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おせっかい【エッセイ】二五〇〇字

 過去に、『おせっかい』でこんなことを書いたことがある。

 10年前、現役だったころ。取引先のYさんとわが社スタッフHの女性2人との、いきつけの寿司屋(写真の店)での食事会のこと。おふたりが着いてすぐ。ダイエット中のHに、『炭水化物が人類を滅ぼす』という本をプレゼントした。するとYさんがおっしゃった。「今からお寿司を食べようとしているときに、渡す本じゃないでしょ!」と。結果、値の張るネタをたらふく食べられてしまった。まさにお高くつく余計なお世話だったのだ。
 某就職斡旋会社の「おせっかいな言葉」の調査で、4位に「やせたら」があるそうだ。1位が、男女とも「結婚しないの」。多くのかたが「あるある」だろうけど、ご多分に漏れず、私にも、ある。
 30代半ばで初めてお見合いをすることになった。ともに50代でこの世を去った私の両親の縁組みで、父方と母方のいとこが結婚したのだが、そのお二人さんがその恩返しにと…。いちおう義理だけは果たし、どう断ろうかと悩んでいたときに、先さまからお断りの連絡が。「そもそも、結婚する気がないようなので」が、理由だった。その後、そのいとこ夫婦は諦めてくれたようで、最後(たぶん)になった。

 こんな話なら「笑い噺」のようなものだが、先日(12月16日)の朝日新聞を読んでいて、ある見出しが目に入った。
「『おせっかい』していいですか」
 同社記者の岡崎明子さんのコラムである。彼女は、こう書いている。
 <師走が訪れるたびに、胸が痛む。その日、私は東京・渋谷駅の通路を娘と歩いていた。確か、子どもの習い事に向かう途中だったと思う。30代ぐらいの母親が、4、5歳の男の子を罵倒している場面に出くわした。「てめえ、ふざけんなよ」「一人で帰れ」。その子は「ごめんなさい」と泣きながら謝っている。何とか救いたいと思った。でも「何か事情があるのかも」「立ち入るのは、おせっかいではないか」とさんざん迷った揚げ句、何もできなかった。後味の悪さは、何年経っても消えない>
 こういう体験を持つ方はいるだろう。その岡崎さんの気持ちだけでも読む側は救われる思いになるが、彼女は、行動する。
 こう続く。
 <「アクティブ・バイスタンダー(行動する傍観者)」という言葉を知り、「これだ」と目が開かれる思いがした。ハラスメントや差別を受けている人に適切に介入する第三者のことで、事態が悪化するのを防ぐ効果があるという。一般社団法人ジェンダー総合研究所が実施している研修を、さっそく受講した。(中略)(研修の中の)ある言葉にショックを受けた。「何もしないということは、目の前のハラスメントを容認することにつながります。差別行為を見過ごすことは、『中立』ではなく、差別への加担になり得ます」>

 そして彼女は、パントー・フランチェスコ著『日本のコミュニケーションを診る』の中にヒントを見出す。

 <パントーさんは、困っている他者の心の縄張りに足を踏み入れる行為は、相手と信頼関係を築くきっかけにもなれば、相手を不愉快にさせる可能性もあると指摘する。ただし「必要なら助けるよ」というコミュニケーションを取れば、相手を助けることも、迷惑をかけないことも両立できる可能性がある。それなのに日本社会は「迷惑をかけること」への不安が強すぎ、声をかけることさえ躊躇してしまうのではないか、と。ちなみに、英語に日本語の「おせっかい」にぴったり当てはまる言葉はないという>
(中略)
<(研修に話を戻すと)介入するかどうかを迷ったときは「自分がその行為を見過ごしたくないかどうか」が判断基準になるという>
(中略)
<そして、ハラスメントの加害者と直接、対峙しなくても、別の人に助けを求めたり、スマホで記録したり、全く関係ない話をして注意をそらしたりすることも、立派な介入になるそうだ>
(中略)
<学校や職場でのいじめ、電車内の痴漢、飲み会でのセクハラ……。私たちの社会は、「行動する傍観者」が必要な場面にあふれている。(先の研修の講師によると)研修に個人的に参加する人の9割以上が女性で、実際に被害にあったり、介入できずに悔しい思いをしたりといった原体験を持つ人が多いという。心の痛みは、他者を思いやる原動力にもなる。他者に迷惑をかけてしまう自分を肯定することは、他者とつながる第一歩にもなる>

 思った。「ジャニーズ問題」もそうではないか、と。ジャニーズ事務所関係者、マスコミ、スポンサー企業、そしてファン。すべてが単に「傍観者」に過ぎなかった、いや「加担」したに等しいのではないか。行動がなく、「黙認」したまま。

 冒頭の私の体験に追加がある。
 4年前の酷暑の日。ウォーキング中に信号待ちしていると、横でバタンと倒れる音が。ひと回り上の80代位のお年寄りだった。唸っているので、「お父さん、そのまま。そのまま。動かない方がいいですよ」と、(頭を打っていたら動かさない方がいいと聞いたことがあるので)起き上がろうとするのを押さえ込んだ。すると、「ここ、熱ぇんだよだヨ~」と、灼熱のアスファルトを指さした。すぐに近くの交番の警官がきてくれたのでバトンを渡してその場を離れたのだが、「熱ぇんだよだヨ~」と言えるくらいだから、大事おおごとでなかったと思いという気持ちがどこかにあった。

 何度か、「おせっかい」をしなければならないことを経験してきた。
先日、「エッセイ教室」が終了したあと、呑み会の店に向かうためにタクシーを拾おうとしていたとき、車の影で手を挙げている一回り上の80代らしきひとが見えていた。しかし、私に気づいた運転手が前で停まってくれたのでそのまま乗車したのだが、後味が悪く、「なぜ譲ってあげなかったのだろう」と、いまでも悔いている。「思いやり」に欠けていた。常に「おせっかい」の心を持っていれば…。

 先のコラムで、岡崎さんはこう締めている。<来年の抱負。絶妙なタイミングで「おせっかい」できる人になります」>と。私も、見習って、来年はもっともっと「おせっかい」をしてやろうと思う。せめてタクシーくらいは譲ってあげようじゃないか。競うようにタクシーを捕まえようとする竹野内豊演じる人物ではなく。

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