに超えた関係性の中で実現し、継続してきたからこそ、釜芸側にも、僕たちアミオケ側にも、毎回いろんな気づきや発見があった。今さら別のオーケストラでは成立し得ないという交換“不”可能性が、ここにはある。

もちろん、集まる演奏者たちにも意味を感じてもらえないとコンサートは成立しない。だからアミオケを僕の思想だけで動かすわけにはいかない。そして、僕がこのように書いたところで、実際にコンサートで他の人びとがどのように感じたかは、僕の考えとは無関係に多様なはずだ。このコンサートは何をどこまで成し得たのか。この報告書を作る過程で、僕が思い至らなかった声をいろいろと聴くことができて、本当にありがたく思う。僕たちのこれからは、その声たちなくしてはあり得ないからだ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?