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テレビ【エッセイ】

 大宅壮一が「一億総〇〇化」と言ったころ、テレビなるものが家族になる。前回の東京オリンピックの五年前、小学三年生の時。それ以来、「テレビっ子」の一人として、六〇年近く、「きょうだい」のような付き合い。学生時代も小型のテレビを部屋に置いていたぐらい。
 「巣ごもり」中。コロナ禍の報道番組(羽鳥のモーニングショーが先取りしている)を観て正しい情報を吸収したり、夜は映画を観つづけたり、最近では野球中継が癒してくれていた。
 その「きょうだい」が突然、消えた。
 テレビをオフにしてウォーキングに出かけたのだけど、一時間後に戻ってオンにすると、画面が黒いまま。取説を見ながら復旧を試みるも、ウンともスンとも言わない。
 十二年たっているので、流行りの4K、有機ELにそろそろ買い替えなければと、考えていた矢先なだけに、その偶然にびっくり。あまりにもタイミングが良すぎるので勘ぐった。メーカーが遠隔操作で壊したんじゃないか、と。
 社会から取り残されたような寂しさがあった。
 だけど「きょうだい」がいない一週間、これまでにない時を過ごした。一日中FMやCDで音楽を聞きながら、気づいた。頭の中で自分と自分が会話している、テレビを観ているときには画面の中に入りこんでいた、ことを。
 最近の若いひとは、テレビを観ないし、新聞も本も読まないと聞く。情報はスマホ、Yahooニュース。そんな情報源しかないなら、政治にも無関心になるはずだと思っていた。だけど、もし若いひとも、そんな自問自答を繰り返しているとすれば、まんざらでもないかもしれないな、と。どうなのだろう、思考しているだろうか。
 大宅の言葉じゃないが、卒寿を超えた義父はこう言い放った。「吉本のバラエティ文化が日本をダメにする」と。

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